知りたい欲求は膨らむ一方だった。
 初めてきた場所なのに、懐かしいと感じる。単なる気の迷いで片付けるには、あまりにも引っ掛かった。
 臓器提供者の情報がレシピエントに提示されることはない。陽向に知る術はない。知り得たところで陽向がすっきりするだけであって、提供側の遺族に何かをしてあげられることもない。
 単なる自己満足。――判っている。それでも尚、知りたかった。
 記憶が、想いが、強く深く、残された意味を。

 ベッドに潜り込んだ直後、同室の松元は眠りに落ちた。起きていても騒がしい松元は、寝ている今もイビキをかいて騒がしい。だが、陽向が寝付けないのは雑音の所為ではなかった。
 那央の表情や、それを受けて己の内に蠢く説明し難い感触が、睡魔を遠のける。身体は日中いっぱいゲレンデで過ごした疲労を訴えているのに、目が冴える。眠るな、考えろ、と指令を出すように。
 上半身を起こし、枕元に置いていた携帯電話で時間を確かめた。零時をとうに廻っている。朝方と呼べる時間ではあるけれど、真冬の闇は長い。陽が昇るまでにはまだ時間がかかる。
 喉が渇きを訴え、このまま布団に潜っていても到底眠れそうになかった。そっと部屋を抜け出し、談話室へと向かった。冷水でも流し込めば、少しくらいは心地も落ち着くだろう。
 夜の帷に閉ざされた室内に踏み入った瞬間、眉根を寄せた。感じた違和感の正体は瞬時に判明する。照明を消した部屋の中に、光源が浮かび上がっていた。それは照明器具の類ではなく、暖炉の灯り。火の爆ぜる音がする。
 消し忘れだろうか、と思う暇もなかった。揺らめく灯りに人影が浮かび上がる。
 目蓋を下ろし、携帯電話を耳にあてた少女の頬を、雫が伝う。
 見てはいけないものを目撃してしまった気まずさに踵を返そうとして、床が軋みをあげた。逃れようのないくらいはっきりと瞳がかち合う。
「だ、大丈夫?」
 我ながら気の利かない台詞だと情けなくなる。少女の涙に動揺していた。
 ふい、と顔を逸らされ、益々気まずさを感じたが、少女は陽向から見えない位置で乱暴気味に涙を拭い、二つ折りの携帯電話を閉じる。膝に抱えていた物と一緒にテーブルに置いた。
「眠れないんですか?あったかいものでも淹れましょうか?」
 顔の正面を向け直した時には平静な表情を取り繕っていた。
「…その、少し話でも、しない?」
 目顔で近くに寄る許可を請う。頷くのを確認して、部屋の照明を点けず近づいた。
 炎が見せた錯覚だといい、と期待したのは見事失墜した。零れないまでも少女の瞳は潤んでいた。
 ソファに座る那央の隣にいくべきか迷い、結局、勉強を教える時の位置に座った。これなら那央が陽向の斜め後ろにいることになり、彼女が取り繕うことに神経を擦り減らす必要もなくなる筈だ。
 テーブルに置かれた物が視界に入る。便箋だった。遺物とは言わないまでも、今の時代、しかも那央の年代で手紙を書く習慣があるというのに馴染めない。
「勉強してたんじゃないんだ?」
 照明を点けず、暖炉の灯りだけで勉強しているとは思わなかったが、あえて的外れなことを言ってみた。当たり障りのない話題が捜し切れない。
「手紙、書いてたんです」
 勉強に使用するものが筆記具以外に無いことを承知で陽向が問い掛けたと、知っている応えだった。
 誰に、と訊くのは憚られた。沈黙を落とさない為の話題も見つからない。自ら話をしようと誘っておいて、情けない。
「あの曲、なんて曲名でしたっけ?」
 なんのこと、と問う形に唇が開きかけて、閃く。
「…ナイターの帰りに、聞いたやつ?」
 そうです、と小さく聞こえた。頷いた様子が空気の動きで伝わった。表情は見えなくても、さきほどと同じ種類のものを纏っているのが、判ってしまった。
 初日のナイター終了後、那央は帰りの車に陽向の方を選んだ。助手席には松元が乗り込んで、それで定員になった。
 しょっぱなから飛ばしていた松元は体力を消耗しすぎたか珍しく大人しく、車内を満たすのは走行音とヴォリュームを絞ったオーディオから流れる曲だけだった。
 天国に郵便ポストがあったなら、メッセージを、想いを、届けられたらいい。そんな内容の歌詞だ。大切な者への、気持ちを届けたいと願う歌。
 泣いているように見えたのは、錯覚じゃなかったってことか…。
 すとんと納得がいって、那央の表情が脳裏に浮び、切なくなった。
 ゲレンデにいる那央は、否、原因はゲレンデでスノーボードをしたことではなく、陽向の滑りを見てから、那央の様子は少し違っていた。
 とはいえ、多くを語れるほど彼女のことを知っているわけでもないし、たぶん、微細な変化すぎて容易く見逃してしまうほどのもの。
 それの確信を持てたのは、同居している侑希が訝しげに首を傾げたのを見てしまったからだ。長く時間を共有する者ならば気づき、会ったばかりの者には気づかない、小さな小さな引っ掛かり。なのに陽向は気づいた。陽向に向けられたものだから、では説明がつかないのに。

 車中は静かに流れる音楽と走行音のみになって、三人共が黙り込む。そうして数分が過ぎた頃、洟をすする音がした。
 隣に座る松元からではない、と判って、ルームミラーを覗き込む。逸らすようにして窓の外へ顔を向けている那央の瞳が潤んでいた。
「えっ?那央ちゃん!?あ、もしかして寒いっ?」
 慌てて暖房の設定温度を確認する陽向を観察するように見遣っていた松元は、ゆっくりと振り返った。ミラーに映り込む那央も慌てて目尻を拭っている。
「な、なんでも、ないです」
「お前の運転が怖いんじゃねぇの?」
 いたってのんびりと適当なことを松元が言い、更に慌てた那央が否定した。
「違いますっ。さっきの曲が…」
「曲?」
 オーディオを操作し、曲名を確認する。もう一度再生すべきか悩み、結局そのまま再生した。
 曲が始まり、那央は目蓋を降ろした。
「これ、響きます…」
 自身の胸に手をあてがい、静かな那央の声が旋律に溶け込んだ。
 あの時は、前向きでもあり切ないメロディに、単純にいい曲だと、惹かれたのだと、思っていた。――思い込もうと、した。

 ――知りたい。好奇心ではない何かが、陽向の心を揺り動かす。
 何故なのか、なんてことは、もうどうだってよかった。理屈じゃない。明確な理由も大義名分も、不要だった。
 どう切り出すべきが逡巡している間に、背後から呟きが落とされる。陽向に向けて、というよりは、独り言を零す音量だった。しじまに満たされるこの距離では、なんの障害にも成り得ないけれど。
「手紙を書くって、難しいですよね。メールとかだと会話するみたいにポンポンできるんですけど、手紙ってそういうのとは違うじゃないですか。しかも、今まで手紙を書いたこともない相手に向けてとか、色々浮ぶんですけど、結局何書いていいか判らなくなってしまって」
 自然、テーブルに置かれていた便箋に目がいった。数行書かれ、最後の行は途中で途切れていた。
「天国に、手紙を届けたい。…とか?」
「……ですね。馬鹿みたい…ですよね。実際にはそんなポスト、存在しないんだし」
 小さく笑音が零れる。自嘲は孕まれていない、と感じられた。
 あるのだと本気で信じているわけではない。けれど、それでも書きたい相手がいる。そういうことだ。
「馬鹿だなとかは、思わないよ。それだけ大切な人がいるってことだろ?」
「――…はい」
 声に涙が混ざる、かと思った。振り返って見ることは叶わず、雰囲気で読み取るしかなかった。
「ごめんなさい。変な話しちゃって」
 気配が大きく動いて、那央が去ろうとしているのが判った。後先考える前に、少女の手を掴んでいた。瞠目し、陽向を見つめる。
「話してよ」
「…え?」
「今思ってること。よかったら、話してみて。何もしてあげられなくても、気持ちが軽くなるかもしれない」
 本当は彼女の為ではなく、自分の欲求だった。話してほしいと、願っていた。彼女を独りにしたくない。自分が、傍にいたいと、思っていた。
 この感情は、なんなのだろう。
 逢ったばかりの人間に惹かれるなど、有り得ないことだった。よく知りもしない相手に恋愛感情を抱くなど、有り得ない。手術後であっても、これに関しては一貫していた部分だ。
 なのにこれは、愛しさだ。恋愛の意味で、好意を抱いている。
 『ナオ』に反応してきた今までとも、異なる部分。
 陽向の戸惑いに呼応するかのように、那央も戸惑っていた。できるだけ、自分は冷静なのだと示す為に、笑顔を形づくる。
 放したくはなかったけれど、掴んでいた手首を開放し、頷いた。
「本当に大切だったんです」
 たっぷり逡巡した挙句、那央はそう口火をきった。
 幼い頃からずっと当たり前に傍にいた幼馴染み。大切な存在ではない、とは思っていなかったけれど、そう意識していたわけではなく、本当に、傍にいるのが当たり前だった存在。
 失って、どれだけかけがえのないことだったかを、知った。自分も、彼を、恋愛対象としてみていたことを、知った。
 彼が彼女をそういう対象として見ていたことを知っていたのに、それまでの関係から踏み出さずにきたことを、後悔した。
 遅すぎたことを知り、悔やんで悔やんで、泣いて。
 とつとつと、静かに、那央の声は夜の色に溶けていく。促す程度の相槌で、聞き入っていた。抱き寄せたい衝動を押さえ込む。
 声が途切れ、そこでようやと那央を振り返った。陽向と目が合い、少女は嗚咽を飲み込んだ。乱暴に涙を拭う。
「まだ後悔してるの?」
「……たぶんそれは、一生あり続けることなんです。後悔して、でも、後ろを見て生きていくのは、止めようと思ってます。だから…こうして文字にしてみたら、なにか心の整理になるかな、とか思って…」
 つい、と書きかけの便箋へと目線を送る。少女の視線が自分から外れても、陽向は少女を見つめた。
「整理された?」
 那央は、返事の代わりに、悲しげに笑んだ。
 ぎゅっと拳を握った。腕を伸ばして少女を抱きすくめてしまわぬように。掌に強く、爪が突き刺さる。


[短編掲載中]