あとから風聞したところ、後東達はかねてより、侑希に難癖をつける機会を窺がっていた。らしい。
 情報の出所を最後まで白状はしなかったらしいが、実に手前勝手過ぎる理由に、腹が立った。だが逆に、後東の僻みが『羨望』からなるものだと解釈すれば、ひどく納得がいった。
 校内での侑希は、ちょっとした名の知れた人物だった。
 中学生ながら、毎年札幌で行なわれているスノーボードのエアー大会に参加していたことが、大きな理由だ。本選まで残ったことは一度も無かったのだが、僅差での予選落ちは話題を集めるものだ。
 優勝を狙っていたわけではなく、結果としてそれがついてくれば儲け物。最大の意義は参加することにある!とよく豪語していた。単なる負け惜しみだろう、と推断する奴もいたが、ノセはそれが本心からなるものだと知っている。
 そのきっかけも。
 いつだったか、会場で侑希同様予選止まりの選手と仲良くなったことがあった。出会いを話してくれた侑希の顔は、今でも鮮明に思い出せる。
 侑希にとって初挑戦の大会だった。順番を待つ間、ベンチに座り前屈みになって足元ばかりを見つめていた侑希に、その人は話し掛けてきたという。かなり強張った顔でもしていたのか、上げられた侑希の顔と対面し、きょとんと見つめ、ふっと表情を柔和に解いた。
「楽しめばいーんだ」屈託無い笑顔でその人は言った。「楽しんだもん勝ちだ」と。
 優勝でも狙ってんの?と問われ、とんでもないと即座に否定した侑希に「だったら緊張する必要ねーべ」と、北海道弁丸出しでさくっと言ってのけた。
 侑希より一つ年上の彼は、あまりにも無邪気でとても年上には感じられなかった。自分の出番が廻ってくる頃には緊張していたことを忘れていたという。
 その人の名前は…。
「あれ?」
 ノセは回想の淵から浮上する。侑希から聞かされていた名前を思い出せなかった。
 なんやったかな。確か…北海道では有名なジンギスカン屋と同じ、とかやったか?
 しばしノセはこめかみを押さえ、考えるポーズをとってみるも、欠片も掴めない。飛行音が邪魔している所為だ。そうに違いない。急に面倒臭くなり、思考の回転を止める。
 まぁ、ええか。もうすぐ会うんやし。聞こ。
 俺の話を聞き流してたのか、と怒られそうだけど、笑って誤魔化そう。

 侑希が北海道行きを決めた時、打ち明けられた時、一抹の寂しさはよぎった。漠然と、同じ地で同じ方向を向いてこの先も、一緒にいくのだと思っていたから。
 変わらないものなど殆ど無いのだと、冷静な部分は判っていた筈なのだけど。時は流れているのだから。
 ノセが抱いた寂寥感は、一陣の風よろしく、あっという間に過ぎ去った。侑希の心からの笑顔が、それを吹き飛ばしたのだ。
 彼の地元へ行ける、と声のトーンは明るかった。大会の地へ行けるんだ、と。そんな表情をされたら、急に馬鹿らしくなってしまった。物理的な距離が、なんぼのもんだ。

 シートベルト着用サインが点灯した。MP3の電源を切り、写真のコピーと一緒にポケットに突っ込んだ。
 雲の切れ目から、緑の大地が見えた。広大な北の大地。侑希が住む場所。
 機体は高度を下げていく。ノセの嫌いな音が大きくなった気がして、伴って圧迫感が増加した気がして、息詰まりを感じる。
 やっぱ苦手や。はよ、着陸せんか。
 きゅっと目をつぶった。音を遮断して、あとに待つ楽しいことを想像してみた。侑希と一緒に迎えにきてくれている筈の彼女の姿を思い浮かべてみた。第一声は何にしようかと考えてみた。
 侑希は今、幸せなんやろか。
 闇に投げ入れていた意識に、ふとそんな疑問が現れた。
 ――侑希は家族を失った。二度も。
 “幸せだ”と侑希が胸を張った家族が失われたのは、喧嘩騒ぎを起こした翌年のことだった。侑希が本当に心からの笑顔を取り戻させた第二の両親も、侑希の前から居なくなった。
 侑希はあの時、一生分の涙を流したのではないかってくらい、泣いた。
 俺は、あいつの支えになれとったんやろか。
 口に出して、問うたことはない。否定も肯定も、要らない。否、不要なのではなく、前者だったらどうしようと、考えてしまうからなのかもしれない。
 産まれた島を訪問して戻ってきた侑希は、ごっそり“何か”を刮げ落とした、爽朗とした雰囲気を纏っていた。そして、長野を離れることを決意した。
 ノセにはそれを止める権利はなかったし、理由もなかった。誰のものでもない、侑希の人生なのだ。


 平穏無事に定刻通りに、ノセを運んだ飛行機は空港へと降り立った。
 人の流れに従順に従い、到着口へと向かう。通路を流れに沿って歩いている途中、携帯電話の電源を入れる。まずは家に電話した。滞りなく到着しましたよと告げ、次にメールのセンター問合せをする。数秒後、一件の着信を知らせる画面が表示された。侑希からだった。
『お迎え参上。出たとこで待ってるぞ』
 空港内に備え付けられている時計を見る。事前に知らせていた到着時刻の十数分前の着信だ。電話をかけようかと指を動かしたが、思い直す。返信作成画面ボタンを押した。『おう。こっちも参上したで』
 到着ロビーで姿を発見した時、十数か月くらいじゃ変化がないのは当為なのだが、どことなく嬉しくなったのは自分の内だけに留めておくことにする。もぞっ痒い感覚をわざわざ口にするのは躊躇われたし、侑希の性格を考慮すれば、図に乗るのは見えているからだ。
 馬鹿馬鹿しくいきたく、おふざけ全開で互いに抱き合って再会を確かめる。力一杯背中を叩き、肩を掴んで勢いよく引き離れた。
「ってて、マジに叩きすぎ!加減しろよ、馬鹿力」
「こんくらいで根をあげるやなんて、なまっとんちゃうか。――で、時に、」
 友との喜びの対面を早々に切り上げ、視線を侑希の隣に移す。痛がっていた侑希も切り換え早く、笑顔になる。
「那央さん?」
 自分が名乗るよりも先に名前を挙げられて、少し驚いているようだった。開きかけの唇もそのままに、侑希に視線を送る。
「那央ちゃんの話題でいっぱいなんだ。俺らの会話」含意を込めた口調で侑希は言う。
「え。ちょっと、変なこと吹き込んでないでしょうね?」
 ひとつ年上の彼女は、それを示したいが為にするように胸を張った。悲しいかな、身長は侑希の方が断然上なので、見下ろす格好にはなれていないのだけれど。
「それは教えられない。…な?」問い掛けはノセに向ける。
 秘密にするようなことは何も無かったと思い返すも、この場は同意するのが空気を読んでるってものだ。首肯しておく。
 那央は不満げな声を出し「ま、それは後でじっくりと聞き出すから覚悟しといて?   とりあえず、いらっしゃいませ」ペコリと頭を下げる。
 両親がペンションを営んでいる彼女の実家では、接客などお手の物なのだろう。しっくりと板についていた。
「こちらこそ。お世話になんます」
「不束者ですが、ドウゾよろしく」
 那央に続いて頭を下げようとしたノセの後頭部に侑希の手が乗り、ぐんと押される。深々とお辞儀する格好になった。間髪入れずガバと頭を上げ、侑希を睨みつける。当の本人はどこ吹く風状態。
「侑希の四駆なんだよね?井ノ瀬くんは」
 唐突に那央が放った言葉の意味を、その場にいたノセだけが理解不能だった。侑希は素直な子供みたいに、無邪気に頷いている。
「四駆ってなんや。車のことか?」
 侑希に問い掛け、答えは那央から返ってきた。
「井ノ瀬くんのことを例えるなら、って話」
「俺が四駆?」
「そう。って、それだけじゃ意味不明だよね」
 可笑しそうに笑い、経緯を説明する。
 侑希の口からよく話題にのぼるノセの人柄を訊ねた時に決定したことだという。那央は侑希の過去を知っていて、長野での生活を聞いていて、井ノ瀬隆生の存在を知った。
 侑希は『牽引ロープだ』と例えたらしい。
 暗いところに落ちてはまって身動きのとれない侑希の“闇”を感じ取っていて尚、ずっと近くにいた奴だった。近くにいて、侑希をそこから引っ張り上げてくれた存在。だから、牽引ロープ。
 でもロープに引っ張る力はないよ?との指摘に、じゃあ四駆の方だな、とあっさり決定した。
 合点がいくようないかないような顛末だ。――だけど、と思う。
 噛み砕けばそれは、支えになれていた、ということにはならないだろうか。うん、そういうことにしておこう。
「侑希ってばね、井ノ瀬くんのこと話す時、すごい自慢げなんだ」
「那央ちゃん!訳判んないこと言うの止めてっ」すかさず侑希が叫ぶ。
 対する那央は「訳判んなくないよ?そう見えるもの」つらっと揶揄口調だ。ノセも「へえぇ、そうなんや」と便乗する。
 思ってた以上に楽しくなりそうや。
 まずは手始めに、追撃の手を緩めずにいこう。ポケットから紙を取り出し、那央に広げて見せた。
「あれ。これ…」まじまじと見つめている。隣に並んだ侑希も同時に覗き込んだ。
「鮮明なものが見たけりゃ来い、ゆわれたんや」
「これ、まだ持ってたの!?」
 呆れ混じりに侑希を見上げている。侑希はすでにポーカーフェイスを繕っていた。
「俺と奈央ちゃんが初めて逢った時の、大切な写真だからね」相変わらずな軽口調を叩く。
「カラーコピーはないんじゃない?焼き増しすればいくらだってあるのに。しかも、こんな前のやつじゃなくたって…。携帯で撮ったのだってあるでしょ?」
 那央は心底不思議そうに問う。当然の疑問だ。
「それは、あれやな。見せびらかしたかったんやろ」存知顔で割り込んでくるノセにも、那央はその表情のまま視線を向けた。大袈裟に意地悪顔を作り続けた。
「せやけど、明瞭なの見せてもて、万が一俺が惚れてしもたらあかん思たんや」
「ノセ!」再び侑希の顔に熱が上昇する。
 この状況をいまいち把握しきれていない那央だけが、男二人の間にいて疑問符を浮かべていた。
「那央さんは、侑希の大事な人やから、な」
 ノセが謀らずとも侑希を闇から牽引したように、那央は、侑希が牽引したいと願った相手だ。
「ノセ!!」侑希は今や、耳まで真っ赤に染め上げていた。
 おもろい。これは絶対、想像してたよか楽しくなるで。
 口を塞ごうと攻撃してくる侑希をかわしながら、那央に向かって問い掛ける。
「侑希は那央さんの四駆になれとるん?」

 心の中で話し掛ける。今は居ない、長野の水原夫妻に。侑希の産みの両親に。
 ――俺はどうやら、なれていたようです。
 これからもずっと、四駆でいてやろうと思うとります。せやから、そこから、見守っといてやって下さい。




[短編掲載中]