山から下りてきた白があたり一帯を白銀に埋める冬。吐く息は白く、蒼穹のもとでも凍て付く空気は遠慮なく頬を刺した。
 この地で迎える、二度目の季節。
 寒いのは得意ではないけれど、嫌いなわけではない。水原侑希は手にしていたスコップを持ったまま、うーんと背筋を伸ばした。太陽が眩しく、陽光が全身に降り掛かる。
「侑希おつかれー。お昼だよー」
 声の主を振り返ると、少女が建物の窓から半身を乗り出していた。
「待ってましたぁ!」
 プラスチック製の雪かき用スコップを、ペンション名が刻まれた看板の足元にできた雪の小山に突き刺して、一段飛ばしで木製の階段を駆け上がる。侑希が玄関先に辿り着くまで待っていた少女の視線は、さきほどまで侑希が動き廻っていた景色にあった。
「やっぱ侑希が雪かくと綺麗になるよねー」
 車をゆうに十台は停められる駐車場ともなれば、なかなかの広さとなる。凹凸無く除雪するには結構な労力を消費した。
「おだてたって乗らないよ、那央ちゃん。当番制だからね」
 ひとつ年上の少女――澤樹那央は、生粋の道産子のくせに雪はねが下手だった。侑希が澤樹家に居候するようになって一年が経過するが、要するに何事にも不器用なのだ、というのが侑希の見解だ。
「あれ。駄目だった?」
 ちっ、とわざとらしく口で言い、鳴りもしないのに指を弾く。
 駄目に決まってんでしょ、と舌を出し、長靴についた雪を払う。そうは言っていても那央が一人で除雪作業を始めたら手伝いを買って出てしまうのだけれど。彼女もそれを承知だとすれば、少し悔しい。反面、あてにされているのかもと嬉しくもなる。
「ずるいよね」
 那央は窓枠に両肘を乗せ、頬杖をつく。侑希を斜に見上げる視線はぶうたれていた。
「へ?」
「南国産まれのくせに雪かき巧いとか、ずるい」
「ずるい、ってのはおかしいって」
 笑うと、那央の頬はますます掌に沈められた。思いっきりむくれ顔となる。年上の彼女は、こうして時折子供っぽさを覗かせる。
 沖縄諸島の島産まれ、とはいえ、六歳からこの地に移り住むまでの十年間は長野で育った。つまり、澤樹家にくるまで雪に馴染みが無かったわけではなく、むしろ除雪作業なんてものは役割分担として主に侑希が担ってきた。
 靴底の雪を払い、玄関脇に丸めて置いてあった上着を取り上げる。
 除雪を始める時は防寒対策もしっかりとするのだけど、やっているうちに汗が噴き出す。結局いつも脱ぐ破目になり、今日みたいな快晴であれば半袖でも暑いくらいだった。が、それはあくまで、動いている間の話。
 動きを止めれば案の定、吹く風に便乗した冷気が容赦なく肌に纏う。身震いの直後、盛大なくしゃみが飛び出した。
「風邪ひいちゃうよー、早く入って」
 心配してるとの言葉は綴られているのだが、そうとは全く感じさせないのんびり口調。
「これっぽっちも心配してないでしょ」
 親指と人差し指の隙間を薄く作り不満げに問う。
 那央は口端に笑みを浮かべたものの視線は侑希にはなく、携帯電話につけたストラップを空にかざしていた。正確には、ストラップの先についているガラス玉を。
 覗き込めば、海面の揺らめきが視界を埋める。
「いい感じに見えてる?」
 人工光でもシャープな光源であれば見ることは可能だ。けれどたぶん、太陽光が一番綺麗に見えると侑希は思っていた。
「ばっちり。ね、沖縄の方って今時期でもあったかいんでしょ?」
「こっちの初夏くらいの気温はあるかな」
「気温差あり過ぎて不思議だよね、同じ国なのに。海、綺麗なんだろうなぁ」
 感心するように呟き、熱心に覗き込んでいる。
 揺らめきの向こうに、彼女が見ているであろうものを想像すると、面白くない心地が湧く。それとは気取られないよう、無邪気を装って、那央の手から携帯電話を取り上げた。
 窓から二歩分も距離をとれば、建物内にいる彼女の手は届かなくなる。
「自分ので見ればいいじゃない。返してよ、侑希っ」
 優しい想い出に浸っていたのに、と言外にあるようで、遣る瀬無くなる。
「俺の携帯、部屋だもん」
 振り仰ぎ、ガラス玉を覗き込む。青く透明に揺らめく水面。波の音さえ聞こえてきそうな感覚を呼び起こす。
 幼き頃の記憶が、脳裏を掠めた。ちくり、と胸に痛みが刺さり、苦笑する。完璧に割り切れる日は訪れないものなのかもしれないな、と自嘲し、気持ちが引き摺られてしまわぬよう明るい声を放った。
「今年の花火は一緒だかんね?絶対だよ?約束したんだからね」
 ガラス玉の水面が花火でも見えるのだと那央から教わったのは、去年のイベントが終了した後で。
「むきになりすぎ」
 子供じゃないんだから、と那央は相好を崩す。「ほら、いつまでも外にいたら、ほんとに風邪ひいちゃうってば」
「だね」
 再び大きく身震いして、玄関へと駆け込んだ。靴を脱いでいる間に那央がやってきて、先に食堂兼談話室の扉を開けた。ふわり、とした暖かい空気が迎えてくれる。
「今日は何組チェックイン?」
 侑希が入るのを扉を押さえて待っていてくれた那央の位置まで進み、今度は侑希が扉を押え、先に入るよう促しながら問う。
「二組計八名。あとは連泊のお客様が引き続きで…」
「満杯になるね」言葉尻を攫って続けた。
 秋口の紅葉が鮮やかに色づく頃から麓に雪が消える季節まで、ペンション澤樹は満室状態が続く。
「すっかり慣れたもんだよね。なんか面白くない」
 那央は唇を尖らす。
「変なとこで拗ねないでよ」
 ペンションを営む両親の元で育った彼女は業務に誇りを持っている節がある。侑希のように手伝いを始めてそう経っていない者にそつなくこなされるのが面白くないのだろう。しかも自分は年上だ、というのも少しは絡んでいるのかもしれない。
 たった一年くらいの差はたいしたことではないと侑希は思っているのだけど。
「拗ねてんじゃないの。これは素直っていうの」
 ますます尖ったように見えるのは、気のせいではない筈だ。
「子供か」
 呆れた風を装って息を吐くと腕をはたかれた。こうやって起伏ある感情を見せてくれることが嬉しかった。
 澤樹家への恩返しのつもりはなかった。否、それも当然含まれているのだけれど、表立った理由にはしていない。動いているのが好きだから、を表立った理由に挙げ、ペンション業の手伝いをしている。
 実際、動いているのは苦ではないし、接客業は性に合っているのでは、と自負してもいた。
 食堂に入るなりキッチンへと直行していた那央がちょうど出てきて、両手を埋めている四つの皿のうち二つを受け取ってテーブルに並べた。
「他に運ぶものある?」
「これでラスト。食べよう」
 テーブルに向かい合って座る。正面には那央。侑希の隣には那央の父親。那央の隣には母親。侑希が住むようになってから変わらないスタイルだった。
 平穏があった。今はここが、自分の居場所だった。
 自分を受け入れてくれた澤樹の両親に、そして那央に、感謝している。幸せだと、思う。


 昼食を終え、澤樹の両親は買い出しに出掛けた。食器の片付けを申し出たのだが「家族分しかないからいいよ」とあっさり那央に断られ、手持ち無沙汰のままソファに身を沈めていた。テーブルに置かれたマグカップからの珈琲の香ばしい匂いが鼻腔を満たす。
 薪ストーブを囲うように配置したソファは、夕食後にはお客さんを含めての談笑で埋め尽くされる。その中にいるのが、侑希は好きだった。
「ねー、那央ちゃん」
 何気に見遣った先にはウッドデッキがある。横に向けた顔にならって身体の正面をそちらに向けるよう捻じり、そこから更に顔を捻って那央を見る。対面キッチン内で食器を洗っていた彼女はきりのいいところで顔を上げた。
「デッキも雪かいとこっか?」
 ペンション正面の駐車場ほどまめに除雪はしていないが、食堂から丸見えなそこを見苦しいほど積もらせっぱなしにもしていない。真冬にデッキに出る者はおらず、その先にある自然の景観を損なわない程度に雪をはねておけば問題なかった。
「んー、そうだね。順番だからあたしやるよ」
 いいよ、俺がやる。と立ち上がりざまに言いかけたちょうど、玄関で声がした。反射的に見た時計の針は十四時を少し廻った位置を指していた。
 那央は調理器具の洗浄に突入していたらしく、侑希に接客依頼を目配せした。
 いらっしゃいませー、と元気よく食堂の扉を開け、笑顔で迎え入れる。
 靴脱ぎ場はそれなりに広くとってあるのだが、それでも青年が五名も大きな荷物を抱えて集まっていれば、所狭しと押し競饅頭状態になっていた。先頭にいた人物と目が合い、互いに「あ、」と声をあげる。
 昨年もこのペンションに宿泊した客だった。札幌にある大学のサークルに所属している人で、冬はウインタースポーツ目当てにニセコへやってくる。昨年は、冬ともなればスノーボード漬けとなる侑希と意気投合し、彼らの滞在中の殆どを一緒にゲレンデで過ごした。二名ほど知らない顔も混ざっている。
「毎度さまっす」
 扉を背で押さえ、食堂への道を開ける。
「おー、侑希!今年もきてやったぜ。もう滑ったか?」
 雪崩れ込むが如く連なって入っていく団体の最後尾につき、代表者である松元の名前を呼んだ。キッチンの方から「いらっしゃいませー」と声がして、ひょっこり那央の笑顔が顔を出した。
「代表の方は台帳に記入お願いしますねー。他の方はソファにでも座ってて下さい」と、すぐ引っ込む。
 やかんが火にかけられている音がする。ペンションでは到着した客にまず飲み物をすすめるのが習慣になっているので、その準備にとりかかっているのだろう。
 宿泊名簿とペンを松元に差し出した。
「えっと…。今回は五泊ですか。長めにとったんですね」
「しっかり付き合ってもらうからなー。今年は初心者が二人いるから、指導よろしく」
「で、自分達は自由に滑ろう、って?」
 小さなカウンターテーブルに前屈みになって書き込む松元を見下ろす。相手は書く手も止めずに肩を竦めた。
「ばれたか。って、いやいや。お前と滑るのが楽しかったからよ。このペンションも気に入ったし。転々とするよか楽しいだろ?」
「そーゆうことにしときましょうか」
「流すな流すな」
「適当さが滲んでますよ、松元さんの。だいたい、サークルの名前なんでしたっけ。性格が有り体ですよね」
 減らず口の侑希の頭に、書き終えたばかりの宿泊名簿の小突きが落ちた。
「適当ゆーな。命名者は俺じゃねーし」
 むっとするふりをとったのも束の間、すぐさま、適当だけどな、と笑う。
 イーサークルだ、と教えてもらったのは、去年ゲレンデに初めて一緒に行った時だった。友人同士の集まりですか、の問いに返ってきた回答だ。
 趣旨は、ひたすら楽しむこと。
 「イー」とはエンジョイの「e」なのだと得意気に言われ、思わず平淡に返してしまった。非常にシンプルで、単純すぎて、存分に呆れたあと、噴き出した。
 普段から寄り集まっては騒ぐより、それぞれがバイトに明け暮れ資金が貯まり次第旅行に出る、という活動が主らしい。
「今年はどっか行ったんですか?」
「この前、っつっても秋だけど、沖縄行ってきた」
「えー、いいですねー。あたしも行ってみたいです」
 いつの間にやら食堂側にきていた那央の手にはカップの乗ったトレイがある。ソファに座るメンバーの前に置いていった。
「じゃあ、今度企画あがったら一緒に行く?」
 松元はすかさず話に乗る。その素早さには感嘆すら覚えた。
「サークルのメンバーじゃなくても行けるんですか?」
「来る者拒まず、がモットー。他の大学の奴らも混ざったりするよ」
「いいですね。じゃあ、進路が確定したら、で」
「もしかして受験生?」
「受験戦争真っ只中です」
 茶目っ気を出して笑い、松元に最後のカップを渡す。
「うっわ、騒がないようにしないとな」
「大丈夫ですよ。うるさいのには慣れてますから」
 直後、那央は露骨に侑希を見た。他の視線も一斉に集まる。
「それって俺がうるさいって言ってんのっ?」
 大仰にぶすくれると笑いが起こった。


[短編掲載中]