夕食後、暖炉に集っていたお客さんが散開した更にあと、暖炉の前に置かれたリビングテーブルに参考書や辞書が広げられる光景は、松元達が宿泊した翌日から見られるようになった。
 ラグにぺたんと座る那央の傍らには、胡坐をかく陽向の姿がある。
「ここ、教えてもらっていいですか?」
 たっぷり数分間は自力でどうにかしようと頭を悩ませていた那央がついに根をあげた。待ってました、といわんばかりに手渡された問題集を眺め、数秒後には解説を始める。
 そんなに身を寄せなくても聞こえる距離じゃないか。とも言えず、テーブルを囲うよう置かれたソファの上で侑希は陽向の背中を睨め付ける。手にしていた雑誌に全く集中できず、ページは開いた時から進んでいない。
 目の前の光景は面白くない。かといって、受験勉強する那央の邪魔するわけにも、それを手伝う陽向を蹴散らすわけにもいかず、不貞腐れた心地のまま同じ空間にいるしかなかった。二人を見ていたくないからといって、二人きりにするのはもっと厭だった。
 那央よりも学年が下で、とりわけ成績がいいわけでもない侑希に勉強を教える技量はない。年下であることを気に留めたこともなかったが、この時ばかりは歯噛みする思いだった。
 陽向の解説は判り易いらしく、問題に突っ掛かって難色に染まる顔も、解説が始まれば明るく染め上がる。陽向越しに見えていた那央の表情が、また綻んだ。
 内心で盛大に舌打ちし、立ち上がる。侑希が動いたことで那央の意識が目前の机上品から分散し、侑希を見た瞳は壁にかけられた時計へと移った。
「いったん休憩しようか」
 陽向が参考書を閉じる。
「ですね。飲み物淹れ直します。なにがいいですか?」
「同じのでいいよ」
 了解しました、と那央はテーブルに置かれたカップを持ち、キッチンへと向かう。途次にいた侑希の手からもカップを回収していった。
 やかんを火にかけ、新しい珈琲豆を準備する。
「スノボ、行かなくて良かったんですか?」
 カップを洗いながら陽向を見遣り、手を止めずに那央は問い掛けた。陽向の視線は開かれたカーテンの向こうにある。松元達は文字通りウインタースポーツ三昧の日々を送っている。日中は彼らと行動を共にしているが、陽向がナイターに行ったのは初日のみだ。
 躊躇う那央を説き伏せて、家庭教師を買って出ている。
「あたしは勉強教えてもらえるので助かりますけど、せっかく滑りにきてるんですから…」
「昨日も聞いた台詞だなぁ」のんびりと言って陽向は破顔する。「俺がしたいようにしているだけだからいいのです」
 爽やかに毎度同じ返しをされれば那央は二の句が継げなくなる。昨日も一昨日も同様の会話を聞いた。
 適温に保たれた室内の空気に、香ばしい香りが漂う。トレイにカップを乗せて那央がキッチンから出てきた。さきほどと逆の順番でまず侑希にカップを渡してくる。
 那央は憂えを拭えない顔のまま、定位置となった場所に座った。
「パウダースノーで滑っちゃったら、自分が巧くなったって錯覚しちゃわない?ナイターの雪質だと下手な気分になってくる」
 那央の遠慮する気持ちが少しでも軽くなるようにと、冗談めかして理由を述べる陽向が鼻につく。そして、やきもちに似た感情を内側で燻ぶらせている自分に苛立つ。
「確かにパウダースノーは勘違いさせてくれますよね。でも、錯覚しちゃう以前に本当に巧いですよ」
 軽口に笑顔で応え、侑希に同意を求めてくる。
「…だな」
 咄嗟に自然な笑顔を繕えず、曖昧なものになったのが自分でも判った。苛々する。
 侑希の様子に気づいていない那央は「ほら、言ったじゃないですか」と陽向に向き直って、たった数日しか一緒に過ごしていない相手なのにすっかり馴染んでいる。気に喰わない。
「実は初心者じゃないとか?」
「侑希?」
 陽向に向けた質問だったが、思いのほか棘を孕んだ語調に那央が怪訝な顔をした。質問をぶつけられた方には戸惑いが浮び、すぐに笑みに変わった。
「初心者だよ。正真正銘の」
 気を悪くした様子もなく肩を竦め、慌てて謝罪する那央にも穏やかな笑みをくれた。
 那央ちゃんが謝る必要ないじゃないか、とますます苛々が募る。
 悪いことを言ったつもりはない。そして陽向の態度は、自分が子供じみていると感じさせるには充分だった。
「記憶転移、って、知ってる?」
 唐突な話題転換に面食らい、遅れて、意味不明なことを振るなと喉まで出かかった反発を飲み込む。
「俺ね、少し前までは運動系が駄目だったんだ」
「運動音痴で、ではないですよね?」那央は首を傾げた。
 ゲレンデで一緒に滑った時を思い出しているのだろうか。難なく滑る姿を見てしまえば、運動音痴は違うと判断できる。
「禁止されてたんだよね。ずっと、ここが悪くて」
 ここ、と言って、己の胸を指す。
「生きていくには、心臓移植が必要だった」
 間に流れる空気が重みを増す前に陽向は軽やかに放った。幾度となく口にしてきた、習熟さを感じさせる口調だった。
 黙り込むことは正しくない、と頭をよぎるも、なにを紡げばいいのか判らなかった。そんな反応さえも慣れたものなのか、陽向は続けた。
「ちょっとオカルト系な話になるけど、臓器移植を受けた人間が、提供者の記憶や嗜好なんかを受け継ぐ…って話、聞いたことない?」
「耳にしたことはありますけど…」
 有り得ない話だと聞き流すまではしなくても、真っ向から信じるにはあまりにも現実味がない。想像しようにも、易々とはいかなかった。
「信じ難い話だよね。俺もさ、実際こうなるまでには有り得ないって思ってた側だから」
 すぐに信じてくれる反応も、信じない嘘だと疑われる反応も、散々受けてきたのだろう。陽向の鷹揚な姿勢は、揺らがない。
「けど、事実自身の身に起こってる。それまでの自分には無かったものが、確かにあるんだ。ナオ、って名前に反応したのも、そのひとつ」
 あの時はごめんね、と言い足す。いえ、と少女は首を振った。
「スノボができるのも…?」
「みたいだね。板を持ったこともなかったのに、身体が…というか、感覚が滑り方を知っていた」
 どこか他人事のことのように陽向は言って、反対に、那央の声に熱がこもった。
「手術したのって、何年前のことですか?」
 わずかに気圧されつつも、「一年半前」と紡ぐ。はっきりと見て取れるほどに、那央の瞳が揺れた。じっと陽向を見据え、カップを持つ指先が白く力を入れる。
 少女は、陽向が呈した年数を掠れた呟きで反芻した。




 ノックの為に持ち上げた手を、目の前の扉を弾けないままで、侑希は固まっていた。
 扉の向こう側、自室にいる那央が電話をしている声がして、相手が那央の兄であると判り、そっと踵を返した。
 階下に降り、談話室に向かった。深夜を廻り、室内には誰もいない。デッキへと続く背丈よりも高さのある窓のカーテンを開ける。デッキに積もった雪が、月明かりに青白く細やかな光を反射していた。
「そういや、雪かきしてないな」
 独りごちる。身体を動かせば気が紛れるだろうかと頭をもたげ、こんな時間から物音を立てるわけにはいかないだろうと冷静な部分が諌めた。
 ポケットに突っ込んでいた携帯電話を取り出す。ストラップの先についているガラス玉が揺れた。
 誰かと話がしたい。と、衝動に駈られるまま選んだのは、十年来の友人である井ノ瀬隆生だった。
 片手で足りるコール数で相手が出る。深く考えずに行動していたことに遅まきながら気づき、照れ臭さが前面に立って、思わず憎まれ口を叩いていた。
「出んの早っ、暇人め」
「なんやそれ。悪態つきたかったんかい」
 長野で十年以上もの時を過ごしても産まれた土地の方言が抜けていない語調で、易々とは会えない距離に離れてしまっても少しも変わらない返しに、自覚していたよりもずっと気持ちが弱っていることを認識させられた。
 喉で感情がつっかえて、咄嗟に軽口が吐き出せない。たった数秒閉口していただけだというのに、井ノ瀬はせっかちに口を開く。
「しょーもなっ。用事ないんやったら切るで」
 待て、と出る前に、電話口の向こうから溜息が聞こえてきた。
「てのは嘘やけど。なした。弱っとるんか」
「…違うわ、あほう。イタ電だ」
 どうにか虚勢を捻り出すことに成功したにも関わらず、井ノ瀬はまるっきり聞いてない返しをしてきた。
「図星か」
「……」
「なんや?ゆーてみい」
 機械を通して聞こえる声が、ひどくあたたかかった。見透かしている相手に意地になっても意味がない。
 ふい、と天を見上げれば、澄み渡った夜空に綺麗な月が浮んでいた。彼に電話したのは月に惑わされた所為だとしておこう。なんて、誰にともなく言い訳をしておく。
 中路陽向と知り合って、ナイターの後から那央の様子がおかしいこと。何があったのか教えてはくれず、けれど兄には相談している気配があることを説明した。
 説明していく過程で、果たして深夜に電話してまで話すことだっただろうかと、迷いが生じた。
 くだらん、と一蹴されたなら、同意してすぐに切ろうとの決意も、結局は杞憂に終わった。
「那央さんの様子、侑希がそっちに住み始めた頃に戻ってんか?」
「……いや、そーゆうのは、ない」
 彼も一番にそれを心配しているのだと知れる。侑希の否定に安堵したのが伝わってきた。
「篤さんにはなんて?」
「会話は聞いてないから判んないけど。…やっぱり頼りにすんのは篤さんなんだな、と思って」
 盗み聞きをする趣味はなかったし、内容は察しがついていた。喩え、その中身を聞いていいと言われても、聞きたくなかった。
「なるほどな」
 納得した声が返ってくる。
「なんだよ?」
「それでへこんでたんか。――らしくねーなぁ。篤さんかて、前ほど頻繁に帰ってきてるわけやないんやろ?」
 篤が妹を心配して毎週のように帰ってきていたことは、話で知っているだけだ。侑希は、帰省の間隔が開いていった時期からしか知らない。
「張り合ったってしゃーないやろ。兄貴に敵うわけがない」
「張り合ってなんかねぇよ」
 むすりとした声音になってしまった。それすらも承知、といった風に井ノ瀬の語調は変わらない。
「那央さんはさ、侑希の馬鹿みたいな明るさに救われてんやと思うで。せやから篤さんは傍で見守ることを辞めた」
 見守る、は易しい表現だな。と、篤は言った。時間が経った今だから言えるけど、と前置きして。
 見守っているつもりだった。けれど現実は、監視していたのかもしれないな、と。
 それくらい危うかった。事実、幼馴染みの元へ逝こうとしたこともあったという。
 彼女は、大切な幼馴染み以上の感情に、失ってから気づいてしまった。
「まず、馬鹿は余計だ。そして、」平淡に返す。こちらこそが本命だ、といわんばかりに思わせぶりな間を置いて、「那央ちゃんがそう言ってたのか?」自然トーンが上がった。
 井ノ瀬の返答次第では、内に渦巻くもやもやとしたものが晴れそうな予感がしていた。
 早く答えろ、と願うのを見越してか、井ノ瀬はたっぷりと間を開ける。長年の付き合いから侑希の心情を読めるあたりが悔しい。
「ゆうてない。俺の勝手な想像やけどな、お前みたいな騒々しいのが傍におったら、静かに沈んでなんかおられんて」
「まったくもって納得いかん。けど仮に、少しでも、那央ちゃんが救われたって思ってたとして、それは違うんだよな」
「お前も持っとったもんな、暗いやつ」
 井ノ瀬は続きを攫って言う。こういうところは、長年の付き合いが有り難い。
 共鳴できるからこそ、引き摺られるのではなく、堕ちていくのを止めたかった。
「結構必死だった。笑ってくれるようになって、本当に嬉しくて」
「せやなぁ。俺が逢った時には明るくていい子やなって印象しかない」
「だから…。もしかして俺の影響が少しでもあるのなら、俺でも誰かの救いになれるんだなって、思って」
「なんや、侑希。ずいぶん弱気発言やな」
 からかうように井ノ瀬は言って、その揶揄に乗る気分になれず、黙った。
「――もしかして、まだ……自分は要らない人間やと、思とるんか?」
 ほんの少しの怒気を孕んでいた。数秒待っても侑希からの反応が得られず、深い溜息を吐かれる。
 侑希に生命を授けた者が、それを奪おうとした事実が、侑希に『自分は要らない人間だ』と意識づけた。
 要らない人間ならば棄ててしまえばいい。――そう思われるのを畏れ、長野の両親には事件当日の記憶を失ったふりを続けていた。
 心無い第三者の言によって過去が露呈し、けれど井ノ瀬は「関係ない」と一蹴した。
 その日、長野の両親に嘘をつき続けたことを明かした。返ってきたのは「知っていた」という言葉と、包み込む微笑み。そうすることで侑希が少しでも苦しみから解放されるのであれば、自分達は合わせるべきだと判断したという、告白。
 その時に、総てが吹っ切れた。
 けれど、今この瞬間に、何年もずっと恐れ、思い込んできたことは、容易く消えることがなかったのか、と指摘されて初めて気づかされた。そうか、自分はまだ、恐れていたのか。と。
 だがそこまで思い至った瞬間、否定した。自身の内側の、最奥にある感情が、否定する。
「思ってない」きっぱりと断言した。
 思い出す。長野の両親があたたかく見守りながら、ずっと受け入れてくれていたことを。
「ほんまか?」
 思い出す。過去になにがあったとしても、侑希は侑希だと啖呵をきった親友を。
「ほんまや」
 口真似て、笑った。無理なく、繕うでもなく、笑えた。
 そうか、と呟いたのが零れ聞こえ、大きく息を吸い込む音が聞こえた。
「せやったら、侑希は侑希のまんまでおったらええやん。篤さんにはなれへんのやし、いっちゃん傍におるんわ、お前やんか。那央さんが煙たがっておらんのやったら、ほんのちょびーっとくらいは救いになれてんのかもしれへん」
 一気に連ねられた井ノ瀬の言葉に、力をもらった気分になる。が、素直に受けるのも癪で、
「判っとるわ、あほう」
 口をついて飛び出したのは、やっぱり可愛げない返しだった。


[短編掲載中]