ちらちら舞う雪が、君の頬に触れ、君の温度を奪って、透明な雫へと変わる。静かに閉じられている目蓋も、細く華奢な指先も、降り積もる雪を静かに受け止めていた。
 僕が吐き出す息は体温が確かにあって、白く濁って冷たい空気に溶けていった。
 無防備な寝顔をじっと見つめる。いつだって近くにあって、いつだってよく動いた君の表情。玩具箱みたいに、くるくるくるくる、色んな表情を僕に向けてきた。
 けれど、どれだけ親しくなろうとも、僕が欲した心は、一番遠くにあった。どれだけ手を伸ばしても、決して届かないところに。
「どうして」
 君には届かないと知りながら、訊かずにはいられなかった。湿った声で、何度も問う。君は、微動だにすることなく、目蓋を開けることもなかった。
 唇を噛み締め、視線を落とす。君の手に握られた手紙を見つけ、胸が軋んだ。淡いピンクの、花が散らされたデザインだ。僕には、見覚えある便箋だった。
「ちゃんと持ってきたんだな」
 返事はない。君は緩やかな笑みをその口元に携えているだけだ。君の世界から僕がいなくなって、どれくらい経つのだろう。長い長い夢をみていた気がする。たった一年。―――ひどく長かった、一年。
 小高い場所に造られた夜の公園に、僕らはいた。景色を一望できるベンチに座る君の真正面に僕は立っていた。深々と降り続ける雪が、世界の総てを浄化するようにして、一帯を白く染めていく。
 君も純白の色に、埋もれていく。
 その手からそっと、手紙を抜き取った。これを書いたのはどれくらい前だったろうか。ずっと持ち歩いていたのだろう。淡く清澄だった色彩は掠れ、角はくたくたになっていた。
 君は、約束だけは、忘れなかった。
 その事実を認めてしまえば、容赦なく胸が締め付けられた。目の奥の熱が引くのをじっと待つ。感情の波が落ち着きをみせ、僕はポケットから煙草とライターを取り出した。銜え、火を点す。深く肺に吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。
 二度同じく繰り返し、手にしていた手紙を持ち上げた。もう片方の手に煙草を掴み、赤く灯る先端を角に添えた。じじっ、と微かな音がして、手紙は火に侵食され、黒い煙を吐き出し、灰へと変わっていく。ちりちりと喰らっていく炎を、どこか虚ろな目で見つめた。
 手紙は、天へと昇っていく。
「こうすればきっと、君の想いも、兄貴に届く」
 安穏とした表情を浮かべる君が、微笑んでくれた。気がした。

 出逢いはアルバイト先の画材屋だった。先に働いていた君は折りに触れて、妙に先輩ぶっていた。小柄で僕の肩よりも低い身長を、背伸びで繕ってふざけたりして。くるくるよく動く表情に、僕まで一喜一憂させられて。
 たぶん、初めて見た時から、僕は君を好きになっていた。
 僕自身は絵など描いたこともない人間だったけれど、五歳年上の兄貴の影響で画材にはそれなりの知識があった。そのことが僕達の距離を縮めてくれた。
 同じ歳でこんな話ができる相手が今までいなかったのだと、話せて楽しいと、君は笑った。その頃にはもう、僕の想いは確たるものになっていて、自由奔放で傍迷惑でさえあった兄貴に、初めて感謝した。
 そんな感謝が覆ったのは、やはり兄貴の所為だった。
 家族でさえどこにいるかも把握できないような旅を、時期も決めずに気まぐれで繰り返している兄貴が、真冬のある日帰ってきた。突然いなくなり、唐突に帰ってくることに慣らされていたとはいえ、アルバイト先に顔を出したのには驚いた。
 君と兄貴が顔を合わせた瞬間、予感はあった。きっと好きになる。君は兄貴に恋をする。
 論理はない。勘でしかない。―――そしてその予感は、やっぱり当たってしまって。
 もしも、を考えられずには、いられなかった。考えたところで、僕はここで君に出逢ったのだし、好きになっていたのだし、君と兄貴は出逢ってしまったのだ。もっと早く告白していたら、まだもう少し友達のままでもいいなんて思わなければ。想定しだせばきりがない。
 唯一の救いは、君が兄貴に告白できなかったことだ。付き合いだしたらきっと、僕は君の近くにはいられなかった。
 けれどその分、無邪気な君は、自分自身に向かう想いに鈍感な君は、とても残酷だった。
 恋愛相談を受ける度、協力を仰いでくる度、僕の心が軋んでいたことを、君は知らない。知られないよう砕身していたことを、知らない。
 今にして、思う。
 いっそ、兄貴に告白してくれてたら。うまくいったなら僕は君に会わないようにしただろうし、うまくいかなかったなら…。
 そうしてまた、僕は益体無いことばかりに思考を巡らせるのだ。
 あの日を境に、君の記憶に残ったのは、たった一度の約束で。他の何を君の記憶の中から消滅させたとしても、兄貴との約束だけは忘れなかった。

 天へと上る煙はやがて細く儚くなっていった。
「なにが約束だ。くそ兄貴」
 雲よりも自由気ままに流れることしかしてこなかった兄貴の約束を本気で信じた君。
 知り合った時にはすでに君の誕生日は過ぎていて、来年の君の誕生日を祝うと兄貴は約束した。あれが兄貴の気まぐれでしかないことを、僕は知っていた。そんな真意を、君に伝えることはできなかった。
 ―――これって脈あり?何とも想ってない相手にはあんな約束しないよねっ?
 浮かれて笑顔満面を向けられたら、言えるわけなどなかった。どんな理由であれ、君が笑ってくれると僕は嬉しくて。
「約束は、破る為にあるんじゃねぇよ」
 ここにはいない兄に向かって、唾棄するように吐き出した。罵ろうが非難しようが、兄貴が堪えることはない。判っていても、せずにはいられなかった。
 君の安らかな表情が、余計そうさせるのだ。
 雪を踏み締める音がした。よく冷えた気温に発生する独特の音。人の気配が近づいて、横に並んだ。目視せずとも誰であるか、判っていた。
「……もう?」
 君の様子を傍観し、数秒ののち、静かに口を開いた。仕事上明るく振舞うことの多かった彼の、実直なまでに沈んだ声音を耳にするのは、初めてのことかもしれない。
 君の担当であった彼には、残酷な仕打ちだったろう。だけど僕には、彼以外に連絡をとる相手が思い浮かばなかった。
 僕はゆっくりと頷いた。現実味は何ひとつ、胸に落ちてこないのだけど。
 雪の上に置いた手紙から立ち上る煙が、今にも消えていきそうなほどに細くなる。あの日煙突から吐き出される「それ」を連想させた。兄貴を寂滅させる儀式の、締め括りの光景。
 涙ひとつ見せなかった君は、強かったんじゃない。非情だったのでもない。現実として受け入れなかっただけのこと。
 そうして君は、兄貴への想いと約束以外の総てを、自分の中から追い出した。――たぶん今の僕は、あの時の君と、同じ心境に襲われている。現実を拒絶する、衝撃に。
 きっとあれが最期だった。僕の知る『君』は、あの日を境に、消えた。
 掌を持ち上げ、天に向けた。白の結晶が触れて、透明な水の塊になる。君を連れて行ったのはこの雪なのか、それとも兄貴か。僕に知る由はない。
 知ったところで、戻ってはこないのだ。ずっとずっと遥か遠い場所に、心を置いたまま。
「――もしも、は今でも考えるよ」
 もしも画材屋でバイトしていなかったら。もしも君と兄貴が出会う前に僕が告白していたら。もしも兄貴との約束がなかったとしたら。もしも、僕ら兄弟に出逢わなければ、君は今でもその心臓を動かし、呼吸をして、世界の様々なものを見つめ、くるくるよく動く表情で、誰かの心を幸せにしていたかもしれない。
「兄貴はとっくに生きてないよ。それでも、君の中ではあの事実は無いことになっていたんだよな。兄貴は……生きていたんだよな」
 僕が燃やした手紙は、燃えかすを残すだけとなった。何度も何度も書き直した、君の想いがつまった手紙。何度も何度も、僕に文面の相談してきた残酷な君。
 その無邪気さが、嫌いだった。でも、大好きだった。
「幸せそうですね。こんな穏やかな顔、一度だって見たことありませんでした」
 彼はそっと、悔しそうに呟いた。
 彼とは精神病院の中でしか顔を合わせたことがなかった。コートの下から覗く真っ白な制服が、周りと同化してしまいそうだった。
 僕はしゃがんで君を見つめた。目蓋を閉じたままの微笑みは、本当に幸せそうで。
「心を壊してしまってから、君は僕のことも判らなくなってしまったけど、君にとっては一番いい最期だったのかもしれないな」
 君の名を、そっと呼んだ。これから先、この名を口にすることはないだろう。最期だから、今までの想いの総てを注ぎ込んで、届くことのない想いを唇に乗せた。




[短編掲載中]