ほらな、と食事を頬張る松元は、いかにも自分が作った料理かのように自慢げだった。確かに美味しい。それは素直に認めよう。だが、自分が作ったわけでもないのにここまで自慢げにされると、素直に首肯するのはなんだか悔しかった。
 なので、中路陽向は松元には無反応を返し、代わりに配膳に動く少女に純粋な感想を述べた。
「てめっ!陽向っ!俺を無視すんなっ」松元が喚き、
「ありがとうございます。まだ料理続きますけど、おなかの空き具合はどうですか?」
 松元の反応を可笑しそうにして少女は笑った。
「結構なボリュームだね。まだまだいけるけど」
 ここのペンションの目玉は食事にある。らしい。
 味はもちろんのこと、フルコース仕立てでゆっくりと食事を楽しめる。超高級レストランには及ばないが、アットホーム的なコース料理は好感が持てた。陽向にしてみたら、こちらの方が断然いい。それは松元も同じようで。
 イーサークルで贔屓にしているペンションの一つで、かなりのお気に入りに認定した松元は今年度からサークル代表になったのをいいことに、こちらでの連泊を勝手に決定した。異論が飛び出さなかったのだから評判はいいのだろう、という読みは見事的中している。
 主にフロアを担当している少女は食事の進行具合を計りながらキッチンと連携をとっていた。受験目前だというのに、精神的にギスギスした感じはない。余裕なのかもしれないし、接客顔を作るのに長けているだけなのかもしれない。けれど陽向には、心底楽しそうにしている、というのが一番しっくりくると映る。
 すっかり松元に捉まっていた少女がキッチンから呼ばれた。その名前に、身体が勝手に反応する。
 戸惑った表情が自分を見下ろしていて、自分の手が少女の腕を掴んでいることに気づく。
「うわっ、ごめんっ」
「い、いえ」
 掴まれた方も驚いているだろうが、やらかした張本人がたぶん一番驚いていた。
 少女と同じくフロアを動いていた侑希が寄ってくる。
「どうしたの?那央ちゃん」
 ナオ――やはり聞き間違いではなかった。
 侑希は怪訝な顔つきで陽向を見ている。すかさず那央が目顔で諌めていた。
「なんでもないよ。ほら、次運ぶよっ」
 払う仕草で侑希をキッチン方面へと追い遣り、那央は会釈してからあとに続いた。後ろ姿から目を離せずにいると松元に腕を突付かれる。
「お前さ、名前だけで反応すんなって」
 言われなくても、判ってる。今までにも何度か同じことをやらかしてきている。けれどどうしようもないのだ。身体が勝手に反応してしまう。
 否、身体ではなく、心が。
 あの機を境に『ナオ』は陽向にとって、大事なキーワードになった。理由は判らない。たぶん人の名前だとあたりをつけているにすぎない。そして、人名だったとしても、それまで陽向にはナオという名の知り合いはいなかった。
 唐突に残されたいくつかのキーワード。それらが組み立てられていくパズルは、いまだ全貌を見せていない。
 胸の奥が、締め付けられる。病気は克服した。だからこれは、発作ではない苦しさだ。
 キーワードが掠める時、必ず起こる現象。甘く、切ない、想いに締め付けられる。
 心臓の上あたりで、拳を作った。これまでと同じ。でも、これまでとは違う痛みだった。
「また、なんだろ?」
 これまでと同じなんだろう?と言外にある表情で松元が、胸を押さえつける陽向を覗き込む。ぎこちなく、ゆっくりと、かぶりを振った。
「……違う。なんか…うまく言えないけど、違うんだ…」
「陽向?」
 様子がおかしいことに視線が集まり始めてようやと、陽向は平常の笑みを浮かべることに成功した。


 五連泊だからといってのんびり過ごせると思うなよー、と俄然はりきる松元の意見に異を唱える者はいなかった。熱烈合宿のようなノリについていくかは、別として。
 チェックインしてから夕食が済むまでは特に何もせず時間を過ごしていたので、ナイターから滑りにでると騒ぎ出すのは容易に想像がついていた。
 それぞれが身支度を整え、車に板やらブーツやらを積み込んでいるところで、那央と侑希も加わった。
 松元の中では侑希の同行は確定していて、本人もそのつもりだったらしい。ついでだからと那央にも声をかけ、受験生を引っ張り出すなよと止めにかかったのだが、当人が「息抜きしたいので」と言えば、こちらに反対する理由はなくなった。
 本音を言えば、話をしてみたかった。
 積み込む荷物を手渡してくる少女を見遣る。食事中の非礼を気にしている様子はなかった。
「さっきはほんと、ごめんね」
「いえ。ちょっとびっくりしましたけど。札幌で流行ってるナンパですか?」那央は冗談めかす。
「そう、ナンパ。――って、違うから。名前言ってなかったよね。俺、中路陽向」
 荷物を積み終え空いた手を那央の前に差し出す。一人ぼけ突っ込みですね、と笑いながら、那央は握手に応じた。
「澤樹那央です。中路さんはスノボ何シーズン目ですか?」
「陽向でいいよ。実は今日が初めて」
「それでいきなりナイターですか」
 ちらりと、もう一台の車に荷物を積んでいる松元を見る。日中の雪に比べれば質の落ちるナイターからスノボに挑戦させようとしている張本人にあたりをつけているのだとしたら、勘がいい。
 那央は視線を戻し、苦笑する陽向を見、確信を得た顔つきになる。
「じゃあ、スキーの経験は?」
「ウインタースポーツはしたことがないんだ」
「大学から札幌ですか?」
 本当に勘がいい。北海道に住んでいればスキーなりスケートなり授業に組み込まれているものらしい。冬物全般をしたことがない、から察したということなのだろう。
「出身は仙台なんだ。ちなみに、松元も同じ。あいつは地元にいた時からやってたけど」
 地元からの友達で同じサークルに入るくらい仲がいいのに、何故同じ時期に始めていないのか。そういった類の疑問が一瞬浮かび、掻き消えた。
「こっちみたいに、授業とかでなかったんですか?」
 答えず、曖昧に笑んだ。それで追及をしないと結論を出してくれたらしい。
「友達なのに自分で教えようとしてないですよね、松元さん」
 くすりと笑う。空気を変える為に、とするように。
 どこまでも踏み込むのをよしとしない、と判断したのが見て取れた。自分より年下で高校生の彼女の聡明さに、どこか暗い部分が見え隠れする。
「いい加減な奴なんだ。なんで、指導よろしくな」
「あたしは厳しいですよ?」
「お手柔らかに頼むよ」
 苦笑に被さって、松元の声が飛んできた。
「よーっし、準備完了!そっちはどうだー?」
「終わったよ。どうやって分かれる?」
 車は二台で分乗してきた。持ち車の運転は持ち主がすると決まっていて、内一台は陽向の車だ。荷物を積めば三人が定員となるほどのサイズだった。
「俺の方に乗る?」
 たまたま陽向の車の方にいた、という理由を掲げれば、別段不自然ではない筈だ。那央としてもどちらに乗ろう構わないだろう。少女が頷きかけて、彼女の身体ががくんと後方へと傾いだ。何が、と確認するまでもなく起因人の姿が視界に入った。
「那央ちゃんっ、あっち乗ろ!おっきい方!」
 無邪気に那央を引っ張った犯人――侑希が言って、那央に一瞬の疑問符が浮かんだものの、あっさりと引き摺られていった。本当にどちらに乗ろうが気にしていないということなのだ。
「あ、じゃあ、また後で」
 侑希に引っ張られ歩きながら那央は陽向を振り返る。手をあげて応じ、侑希の棘のある視線はスルーしておいた。


 これも有言実行というのだろうか。さすが「イーサークルは俺の為にあるのだ」と普段から豪語しているだけのことはある。松元の行動には、呆れるを通り越して、拍手を送ってもいいのではなかろうか。
 サークルの趣旨通り、松元はひたすら楽しんでいた。初心者二人を那央と侑希に押し付けて。
 まずはヴィンディングのつけ方をリフトの乗り口近くで学んだ。それから斜面を自力で少しだけ登り滑ってみる。たかだか数メートルでも、徒歩で登るのは案外きつい。なのに滑り降りるのにかかるのは瞬きの間。刹那感じる冷たい空気が、数メートル登山で火照る頬に心地よかった。
 初心者組が那央と侑希の指導のもと、登っては滑る、を数回繰り返している間に、松元を含む経験者組はコースを何度も往復していた。一気に滑り降りるのが楽しいと、嬉々としている。
 初心者への気遣いを一切しない松元の態度は、普段からの彼の性格を知らない者がここまで放置されたなら、容易く反感を買えただろう。
 ゲレンデの下でちまちま滑っていた時に筋がいいと褒められ、それは実際コースに出てからも続いた。とはいえ、いきなり松元みたいに滑れるわけもなく、ワンターン、ツーターン毎に止まって、というサイクルを繰り返しながらゲレンデを滑っていく。
 何度目かのコース挑戦で、思い切って滑ってみた。褒められたから調子に乗ったわけじゃない。と思う。単純に、経験者が感じるスピード感を、風の質感を、感じてみたくなった。滑れそうな気がした。実際、転ぶことなくコースを半分くらいまで下ることができた。
 不思議な感覚だった。自分の身体ではない感覚。経験は身体が覚えている、という感覚。経験は無いのに、重心移動のタイミングも視線の動かし方も、しっくりと馴染む感覚。
 慌ててあとに続いていた那央が、陽向のすぐ傍で止まった。
「急にびっくりしました。大丈夫ですかっ?っていうか、止まらなくなった、って感じではなかったですけど…」
「うん。俺もそう思う。滑れる、って思ったら、本当に滑れたんだ」
 陽向は自分の行動に戸惑っていたが、那央もまた、何かに戸惑っている顔だった。陽向が滑れたことに対する怪訝さというよりは、もっと別な何かに引っ掛かりを感じているようで。
「那央ちゃん…?」
「え、はい。あ…すみません。ぼうっとしちゃって」
 少女からぎこちない笑顔が零れた。
「ごめんね。心配させちゃって」
 彼女の取り繕われた表情にはそぐわないと承知で言葉を紡いだ。
「いえ。気をつけて下さいね。コースアウトしたら一大事ですから」
 その後の声を、那央が飲み込んだのが判った。言おうとして、そんな筈はないと打ち消したのだと知れる。
「本当に初心者なんだ」
「そんなこと疑ってないですよ」
 怪訝さを拭いきれないまま笑う。どうしても彼女が思ったことを確かめたくなって、続けた。
「コースアウトしそうな危なっかしさは、無かった。よね?ちゃんと止まれたし、ちゃんと滑れてた。――まるで経験者のように」
 那央が思ったであろうことを羅列していくごとに、少女の瞳の揺れは大きくなっていった。
「でも本当に、初心者なんだ」
 言い訳がましく聞こえるのを覚悟で、真実を口にする。
 残されたキーワードと一緒で、陽向のものではない経験が、この身体に刻まれていることがあった。確かめたかった。それまで興味の欠片も持つことがなかったスノーボードを、無償にやりたくなった衝動がなんなのか。ゲレンデに来れば答えが見つかるかもと、期待がなかったとは言わない。
「疑ってないですってば」
 那央の力ない笑音が転がり落ちて、雪に溶けた。沈黙が重く落ちるよりも前に、経験者組が続々と陽向達の付近に集まってきた。
 数メートル離れて止まった松元がじりじりと移動して、陽向の元に辿り着くなり、背中を力加減なしに叩いた。声にならない悶絶をあげる。
「なんだよ、陽向!滑れてんじゃねーか。那央ちゃんの指導がいいからか!?」
 場の空気を一切読んでいない明るさに、救われる。
 もう一人の初心者についていた侑希も輪に加わり、遅れてちまちま進んでいた残りの一人が着くなり尻から座り込んだ。
「あーもー、難しいって!なんでお前らそんなスイスイ滑れんだよぉ」
 弱音を叫び、きっ、と陽向を斜に見る。
「初心者っての嘘だろー!?ずりーぞ」
 疲弊の窺える文句に一同噴き出した。
「向いてたってことなんでしょうね。それか、あたしの指導力が優れているか」
 場が和んだことに安堵したのか、少女は軽口を唇にのせ、強張った表情は消え失せていた。


[短編掲載中]