何ができるわけじゃない、判っていても莉哉は振り返らずにはいられなかった。長剣を携えていたとはいえ、あの華奢な躯で三人もの人間を相手にできるとは思えなかった。
 気配もなく自分達を取り囲んだ黒い影。常人の動きではなかった。
 あの場に残ったとて邪魔にしかならない。判っていても歯痒かった。主の指示に従い走り続けるウィルに苛立ちすら覚える。
 少女は三人の黒い影に囲まれて、内二人が剣を握っている。舞うように、攻撃と防御を繰り返しているのが見えた。剣光は陽を受けて鋭く光る。
 赤銅の影は引けを取ってはいなかった。むしろ、優勢であるようにも見える。
 気をそこにとられていた所為で、自分に向かってくるものがあることに気づいたのは、間近に迫ってからだった。
 もっとも、それに早くに気づいていたからといって、莉哉に避ける術はなかったのだが。
 真っ直ぐに自分を狙っている矢先に目を瞠るしかなかった。咄嗟に目をつぶることも、腕で防御態勢をとることも、動くことが出来なかった。
 刺さる…!
 思った瞬間、それは数十センチ手前で弾かれた。見えない壁がウィルと莉哉を護っていた。矢が地面に置き去りになる。
 莉哉を乗せた白い影は微塵も迷うことなく突き進んでいった。


「【保護壁】か!」
 弓を構えた男は舌打ちする。
 少女の口元に笑みが浮かんだ。「どうする?最後まで遣り合うか?」
 負ける気は全くなかった。気迫に押され、男たちは一歩後退った。


◇◇◇


 風の中を、疾走していた。
 今は己の主を背に乗せ、二人分の重みをしっかりその背に受け、確かな足取りでウィルは草原を駆け抜けている。
 風になびく赤銅の髪が時々莉哉の頬をかすめた。舞う度に、微かに花の香りがした。互いに無言だったのは、決して疾走する風の強さで口が開けなかったからではなかった。
 莉哉は何を聞けばいいのかも判らずにいた。否、判らなかった訳ではない。
 合流した時の、少女の笑顔の中に混ざる焦燥の色を問えばいいのか、どこまでを知っているのかと、この状況を打破する方法を知っているのかと問えばいいのか。疑問は泉のようにこんこんと湧いても、喉から先へ吐き出すことが出来ずにいた。
 少女は何も言わない、問わない。沈黙は、そうすることを拒んでいるようで。
「リーヤ!見えてきた!」
 悶々と思考を巡らせていた莉哉に、明るい声が割って入ってくる。指差す方向に、白亜の城があった。遠目でも判るくらい、巨大な城。
 緩やかな丘の頂に悠然と構える姿は、威圧感さえ覚える。城下にはレンガ色の屋根が立ち並び、中世ヨーロッパを思わせる光景だった。
 城の背後には本然の崖がそそり立っている。巨大な城郭都市――『剣聖帝国ナラダ』だと少女は前を見据えたまま言った。
 近づくにつれ、街そのものを取り囲む壁が迫ってきた。街門は一つしかなく、門兵が気難しそうな顔をして立っていた。
 莉哉を見遣る布越しの視線が痛い。躯が自然と硬直した。
 少女はウィルから降り立つと、門兵と向き合った。凛とした後姿。纏う空気が違って見えた。
 莉哉から視線を少女に移した門兵は無言で道を開けた。ちらりと布の隙間からみた門兵の顔に浮かぶ複雑な表情に、莉哉は怪訝そうに眉をひそめる。
 なんだ…?この空気。
 気に留める様子もなく、少女はウイルを導き歩き出した。
 少女が抜けた分のスペースが空虚に思えて莉哉は前へ移動しながら、居心地の悪さに口を開き掛け――突然振り返った少女の笑顔に言葉を飲み込んだ。
「いい。そのまま乗ってて。服装見られないようにだけ気をつけてくれ」
「っ。…ああ」
 びっくりした。なんで判ったんだ?
 驚いて跳ね上がった心臓を悟られぬよう、誤魔化すように顔の前の布を引っ張った。
 門をくぐると周りの音は喧騒に変わり、一変して賑やかになった。
 堂々と見られないのが残念だったが、耳に飛び込んでくる音だけでも、街がどれだけ明るく活気に満ち溢れているかというのは肌で感じられた。視界の端から覗き見れば、両脇に店が立ち並び、市場になっているようだった。
 威勢のよい掛け声。談笑する店の者と客。子供の手を引っ張る母親。物々しい立ち振る舞いで莉哉を睨ね付けてきた門兵のことなど、気にもならなくなった。
 石畳の道を叙歩していく。と、喧騒の中から一際大きく、子供の声がこちらに投げ掛けられた。
 ウィルは指示されたわけでもないのに歩みを止め、横に並ぶ少女と同じ方向を見つめた。
「ミュウ姉!」
「…セト」
 小さな少年がぱたぱたと駆け寄ってきた。少女は屈み込んで目線を合わせると、笑顔を作った。――文字通り、作られた笑顔だった。
 一瞬の間に浮かんだ感情――悲憤、哀痛、惨痛、困惑、そして引責――を、自身の中に慌てて押し込めた。
 十歳もいかないだろう年頃の少年は俯き気味に少女の腕に手を置いた。その瞳は揺れている。開き掛けた口を噤んだ。
 少女は曖昧な笑みを緩やかなものに変えて――セトが言いたかったことは判っていると、受諾顔で――少年の顔を覗き込めるようにと更に身を屈めた。
「傷の具合はどうだ」
 少年の二の腕に巻かれた包帯を見た。薄く笑うと「大丈夫…」と首を横に振った。少女は「そうか」と囁いて、再び少年の顔を覗き込んだ。
「セト、お願いがあるんだ。これをマトゥーサの母様に届けてくれないか。自分は顔を出せなくて…」
 紐を通して斜めに掛けていた水筒を躯から外し、少年に差し出す。言葉を遮るように少年は首を横に振った。表情の中の蔭りは色を増しているようだった。
「セト?」
「……」
 今にも泣き出しそうな少年は首を振り続けるばかり。困って、少しだけ笑みを崩すと、優しく諭すように言った。
「どうした。セト?」
「――…んだ」少年の声は掠れてる。
「うん」
「…死んだんだ、マトゥーサのお母さん」
 少女の背にも、はっきりと陰が落ちた。水筒を持つ手が、白くなるほどに力を込める。
 同じ空間にいて、状況を把握していないのは莉哉だけで、でもそれは聞ける類のものではない。傍観していることしか出来ない自分は、ひどく役立たずな人間に思えた。
 細い少女の腕が少年を引き寄せ、抱き締めた。途端、セトの瞳から大粒の涙がポロポロと零れ落ちる。嗚咽を漏らし、少女の肩に埋もれる少年を包む背中は、小さく震えていた。
 しばらくすると少年はぐずぐずと鼻を鳴らしつつも、ゆっくりと離れた。頬に残る涙を拭ってもらい、ぐっと口元を引き締める。
「…すまない」
 か細い声だった。消え入りそうなくらい、悲しい音色。なのに、凛とした少女の顔に、涙はなかった。
 少年はまた、激しく首を振る。
「もう、行かなきゃいけない。一人で帰れるか」
「…うん」
 すっと立ち上がり、少年の頭を撫でた。身を翻そうとして袖口を掴まれ、動作を止める。
「ミュウ姉、これ…」
 おず、と差し出された小さな手には一輪の花があった。五枚の花弁が咲き誇っている。乳白色のそれは、光を受けて七色に輝いた。
「ルーリの花…。どこで?まさか…」
 壊れ物を扱う慎重な手つきで受け取ると、再びしゃがみ込んだ。少女の目には、どこか咎めるような色が混ざっていた。
「違うよ。ミュウ姉が摘みに行く所にはとてもじゃないけど僕は行けないもの。…ミュウ姉も好きだよね?」
「ん。…な、セト。危険なことはしないで。なにかあれば自分に言って」
 少年はコクリと頷いた。少女がほう、と息をついて「ありがとう」と笑顔に戻ると、少年もはにかみながら笑った。
 二人の間に流れる空気が、ほんの少しだけ、和らいだ。


[短編掲載中]