――ひと雫でいい。波紋を投げ掛けて…。そして、助けてほしい。


 また、聞こえてきた。
 時々聞こえてくる少女の声。切なく、消えてしまいそうな、頼りなく祈る声。切実な想いが、自分の中に流れ込んでくるのを感じる。
 同時に、頭に直接響いてくる、この音はなんだ?
 金属の擦り合わせたような、甲高い電子音のような。誰かの、悲鳴のようにも聞こえる。
 悲痛な、願いを叫んでいる…――


◇◇◇


 意識はぼんやりとして、霧の中に迷い込んでいるみたいだった。じんわりとスポンジに染み込む液体さながらに、素路莉哉の中へと明瞭な意識が戻ってきつつあった。
 代わりに、音が徐々に遠ざかっていく。
 目蓋を閉じているのに、光がはっきりと感じられた。頬をじりじりと焼く太陽のような熱さも感じられる。
 僅かなけだるさに、このまま目を閉じていれば再び眠りに落ちていけそうだと思う。まだ寝ていたい。だけど、強い光に邪魔されて、そう易々とはいかないようだ。
 カーテンを閉め忘れたか?今日は何曜日だ?…そうだ。昨日から合宿にきていて、今朝方まで騒いでたもんな。眠い筈だよ。…いや。違う。騒いでいたのは昨夜だ。羽目を外し過ぎて顧問にこってり絞られた。今日は二日目の夜だよな。何時になったんだろう?人の動いてる気配は感じられないから、きっとまだ皆も寝ているんだろうな。だったらあとちょっと、意地でも寝てやろう。
 だけど俺、いつの間にベッドに潜り込んだんだ?
 そっと動かした指先から伝わってくる感触は、サラサラとして、仄温かかった。頬を風が撫でていく。空気が流れてる?窓、開けっ放しにしてたのか?いや、待て。その前に。このサラサラしたものはなんだ?ベッドの上になにか置いたっけ?
 目蓋を閉じたまま、くるくると思考を巡らせていると、耳元をかすめて風が通り過ぎた。鳴き声がひと声、風と共に走り抜ける。甲高い獣の声。
 思考も眠気も吹っ飛んで、ぱちんと目を開いた。

 遠ざかっていく大きな翼の鳥が一羽見えた。さっきの鳴き声はあの鳥だったのだろうか。同時に拓けた視界に写る景色に、ガバッと躯を起こす。
「なっ…」
 かろうじて漏れ出た声は、後には何の言葉も続かなかった。絶句。
 力を込めただけ、指先が砂地に食い込んでいく。一面の白い砂。照りつける太陽は、チリチリと肌を焦がしている。緩やかなカーブを描いた砂の丘が幾重にもあちらこちらにあり、果てまでは見渡せなかった。テレビで見たことのある、砂漠そのものの景色。
 その真っ只中に、ぽつんと独り。
 パニックになって、頭の中が自身を囲む砂に負けないくらい真っ白になると、とりあえず人間というものは次の行動をとるもの。らしい。今時漫画でもやらない間抜けな行動を、いたって真面目にやったりする。頬を思いっ切りつねってみた。力を入れてみる。
「いっ…てぇ!」
 夢じゃない。肌を灼く太陽も、通り抜けてく風も、すべてが現実。
「嘘だ、ろ…?」
 俺、どうかしちゃったのか?夢遊病者で夜中に徘徊した先がこの砂漠だったってのか?いや、合宿所は山奥だったし、日本にこんな平沙があるなんて、聞いたこともない。
 いくら逡巡してみたところで答えが見つかるわけではない。頭上でまた、鳥の鳴き声がした。仰ぎ見るとさっきと同じ鳥なのか、くるりと旋回して甲高く鳴き、優雅に滑空していった。
「あいつにはこの先の景色も見えてんだろうな」
 状況が全く掴めない苛立ちに加えて、肌を灼き付ける日差しに、鳥が去って行った方向を睨みつけた。憎々しげに呻いた声は、喉が干上がって掠れたものになっていた。
 こんな所にいつまでもいたら、あっという間に干物になっちまう。移動しないと。
 立ち上がろうとして、ぐらりと眩暈がした。支えようと砂地についた右手が、手首まで呑み込まれる。どれくらいこの状況にあったのか、躯に鉛が埋め込まれているみたいに重い。
 どうにかこうにか気力を振り絞って立ち上がり、ぐるりと見渡した。
「まじ、かよ…」呆然として、呟く。
 見えるものといったら相変わらずの砂と、果てしなくある碧空のみ。砂丘の切れ目だとか、森の緑は全く見えなかった。
 自身の置かれている状況を認識した途端、砂漠の砂にあっという間に吸われていく水同様、莉哉の体力が急激に奪われていくようだった。
 本能が警鐘を鳴らす。
 まずは、木陰を捜そう。
 朦朧とする頭に鞭を打って、莉哉は何とか一歩を踏み出した。




 どれほどの時が経過したのか、腰の高さほどもある草に覆われた森の入口に辿り着いていた。見上げるほどに高い木々によって作り出される清陰に、ようやと遮られた太陽の熱から解放された安堵感に、ほっと息を吐いた。
 近くにあった大木の幹に右手をつき、俯いていた顔をつと上げ、奥の方を見遣る。
 枝葉が鬱蒼と生い茂り、光の届かぬそこは、足を踏み入れるには躊躇うほどの不気味な暗さがあった。左右を見ても木々の壁がどこまでも立ちはだかるばかり。背後にはやっとの思いで抜け出してきた焦熱の砂漠があるだけ。
「前進あるのみ、か」
 干上がる喉からは擦れた声しか出なかったけれど、声にして言うことで決心をつけることができた。小さく深呼吸をして、道なき道を進み始める。
 森の入口の方を振り返っても砂地が見えなくなるほど奥へと進んでいた。時間の感覚はすでに失われていたのだが、重い足取りを引きずるようにして歩いていたためか、ひどく長い間歩いているような感じがした。
 ふと立ち止まり、戻れないのか、と少しだけ物悲しい感情が寄せてきたものの、頭を振って再度気合いを入れ直した。
 これだけ植物が育つってことは何かしらの水源があるはずだ。一口でもいいから、痛みをともないつつある喉に潤いがほしかった。
 足元を掬われつつ砂丘を抜けて尚、今度は草を掻き分けて進まなければならず、歩きずらさで言えばどちらもいい勝負だった。と、突然、ぐにゃりと視界が渦巻く。水に浮かべた絵の具を指で掻き混ぜたように、目の前の光景が歪んだ。
 なんっ…!?
 天地が引っくり返る感覚によろめき、近くの幹に寄り掛かる。
 パンッと光が弾け、それまでの景色とは別物の映像が展開された。けれどそれは一瞬で…。
 頭を振って気づいた時には、元通りの森の中に立っていた。
 やけに鮮明に残る映像――少女の後ろ姿。華奢な肢体に流れる細髪。鮮やかな、赤銅色。かつてそんな色を纏う人間を、彼は見たことが無かった。
 天に向かって溜息を吐いた。幻覚から醒め、それほどまでに弱っているのかと、気が囃し立てられる。
 覆い被さる葉は相変わらず太陽の姿を遮っていた。直射日光が当たらないだけ幾らか気分は楽だ。とはいえ、こんなところで留まっていられるほど心地いい場所ではなく、大きく息を吸い込むと幹から躯を起こした。
 ざわ、と奥からの風が森の緑を撫でていくのと同時に、莉哉の耳に清音が届いた。悲調の旋律。笛の音のようだった。
 人が、いるのか?
 首を伸ばして音源へと視線を集中させるも、あるのは暗い暗い森だけ。道もない。風が無くなれば音もピタリと止んでしまった。
 一筋の希望に縋り付くように、音のした方向へと歩き出した。幻聴ではないことを祈りながら。
 歩調はやがて自身でも気づかぬうちに早まり、足をとられつつもほとんど走るような速度で奥へと進んだ。


[短編掲載中]