視界の先に、光の差し込んでいる拓けた場所が入った。何かが反射してキラキラと輝いている。近づくにつれ、それが風に吹かれて水面を微かに波立たせている泉だと判った。
 莉哉の目には最早、その清泉しか映らない。
 速度を速めるほどに近づいていく泉に期待を膨らませ、ポッカリと拓けた軟らかい草地に勢いづいたまま踏み込み、ほとりに佇む影に急停止した。
 乾いた、少しひんやりとした風に揺らされる赤銅色の髪。真っ直ぐなそれは腰まで伸びて、躯のラインに沿って緩やかに弧を描く。降り注ぐ光に艶やかに輝いていた。
 ふわりと舞った風に乗って、甘く爽やかな花の香りが漂った。
 腰高の草地より飛び出した時の草の揺れる音と、短い草地に降り立った先にあった小枝を踏み折った音は、その影を振り向かせるには充分効果があった。
 華奢な後姿に釘付けになっていた莉哉は、弾かれるように振り返った赤銅色の影の、瞳とかち合った。
 凛とした、どこまでも清らかに見える双眸。――髪よりも鮮やかな、赤銅色。
 強堅で凛然とした瞳。射抜くほどに鋭くもあり、脆く儚くも見えた。美麗な姿に、神経の総てを奪われる。
 陽の光は、まるで彼女のために降り注いでいるかのようで、光彩は惜しみなく彼女を照らしている。互いに逸らさない目線。赤銅色の瞳が濡れているように見えた。
 ――泣いて…?
 瞠目した次の瞬間、後ろへと飛ばされる圧力と背中に強い衝撃。声にならない息が鋭く吐き出された。細められた視界に刹那のかすみがかかる。
 状況を把握しきれぬまま明澄になっていく目の前に、真紅があった。赤銅の長い髪がさらりと揺れ、莉哉の首に冷たい感触があたる。陽を受け、それは冷たく光った。
 真紅の双眸。――それは確かに、さっきまでほとりに立っていた彼女のものだった。
 瞬きほどもない時間のうちに、彼女が莉哉を樹の幹に押し付けていることを理解した。加えて、自身の首にあてられているものが剣であるということにも。莉哉よりも小さい、華奢な少女。その手にあるのは似付かわしくない、光を放つ剣。あどけなさが残る面影の中の強い眼差し。
 濡れていたように見えたのは幻だったのかもしれない。
 莉哉はただならぬ緊迫状態に、どうでもいい方向に思考を働らせていた。今考えるべきはそんなことではないと、理性は訴えていたのだが。少女の放つ雰囲気が一切のそれを許さなかった。
 生まれてから一度も味わったことのない状況。
 ――少女が放つ威圧感は、殺気そのものだった。
 莉哉が生きてきた人生の中で、自分に向けられたことなど、勿論初めてのことだった。
 ただただ、自分を見上げる真紅の瞳を見つめ返すだけだった。しげしげと見つめられ、ほんの数秒が、長く感じられる。――突然、真紅の色が揺らいだ。
「あ…!」
 可愛らしい声だった。纏わりついていた刺々しい空気は、途端に消えた。
 依然同じ体勢で幹に張りついていた莉哉に、想像もしなかった言葉が降ってくる。
「すまない…。斬れた」
「え…?」
 目の前の表情は別人のように変わっていた。
 混乱していた。少女の言葉の意味も理解できず、自分の置かれた状況が変化したのにもついていけなかった。
 少女はパッと離れると剣を背中にしょっていた鞘に収めた。全容を見せた刃は、小柄な人間――しかも少女が持つとは思えない長剣だった。乾いた金属の音が耳に届く。
 少女の瞳は最初に見た色へと変わっていた。
 燃えるような真紅が、錯覚だった?ますます混乱する。
 ここはどこなんだ。夢か?にしては感覚はしっかりある。頬を撫でていく風も、光の暖かさも感じられる。色彩は鮮やかだし、何より、目の前の少女が発する声は可憐で甘い響き。
「名は?」
 甘い声が、その容姿にぴったりな声色が、あまりに粗雑な言い方をして、莉哉を再び当惑させた。少女をじっと見つめていた彼はその唇が動くのを確かに見た。間違いなく少女が発した言葉だと判っていたのだが。
「え…」
「貴方の名だ。あるよな?」
 まるで少年のような口調。莉哉が知る、この年頃――とはいっても、おそらく彼より一個か二個くらい下だと思うのだが――の少女は、もっと異性を意識したというか、確実にこんな口調ではなかった筈だ。見た目とも声質とも、想像からかけ離れた口振りに、さっき感じていた殺気など、欠片もなくなっていた。
「…莉哉。…素路 莉哉」
「リー…?」
 聞き取りずらかったのか、少女は小首を傾げた。無邪気な瞳。その仕草はとても可愛らしい。
「り、い、や」
 一つ一つを確かめるようにゆっくりと発音すると、少女は問題が解けた子供みたいに表情を明るくした。
「リーヤ、だな。承知した」
 やはり違和感を覚えざるをえない言葉遣いにポカンとした莉哉の間抜け面が可笑しいのか、少女はくすくす笑うと身を翻した。ほとりに投げ出されていた袋をまさぐりつつ、片手に包み込めそうなくらい小さな入れ物を手に、再び莉哉の前に立つ。
 すっと伸ばされてきた手に思わずピクッと反応してしまうと、少女はいったん手を引っ込め、困ったように笑った。
「リーヤ。傷見せてくれないか」
「傷?」
「首のとこ。少し斬れた」
 少女は自身の首に手をあてて、莉哉の顔をじっと見た。つられて莉哉も自分の首筋を触ると、液体の感触があたった。うっすらと指先についた赤。血がついていた。
 手の中にある入れ物の蓋を開け、緑色のペースト状のものを指にとる。
「触れて、いいか?」
 血の量から見てもたいした傷ではないと判るものの、黙って頷いた。
 軽く背伸びをした少女の指先が首に触れる。薬のような苦い匂いが鼻をくすぐった。
「しみるか?」
「…いや。平気」
 傷口を見るために覗き込んでいる吐息が首にかかった。こんな風に、誰かと接近することに慣れていないわけではないのに、莉哉の心音は相手に聞こえてしまいそうなほどに騒いでいた。ともすれば、顔が熱く感じるほどに。
 見たこともない色彩を持つ端麗な顔立ちだからだろうか。
 意識を他へと逸らそうとすればするほど、余計にはまっていくようだった。
「コカの葉をすり潰したもので、斬り傷の治療でこれに敵うものはない」
「ん?…ああ、そうなのか」
 集中しきれず曖昧に答えた。少女は「これでよし」と小さく言うと一歩分離れた。
「悪かったな。痛くはないか?すぐ治るとは思うんだが」
 幹に莉哉を押し付けていた人物と同じとは、到底思えそうになかった。威圧感はどこにもない。
 さっきのは…なんだったんだ。
「リーヤ?」
「…痛くないよ」
 再び覗き込まれそうになって、慌てて顔の前で手を振った。あの上目遣いは、やばい。
 口元を押えてそっぽを向いた莉哉に首を傾げながらも、また袋のところまで行くと薬をしまい込んだ。
「では、リーヤ。その格好は目立つ。だが、男とも女とも判らなかったし、今日とも判らない状態でなんの用意もしてなくて…」
 再び袋をまさぐりつつ、独り言サイズとも話し掛けてるともとれるの音量で近寄ってくる少女は、どうやって入れていたんだ、と疑問が浮かぶほどの大きさの布をズルズルと引っ張り出した。生成りの柔らかい一枚の布を大きく広げ、莉哉を頭からスッポリと包み込む。
「おい。なんだよ、これ」
「服を用意していないんだ。これで我慢してくれないか。とにかく、その格好を見られるのはまずい」
「じゃなくて…」
 言い掛けて、続きは少女の言葉に飲み込まざるを得なかった。
「まさか本当に…異世界からくるとは、ね」少女は肩を竦めた。
「は?」
 いよいよもって、莉哉の頭の中は真っ白になった。


[短編掲載中]