[番外編] もうひとつの流転

 時は流れ続けているから。
 だからどうか、変わることを畏れないで…。


 二人が知り合ったのは、六歳の時。
 井ノ瀬隆生――通称ノセは、彼の第一印象には眉を潜めた。“人懐っこい笑顔を張り付けた暗い奴”と称して、ことあるごとに引っ張り出しては揶揄の種に使用する。
 後々になって知り得た事実に基づき、初対面の彼の隠していた心情を悟った瞬間があったのだが、後にも先にも、そのことに関して謝ったことはない。彼がそれを望んでいないのだと、掌握済みだったから。
 だから相変わらずな感じで、時折口にする。妙な気遣いは、彼には不要だ。




 ノセは飛行機の音が嫌いだった。正確には、機内にいる時の飛行音だ。
 限りある空間に閉じ込められている上に、その音は更に圧迫感を強調させる。眼下に雲海を望み、もこもこした綿のような雲の上を機影が颯爽と滑っていた。今更変更のきかない状況に早々に見切りをつけ、ベルト着用サインが消灯すると同時にポケットからMP3プレーヤーを取り出した。イヤフォンを装着する。密閉型インナーイヤフォンの為、多少大音量で音楽を流したところで音洩れは心配ない。常時よりも数ポイント音量を拡大し、目蓋を降ろした。
 数曲聞き流している内に睡魔が襲ってくる。と、唐突に肩を叩かれ、ビクリと反応した。見遣ると女性のキャビンアテンダントが微笑みを携え、手を差し出していた。まず相手の顔を見、唇が動いているのを見、慌ててイヤフォンを外す。
「すんません。何か、」
 言いかけで、彼女の手に乗っている物に目が止まる。畳まれた紙だ。
「こちらはお客様のでしょうか?」
「せや。おおきに」
 受け取り、笑みを返した。会釈をし、去っていくきりりとした後姿を見送った。
 再度イヤフォンを装着し、手渡されたばかりの紙を見下ろす。小さく畳まれ、どちらかと言えばシワシワだ。ノセにとって、そう大切でもないものだった。失くしたと思い、それすらも忘れていたほどだ。ポケットに入っていたのだろう。プレーヤーを取り出した時に落としたのかもしれない。
 無造作に紙を広げていく内に、笑いが込み上げてきた。声を立てるわけにはいかないので噛み殺してみたが、口端は持ち上がってしまう。
 ほんま、理由が阿呆らしいわ。ガキくさいやっちゃ。
 これを送りつけてきた彼の思考経過は容易に想像がついた。物理的距離が離れてから半年以上が経っている。だが、それ以前の、十年間過ごした長野での彼をノセは知っている。半年の距離など、あってないようなもんだ。
 彼が引っ越していってからもずっと、連絡は取っている。大半はメールだった。電話で話したのは、彼が北海道に住み始めたばかりの頃に数えるほどだ。別段、密に連絡を取り合わなくても友情が稀薄になるとは思っていない。たぶん、彼もそうなのだとノセは決め付けていた。
 いちいちコトバで確認するなど、野暮ったい。てか、男同士でそれはキショイってものだ。
 そんな彼が半年間で初めて、否、知り合って以来初めて手紙を寄越した。前触れなく、突然に。
 前日に他愛もない話題をチャットしていたが、手紙には一切触れることがなかった。だから、開封前には良からぬ想像が湧いて、妙な胸騒ぎを起こした。
 中身は何のことはない、写真をカラーコピーしたものが入っていただけだった。
 A4サイズの普通紙に、L判サイズの写真が印刷されている。コンビニのコピー機に無造作に配置し、適当なモードを選んでコピーしました、ってくらいの不鮮明さだった。丁寧な仕事とは、口が裂けても言えない仕上がりだ。
 彼らしいといえば、らしいのだが。
 何も書かれておらず、手紙らしいものも見当たらず、封筒を覗いたり、床にメッセージが落ちてはいないかと捜すも見つからない。どないせぇっちゅーんじゃ、と文句を零しつつ、紙を持ち上げてみた。蛍光灯に透けて、裏に何かかが記入されているのを発見する。
 見慣れた文字が、書き殴られていた。「いっぺん遊びに来い」と。重要さを微塵も感じられなかった。そして同時に、成程な、と呆れた。
 開封直前の己の感情を思うと、すぐさま返事をするのも癪なので、数日放置した。彼から電話がきたのはたぶん、一週間くらい経ってからだったと記憶している。
「さっさと連絡寄越せ」とのたまう彼に「田舎からやと時間かかるなぁ。今しがた届いたんや」とうそぶいた。
 いいところだからお前に見せたい、と散々勧められ、長時間粘られたのち、折れた。一度行ってみたかった土地ではあるし、何より、写真の右端に映る『彼女』に会ってみたかった。
 北海道で暮らし始めた彼からの話題の大半は、彼女で埋められている。

 そんなこんなで、手紙が届いてから数か月後、バイトでコツコツと貯めてきた貯金はたいて、ノセはこうして飛行機に乗っているのだった。
 写真をカラーコピーするなどと小癪な真似をしでかした彼の鼻を、どうやって明かしてやろうかと考えると楽しくて仕方がない。ノセと彼とは出逢ってからずっと、こんな遣り取りを繰り返している。
 彼の高テンションは小学校に転校してきた時から変化はない。あくまで、傍目では、なのだが。
 ノセは近いところで長野での十年を知っているから、彼の抱えている闇も傷も、見せ掛けだった本質が本物に変わった瞬間も、知っている。だからこそ、今の彼が本来の彼でいれる環境で良かったと、心から思える。
「お…」思わず、零していた。
 曲が変わり、まつわる思い出の深さに自然と顔が綻ぶ。
 あいつ、好きやったもんなぁ。この曲。
 あの場にいた誰もが身体中ぼろぼろで、呻いて地に落ちていた連中の中心に、ノセと彼もいた。顔を見合わせ、互いのあまりのやられっぷりに、笑った。
 彼がこの曲を口ずさんだのは、喧嘩の翌日だった。最奥に仕舞いこんでいた部分を、ノセに打ち明けてくれた日だ。傷は完全に癒えていなかったし、口の端が切れて痛いと言いながらも、気持ちよさそうに唄った。
 あれが転機だったんやろな、あいつにとっては。
 数時間後に再会する友を思い浮かべ、第一声は何にしてやろうかとほくそ笑む。


◇◇◇


 ――六歳。
 この日のノセは、至上最高に機嫌が悪かった。愛想笑いの芸当など持ち合わせていなかったし、持っていたとしても使わなかっただろう。
 大袈裟だけれど、ノセにとっては、今自分こそが“世界一の不幸者”の気分だった。この歳頃はまだ、自分を中心に世界が廻っていると考えても、許される年齢だ。
 父親の転勤のおかげで転校を余儀なくされ、友達と離れ離れになった。入学してやっと学校生活というものに慣れ、仲のいい友達が出来た時期の転校だ。
 友達グループが出来上がる速度というのはどの学校でもそう大差はないだろう。
 つまりは、新しくやってきたこの学校で、いちから気の合う友人捜しをしなければいけない。仲のいい友達を見つけ始めた中に混ざり込んで、だ。そして、前の学校ではいくら仲良くなったとはいえ、早々にいなくなったクラスメイトのことなど、すぐに忘れてしまうだろう。その現実を思うと、少し物悲しくなる。
 加えて、言葉遣いが違う土地では、大きな問題だ。
 本日より新しく担任になる先生の机の傍に立って、ぶすくれていた。挨拶を兼ねて職員室を訪れていた母親は、ついさきほど帰っていったばかりだ。
「もうちょっと待ってくれなぁ。あと一人、隆生と同じく今日から転校してくる子が、」
 机上で書き物をしながらノセに話し掛けていた担任は、ふと顔を上げ、言葉を止めた。送られた視線の先をつられて見る。戸口に一組の夫婦と、ノセと同じくらいの背丈の少年が立っていた。促されて近づいてくる。
 事前に聞いてはいたからすぐにピンときた。自分と同じ日に転校初日を迎える奴がいるということ。それが目の前に立った少年であることも。
 なんや、随分過保護やな。両親揃ってくるなんて。
 ノセの母親は、ノセからしてみたら「頼んでもいないのに勝手についてきた」だ。一人で行けると言い張るノセに、母親は頑として聞かなかった。転校を心底嫌がっていた以上、逃げ出すのを危惧していたのが濃かったのかもしれないが。
「揃ったな」
 担任は立ち上がり、両親と挨拶を交わす。書類を受け取ったり、連絡事項を返したりで庶務的な遣り取りの後、では息子さんはお預かりします、と爽やかに言い放った。
 両親が会釈して職員室を出て行くとしゃがみ込んだ担任は、二人を向かい合わせに身体を回転させる。
「ほれ。まず自己紹介しろ。転校生同士、この学校で最初のクラスメイトと対面だ」
 なんや、それ。半ば呆れたのを表に出さないのは、六歳ながらによく出来たと自分を褒める。けれど、ノセは口を開かなかった。代わりに同じ目線の転校生同期がニパッと笑う。
「水原侑希、よろしく」
 ?と思った。直感が訝しんでいた。正体不明のもぞもぞとした感触が胸のあたりにある。
 自分自身の苛々の所為かともよぎったが、どうやら違うらしい。でも理由が不明だ。そうこうしている内に担任の無言の催促に、渋々従う。
「――…井ノ瀬隆生」
「んじゃ、そーゆうことだな」
 何がそういうことなのか全くもって不明だが、担任は二人の手をとり強制的に握手をさせた。
 目の前の侑希は笑顔だった。実に清々しいくらいの、笑顔だった。――それが、違和感だった。
 作られたもののようで。裏に何かを隠す為に、必死になって作っているように。
 ノセから見た、侑希の第一印象。
 うさんくせぇ。


[短編掲載中]