森を反対側へと進むと、広大な草原が広がっていた。風が爽やかな緑の香りとともに草をなびかせている。
 莉哉が降り立ったのは、カルダナール大陸のほぼ中央に位置する砂漠の真っ只中だった。そこは、よほど慣れた者でないと無事帰ることは不可能とされ、加えて、たった今抜け出してきた森は迷い込みやすく、少女曰く「お前は運がいい」という。泉を見つけ、彼女に出逢わなければ、訳の判らないまま途方に暮れていただろう。
 だからといって、目の前を歩く彼女を全面的に信用したわけではない。とりあえず自分のすべきこと――この状況の打破する方法――が明確になるまでは言う通りにするしかないと判断した。
 大きく溜息をついて、森の出口に差し掛かった時だった。
「ウィル!」
 突然明るい声をあげて走り出した少女。慌てて莉哉も後に続いた。
 前方に広がる草原の中に白い点を見つけた。こちらに向かって疾走してくるそれは、ぐんぐん近づいて、少女の前までくるとピタリと止まった。頭を垂れて、猫がそうするみたいに、鼻を摺り寄せている。
 一見、馬のようだがそれよりも全体的に細く小柄で、たてがみのある雌鹿といった表現がしっくりきた。少女はくすぐったそうにしながら、首を撫でている。
「ウィル?」
「この子の名前だ。足の速さはナラダ国中、いや、世界中のどのホスーにも負けないだろう」
「ホスー?」
「…そうか。リーヤのいる世界に、ホスーはいないのか」
 何も判らない状況で仕方がないとはいえ、一語一句聞き返しているのは自分がひどく情けなく思えた。
 この少女は、どこまで知っているのだろう。
 総てを把握していようと、そうでなかろうと、いきなり現われた『異世界の人間』に戸惑いも驚きもせず、冷静に行動している。
 おそらく彼女にとっては想定していた人物が現われたということなのだろう。異世界から貴方は来たんだよ、と言われて「はいそうですか」とあっさり納得できるほど能天気な性格ではない。むしろ焦燥にかられるくらいで。だが、それを聞こうとするのは、疑問を口にするのは躊躇われた。
「どうした」
「え?…あ、いや。なんでもない」
 何をぼけっとしてんだ、と自身を叱咤する。気を抜いていたわけではないのだが、少女の笑顔には魅入ってしまうほどの引力があった。鮮やかな赤銅色の瞳が、柔らかく向けられる。
 近づいてくる瞳に、思わず半歩下がってしまった。
 そんな莉哉に構わず手を伸ばすと彼の躯をスッポリとくるんでいた布の一端を引っ張って、頭から被せ直した。
 僅かに手が頬に触れ、また鼓動が騒ぎ出す。
「顔、隠した方がいいな。これから人目につく場所を通って帰らなければいけない」
「…判った」
 胸の内が騒いでいることを悟られたくなく、フード状になった布をさらに引っ張って目を覆った。
「しばらくの辛抱だ。ウィルの俊足ならすぐに着く」
 俯いたのを違う意味にとったのか、少女はさらに覗き込んできた。
 見た目ぶ厚そうだった布は、いい意味で予想を裏切っていた。軽やかで、全身を包んでいても重さはさほど感じない。通気性がよく、暑くない。
 森を抜けるまでの間は誰かの目に触れることなど皆無であり、それでも用心の為に服装だけは見えないようにと躯を隠していた。
 本当に『異世界』へと飛ばされたのか半信半疑なものの、彼女に言わせてみれば、Tシャツにカーゴパンツという莉哉の出で立ちは異質であるという。
 少女の着衣は、ベトナムの民族衣裳アオザイに似た長衣で、丈は足首まであった。歩くにも邪魔になりそうなくらいの長さにも関わらず、着慣れているのだろう、颯爽と森の中を歩いてきた。ホットパンツくらいの短さの脚衣に、膝までの靴を履いている。背中には長剣が背負われていて、莉哉にはその剣こそが異質なものに見えた。
 これは、本当に現実なのだろうか?
 何度も、何度も、声には出さずに問い掛けている。答えのない、疑問。
 口にしてしまえば、そうだと返ってくるのだろう。それが怖い。馬鹿みたいに、悪あがきだと言われても、はっきりと肯定されてしまえば、逃げ道が断たれてしまうようで。幻想の中にいるのだと、思い込みたかった。
「リーヤ、乗って」
 舞うような身軽さで先にまたがった少女は、自分の背後、ウィルの背を指した。
 ホスーとは馬と同じ役割を果たしているのだろう。だが、二人分の体重に耐えられるようには見えなかった。自分が乗った瞬間ポッキリと脚が折れてしまいそうで。
 躊躇っているとウィルは、ぶるるんと一声鳴いて大きく首を振った。莉哉を包む布をくわえて引っ張る。
「ウィルも乗れって、言ってる」
 彼女も気づいていたのか、可笑しそうに笑って手を差し伸べてきた。思考を読み取られたみたいでバツが悪かった。
「歩いてなんかいたら、何日かかるか判からな、」
 言葉尻が途切れ、それまであった笑みが、消えた。なに、と口を開き掛けた声は音にはならなかった。
 少女はひらりとウィルから飛び降りて、着地した時には抜剣していた。一連の流れを、息を飲んで見つめていた。
 すっと立ち上がり警戒を剥き出しにする。周りに神経を張り巡らせ、ウィルの首に手を添えた。
「なぁ…」
 緊張が走る中、ようやとそれだけ言えた。
 ぐい、と莉哉の腕を引っ張り半ば強引にウィルの背に押し上げる。
「おいっ…」
 ピリリとした空気の原因を、その正体を、知らなかったのは莉哉だけだった。ウィルでさえ全身で警戒している。背中が強張っているのが感じられた。
 ピクリ、と彼女の肩が動いた。
 それまで誰もいなかった草原に突如、黒い影が二人を取り囲んだ。
 いつの間に?
 戸惑う莉哉のすぐ傍で、鋭い声がした。
「ウィル、行け!リーヤを頼む!」
 ウィルはポンと首筋を叩かれると同時に駆け出した。
「ちょっ…!おいっ!」
 ぐん、と圧力がかかり、慌てて首にしがみついた。顔だけで少女を振り返る。
 ――赤銅色の瞳は、鮮やかな真紅に変わる。
「しっかり掴まってろ!ウィルに任せておけば大丈夫だから!」
 叫ぶ少女の声は瞬く間に遠ざかっていく。小さくなっていく姿を凝視した。黒い影は少女を取り囲んでいる。その手には剣があった。
「おい、ウィル!」
 莉哉の声など聞こえないのか、主以外の声を聞く気がないのか、意志を持ってまっしぐらに駆けていく。景色は猛スピードで流れていく。
 相当な速さであるのに、不思議と風の抵抗を感じなかった。何か、あたたかなものが莉哉とウィルをくるんでいた。


 ウィルに莉哉を託した後、少女は黒い影と対峙した。
 足元まであるマントに身をくるみ、フードを目深に被っている三人の男。顔は見えなくとも正体は明白だった。
「今日は、お前らが相手か。…なめられたもんだな」
 真紅の瞳は自嘲気味に笑った。
 胸に施されたクエン国を象徴する紋様の刺繍の色で、グラザン第二隊の者と判る。
 真の目的は…?まさか、もう?
「彼は?」
 正面に立っていた男はウィルの影を目で追った。
「お前には関係ない。相手はこっちだろうっ!」
 思案している場合ではない。意識を引き戻して地面を蹴った。
 少女の繰り出した剣撃を男は防御し、弾き返す。すかさず反撃された剣先をかわし、少女は後ろに飛んだ。着地し間髪入れずに背後にいた男の足元目がけて回転しながら蹴りつけた。真上に飛んで少女の蹴りをかわし、剣を振りかざす。それを薙ぎ払って防御すると、少女は素早く攻撃の輪から飛び出した。
 距離を保ちながら、剣を構え直した視界の端に、弓矢を構えた姿が飛び込んでくる。
 矛先は少女ではなく、莉哉に向けられていた。
 やはり目的はリーヤ!?何故こんなにも早く?
 胸の内で毒づき、少女は剣先を定め地を蹴った。が、到達するよりも早く矢は放たれた。


[短編掲載中]