――中学三年生。
 ノセと侑希は友達だった。それも結構近しい位置関係で。小学生時代の担任の思惑通りと言われても仕方ない展開を、時々話題に出しては笑い飛ばしている。
 うさんくさい、は今や『一番に信を置ける奴』に昇格していた。
 転校初日を振り返り「あん時はホントに、不幸を一手に背負ってる気分やった」とノセが自嘲すれば、侑希は必ず「初恋の子とそんなに離れ難かったか」と茶化す。
 初恋と呼べるほど甘いものだったかは判然としないが、確かに気になる子はいた。いたが、素直に認めることは一度もしてこなかった。恥ずかしさもあったし、見透かされたのが悔しかったからだ。
 三年生に無事進級して、二度目の同じクラス。前後並びの席。
 これまで物理的な距離が離れても、友達付き合いの密度は薄まったことはない。中学校ラスト一年、受験一色になるこの一年が、侑希とクラスメイトでいられることは正直嬉しかった。本人には絶対に伝えない事項であるが。
 初対面の時に感じた違和感は、未だ払拭しきれていない。当人に問うたこともない。
 侑希が笑顔でいる度、その裏に隠れている本物を見つけてやろうとは意気込むのだが、確たる心積もりの元、笑顔は作られているようで。そうそう容易ではなかった。


 放課後。掃除当番。時折ふざけながら、ひたすらダラダラとホウキを動かしていた。
 何気に放った質問に答えた侑希の回答に対し、ノセは素っ頓狂な声を出していた。騒然とする放課後の雰囲気内では気に留める者はいない。
「なんやて!?お前進学せぇへんの!?」
 中学三年生になりたてというのは、本格的な意識改革にはまだ遠い、漠然と将来なんかを考えている時期だ。否、本来それではマズイのだろうが、少なくともノセはそうだった。そんな漠然とした考えを何気なく会話に練り込んだ時だった。侑希は就職を選択していると言った。
 これまで将来のことなどこれっぽっちも意識してこなかったノセでも、進学すると微妙に改革が起こったらしく、稀有な話題を持ち出したのだけれど。
 自分は進学しか頭になかったので、根拠はなくとも、侑希もそうだと思い込んでいた。
 あっさりと言いのけ、つらっとしている侑希に、同じ質問を繰り返す。躊躇いなく侑希は頷いた。
 ノセは不満全開で唇を尖らす。
「聞いてへん」
「言っとらん。訊かれなかったし」侑希は淡々としたものだ。
「友達やんな?俺達」
「さむっ」侑希は大仰に二の腕あたりをさする。
「喧嘩売っとんのか?買うで」
「熱くならんといてや」などと口真似をする侑希をノセは睨み付けた。
 まさに寝耳に水だ。一言も相談無しで断言か、と怒りがふつふつ湧きかけて、自分に相談したところで力になれるとも思えない、と萎む。が、すぐに(言うてくれたかて、ええやろ)と腹が立つ。
 目の前の飄々とした態度――それはいつもと同じではあるのだが、どこか距離を作られた感があって気に喰わない。
 昔から笑顔の奥にある“違和感”を、自分にまで向けられているのが、気に喰わない。
 息巻いて喰って掛かろうと空気を大きく吸い込んだ時、侑希の中途半端な笑顔に遮られた。追撃制止を懇願するような色合いが滲んでいる。
「言えないんだ。進学したいとか」
 すぐさま理由を問えばいいのかもしれない。けれど、侑希の表情を目の当たりにしてしまったら、追撃などできるわけがない。
「働けって言われとんのか?」
 一番可能性の低い理由を挙げてみる。真っ先に拒否してもらいたいからだった。
 侑希の両親には何度も会ったことがある。家を行き来する仲だ。生活に困窮しているようには見えなかったし、進学を反対し就職を強要するような人達にはとても見えない。
 人は見かけによらない、とも言うけれど何度も接していれば、いくら人生経験の短いノセでもどんな人間かくらいは判るものだ。
 一人息子を中卒で働かせるなど、あってほしくない。今日日、最終学歴が義務教育など、一般的な家庭にいる侑希にあってほしくなかった。
「違う」
 気を悪くした様子を見せずに侑希は即答否定した。安堵したのも束の間、他なる可能性を挙げようとして、今度は別角度からの声に遮られる。見下した感たっぷりの、不快な口調だった。
「遠慮するよなぁ、そりゃ」
 いつの間に入ってきたのか、隣のクラスの連中だった。常識を逸した言動がとかく目立つ、学校の厄介者の集まりだ。名前と不評判は知っていても、挨拶すら交わしたこともない。それが直線的に、侑希を捕らえていた。まるで標的を狙う獣だ。
 咄嗟に侑希を見る。侑希はノセを見ていた。常の飄々とした体勢をとってはいるが、装っているのだとノセには判った。戸惑いと懸念が目に表れている。
「なんや。お前ら」
 蔑む視線を睨み返す。不愉快極まりない。
 教室内は水を打ったように静まり、動向を見守っている。好奇心とほんのちょっとの危惧を孕んだ視線が侑希に向けられていた。
「てめぇに話し掛けてねぇよ」
 ノセに一瞥くれ、先頭に立っていたリーダー格の後東は進み出て侑希の正面に立つ。
「俺に用?」侑希は怯まない。
 不快も訝しみも、勝手にぶつけられた人を馬鹿にする態度に対する憤りも、表に出ていない。無機質なまでの無表情だ。ひどく冷たい目だった。
「掃除の邪魔なんだけど。自分らの教室戻れよ」
 唾棄するように言い放った侑希を鼻先であしらい、台詞がかった言い回しで、後東は周囲に高らかと言い募った。
「本当の両親じゃねぇから、遠慮してんだろ?美しき、偽の家族愛ってところか?」
「は!?」
 即座に反応したのは、ノセだった。「テキトーぬかすなや」
「だったら、本人に訊いてみろ」
 噛み付く勢いのノセを歯牙にもかけず、後東は侑希を直線的に見たままだ。そろりと矛先を動かし、侑希を見た。その動きを視界の端で捉えていた侑希は、遅れてノセを見た。
 一瞬だけ、ひどく微妙に、侑希の表情が歪んだ。ように見えた。
 俺は聞いとらん。というひねくれよりも、信じへん、という思いが強く出る。後東の言うことなど、信じられるか。
 そもそも、意味不明やろ!怒りが湧いた。
 侑希の両親を知っている。侑希は父親似だった。目元がそっくりだ、と言ったら、おじさんは嬉しそうに笑った。本当に、嬉しそうに。侑希の底抜けの明るい性格は、間違いなくこの家庭で培われたものなのだと、ノセまで幸せな気分に浸ったのを覚えている。
 だけど、ついさっき、垣間見せた侑希の表情が頭にこびりついてしまった。
「後東、出てけ。不愉快や」
 掃っても掃っても、ホウキでごみを一掃するようにはいかない。侑希の切なげに歪む一瞬の顔が、離れない。嫌な気分だ。背中をもぞもぞと不快感が這いずり廻っている。
 一切ノセの方を見ようとしない後東の視界に強引に入り込み、肩をどつこうとした手を、侑希に止められた。鼓動が奇妙な音を立て、奇妙な心拍を奏で始める。
「本当のことだよ、ノセ」
 すうっと、背筋が寒くなった。侑希の声だ。間違いなく、彼の口から発せられた声だった。ただ、初めて耳にする、平坦すぎる声音だった。
 おそるおそる顔を向け、あまりの真摯さに、射すくめられる。
「今一緒に住んでいるのは、本当の両親じゃない」
 ふ、と息が洩れた。ノセの斜め後ろからだ。
 嘲笑を短く吐き出した音。瞬間湯沸かし器よりも早く熱が頭に昇り、振り向きざまに後東の胸倉を掴んでいた。ノセを見下ろす後東は嘲弄満面、わざとらしい憐憫すら口端に浮かべていた。
「なんが可笑しいんや!?」
「井ノ瀬。聞いてなかったのか」
 芝居がかった憐れみを向ける後東は心底楽しんでいる。お前らの友情、薄っぺらいな。そう続けられた気がした。
 ぎり、と捻じり上げる後東を掴む手に力が入る。もう片方の手が拳を握った。が、またぞろ制止が入る。ノセの拳を侑希は脇に避け、一歩進み出た。
「後東には、関係ねぇ話だと思うけど?」
 侑希はどこまでも平坦だ。取り乱さず、いつもの飄々とした態度のまま、いっそ冷徹なまでの目を携えていた。
 ここで初めて、後東が『優位に立っている優越感』を崩し、醜く憤怒に顔を歪めた。――それで、納得がいった。この茶番劇とも言える事態を引き起こした要因を。
 おそらく、もともと侑希の存在自体が気に喰わなかったのだろう。男女問わず、生徒教師問わず、有希のいる空間は常に笑顔が溢れていた。人に好かれる存在だった。
 理由など何でも良かった。鼻について仕方ない水原侑希を失墜させるネタがあれば、何でも良かったのだ。だからこれは、格好のネタだった。
 暗い過去を暴露して、人が遠ざかっていくことを期待した。侑希の表情に陰鬱を翳らせれば、それだけで満足だった。
 侑希の強い語調に気圧されるまではなくとも、後東の思惑通りにならない予感があること、そしてごく当たり前のことを言われたことが相当悔しかったらしい。顔を真っ赤にして激昂する。
「ふざけんなよ!借金まみれの自殺者が親なんて、最悪だ」
 子供じみた攻撃文句だ。だが、人を傷つけるには充分だ。そして、ノセの頭に血を昇らせるには余りある物言いだった。
 後東の言葉尻は、ノセの拳に吹き飛ばされた。大きくバランスを崩した後東は背中から机の山へと突っ込む。心地いいくらいのクリーンヒットだ。
「侑希は侑希やろっ!親とか、関係ないやんか!」
 言い終わるかどうかの内に、今度はノセが吹き飛んだ。素早く立ち上がった後東の攻撃をかわし切れず、床へと叩きつけられる。強烈な衝撃に脳内が掻き乱された。
 相手は喧嘩慣れしている。動きを心得ている。それは運動神経がいいのとは、次元が違うものだ。だからといって、引く気は毛頭無い。
 罵声をあげて、突撃していった。闇雲に、無計画に。硬質な音、落下音、怒号、周囲からの悲鳴。
 耳に響く様々な音を無視して、目の前の敵だけに焦点を絞り、立ち向かう。混沌とした乱撃は、教師の到着で終結させられた。


[短編掲載中]