翌日の朝食後、合宿所を出発するまでに時間があるので、おのおの自由に過ごしていた。とはいっても、まわりにあるのは自然だけなので、やることはそうあるものでもない。
 建屋内でお喋りに興じたり、観測場となった玄関前の広場で過ごしてみたり。少し足を延ばして、近くにある川で水遊びしたり。
 水浸しになってはしゃぐ声から距離をとって、リアは岩の上に座っていた。一緒に笑っていられる気分ではないくせに、建屋で悶々と過ごすのも気が進まず、誰かが楽しく過ごしている空間の近くで気持ちを紛らわせていたかった。
 木々に日差しが遮られた場所を選んだだけあって、石の感触はひんやりとしている。川べりにあるので足先だけを水に浸していた。水面に反射する光が時折リアの視界を白く染めた。
 昨夜見た、諒の姿が脳裏にこびり付いている。
 唯衣は優輔に想いを寄せていた。優輔もたぶん、同じ想いを抱いている。昨夜の遣り取りは断片しか拾えなかったけれど、近いうち告白するという宣言だった筈で。傍で二人を見てきたから、たぶん間違いはない。
 うまくいかなくて今の関係を壊すのが怖いと唯衣は言って、今まで勇気を出せずにいた。優輔から言ってもらえるなら、問題は無くなったということだ。
「うまくいけば、いいな」
 受け取る相手のいない独り言。それでも、声に出して言ってみたかった。音にすることで現実になるのであれば、これは何度だって音にしたい。心からそう思う反面、複雑な気持ちも否めなかった。
 唯衣が優輔を見てきたのと同じくらい、リアも諒を見てきた。諒が誰を気にかけているかも、ずっと見てきたから判る。優輔が了解を得ようとする原因は勘違いなんかではない。
 切なさで胸の内側が満杯だ。昨日や今までの、表情ひとつひとつを思い出す毎に、ちくちくと鋭利な痛みが襲う。
 足を水から出して体育座りをすると、組んだ腕を膝の上に乗せた。頭を置く。目を閉じると耳に届くのは、川の音と、離れた場所から聞こえてくる楽しげな声だけ。
 闇に閉ざされるととたんに音は遠ざかり、リアの意識は深い闇の中へと引き込まれていった。

 ――《夢》は、変化する。
 リアの生きる流れの中で、何らかのきっかけごとに、それは起きているようだった。

 純黒の世界は変わらない。展開も、ほぼ変わりない。大きく変わったのは、普通に音があることだった。素足で歩くリアの足音がちゃんとある。衣擦れの軽やかな音がある。
 唯衣を前にして、今まではどんなにリアが声を張っても音にならなかった。今は、はっきりと言葉となって、叫んでいた。悲鳴に近い叫びだ。
 唯衣には届かない。倒れ、事切れた。親友の姿は消え、世界は白へと一転する。漆黒の手が無数に追い縋る。ざわざわと音を立て、ものすごい速度で増殖しながら。
 がむしゃらに、脇目もふらずに走って。――気がついたら、手に剣が握られていた。
 リアの為にあつらえたかのように、そこから産まれたかのように、しっくりと馴染んでいる。
 無我夢中で振り廻した。漆黒を切り裂き、薙ぎ棄て、消えていく様を、リアの目はしっかりと見ていた。目蓋の裏に映像を焼き付けるように、記憶に刻まれていく。寒気がするほどにおぞましいのは、斬りつけた手が悲鳴を発し、よじれ千切れながら消えていくさま。それ以上に、剣から伝わってくる、ものを斬るという感触だった。
 未体験の、感覚。初めて感じる、厭わしさ。
 漆黒の手は、外観はゲル状なのに手ごたえはしっかりとあった。想像でしかないにしろ、人間を斬っている錯覚を起こしてしまいそうになる。飛び散る黒い液体は、血液を連想させた。
 今すぐこの状況から抜け出せるのであれば、どんな方法でも縋りたかった。リアの懇願を嘲笑うように、目は覚めない。現実に、戻れない。
 剣を必死に振り、こないでと、叫ぶしかなかった。己の悲鳴が耳を貫く。ひとつの手に足を捕まれ、バランスを崩した。倒れ込み、すぐさま上半身を起こすと振り返った。
 生え続ける手が、増殖の音を更に大きくしながら、リアの躯をよじ登ってくる。払っても払っても、次から次へと。尻餅をついたまま後退して、剣を振り廻す。闇雲に、ひたすらに。突然背中にあたった障害物に進路を塞がれ、弾かれたように見上げた。
 諒が立っていた。
 驚愕に目を瞠る。言葉を失ったリアの腕を掴み、引っ張り立ち上がらせた。リアは唖然と見つめるしかなかった。頭の中は混乱するばかりで、諒の落ち着き払った静かな微笑が別人のものに映る。
 背後から尚も続く増殖の音に我に返る。振り返りしな薙ぎ払った。剣は空を掻く。おぞましい光景は跡形もなく消滅していた。真っ白な世界が無限に広がっているだけだ。
 思わず零れた安堵の息は震えていた。呼ばれた気がして、慌てて向き直るも、諒の姿は消えていた。一人、白い空間に取り残される。
 諒を呼んだ。不安げに掠れる声に応えたのは、唐突に放たれた蒼銀色の光。手の中の剣が強烈な閃光を迸らせていた。不思議と眩しくはなく、ひと際強く閃いた次の瞬間には、リアの腕へと吸い込まれていった。慄き、硬直した。あっという間の出来事で、あとには右腕の内側に紋章のような痣が残されていた。こするも、滲みも消えもしない。
 夢なのだから何が起こってもおかしくない。現実ではないのだ。言い聞かせる傍らで、リアの理性は反することを受諾している。夢でも幻でもないと、確信している。
「……リア、」
 混乱を極める中の音に、思い切り肩が揺れた。
 立っていたのは、蒼銀色の瞳を携えたカイリだった。星空の下で一瞬だけ見えた色。微笑みを浮かべ、同じ色を宿す声が続けられた。
「やっと、逢えた」
 戸惑う暇も与えてはくれない。
 一陣の風と共に、カイリの背中から大きな対の翼が現れた。彼ごと包み込んでしまいそうなそれは、小さな光を無数に纏っていた。まるで陽を受けて反射する降り始めたばかりの粉雪だ。真っ白な翼が軽やかに柔らかくはためいている。たおやかな風がリアの元まで届いた。
 異質な姿に、目を奪われる。なんて綺麗な。同時に、懼れる。
 カイリから目が離せぬまま、首を横に振り続けた。お願い、終わって。《夢》を、終わらせて。一心に祈るのに、結末へと向かう過程をなぞらえていく。惨憺たる姿にあって、血を流すカイリはもう、微笑んでなどいなかった。
 咆哮ともつかぬ悲鳴が耳をつんざいた。全身から、ありとあらゆる箇所から血が吹き出し、白銀の翼が、カイリの背中から、生えているであろう箇所から、無残な音をたて、赤い飛沫を吹き出しながら千切れていく。苦痛に歪む顔から鋭い視線だけが、リアを捕らえて離さなかった。呻く声が耳にこびりつく。
 茫然と立ち尽くすしかなかった。怯えるしかなかった。夢と現実の境目が判らない。――そこで、唐突に目が覚めた。
 飛び込んできた周囲の音に、現実へと戻ってきたのだと認識した。部のメンバーがはしゃぐ声がはっきりと届く。金縛りにあった直後のような、倦怠感が全身を包んでいた。息苦しく、呼吸が巧く紡げない。
「…っ。もう、やだ…!」
 涙声だった。呼気が洩れるほどの音量しかない。きつく躯を折り曲げる。膝の上に組んだ腕の中に顔を埋めた。
「明石?」
 気配が近づいてくる。ぎこちなく顔を上げるとカイリが近づいてくるところだった。
「…平気、か?顔色悪すぎ」
 虚勢をはって頷くのも正直に首を振るのもできず、見つめ返すのが精一杯。ひどい眩暈がして、方向感覚を失う。躯が大きく傾ぐ感覚だけは確かにあって、カイリの腕が力強く受け止めた。
「明石っ!?」
 顔が間近にあった。すごく近いのに、焦点が合わなくて霞んで見える。肩を掴むカイリの手の力強さだけが唯一、現実に留まっているのだとリアに実感させていた。
 安堵と共に力が抜け落ちて、カイリの腕の中へと深く沈んでいった。
「おい。明石?」
 自力で体勢を保てる自信がまるでなかった。カイリは明らかに戸惑っていても引き離そうとはせず、しっかりと支えてくれていた。寄り掛かっているのは楽で、カイリは優しく受け留めていてくれて。気持ちを張ってまで抗うことは不可能だった。


[短編掲載中]