広大な城の一室に、莉哉は座っていた。
 城へと足を踏み入れてから目に入ってくるものといえば、見上げるほどに高い天井に施された彫刻模様や、果てが見えぬほどに長い廊下に整然と並べられた装飾物。中庭と呼ぶにはあまりにも広い緑地。見慣れない豪華さに目が痛いほどだった。
 腰を落ち着けたこの部屋は、扉一枚隔てただけでこうも変わるものかと思ったほどに簡素なイメージを受けた。
 壁や天井に装飾の類は一切無かった。ところどころに豪奢な調度品はあるが、それ自体が個々を主張することはなく、部屋が醸し出す雰囲気に溶け込んでいる。
 勧められて座った寝台はふわりと莉哉を受け入れて、清潔なシーツの触り心地がやっと彼の心に落ち着かせる欠片をもらたした。
「おかしい…。ここに置いてた筈なのに…」
 部屋に着くなり莉哉を座らせると少女は棚を捜索し出した。城下街で少年と対面していた時の雰囲気は微塵も残っていない。泉で剣を突きつけた時のも、草原で男達と対峙した時のも、全く無くなっていた。
 どれが本当の彼女なんだろう。そもそも、何者?
 捜し物に夢中になっている後姿をボンヤリ眺めながら思っていた。
 街門をくぐる時の門兵の顔。歓迎しているとは言い難い表情だった。それは、莉哉にというよりは少女に向けられたもので。けれど、城門をくぐり城内へ入る時も、止められることなくすんなりと入ることが出来た。顔が知れ渡っている証拠だ。
 全身をすっぽりと覆われた莉哉に奇異の目が向けられることはあっても、彼女はそこにいるのが当然のごとく存在感を示していた。
 考えても、判るもんでもないか…。
 自嘲気味に溜息をつくと、足元に視線を落とした。
 棚には色とりどりの小瓶やら箱やらが詰め込まれていて、どうやら薬品が入っているらしい。泉で傷に塗ってくれたのも、この棚から持ち出されたものなのだろうか。
 しばらく捜して見つからないらしく、棚に向かって悪態を吐くと莉哉の方へ向き直った。
「痛みはあるか」
「へ?…あ、首?」
「違う」
 近づいて片膝をつく。やんわりと腕をとって観察するとパッと顔を上げた。疑問を浮かべながらも上目遣いの目線に、顔で熱が弾けた。
「顔赤いな。腕の方は大丈夫そうだけど、早く塗った方がいいな」
 独り言のように呟く。自分に向けられたのか不明だったが、どうやら莉哉に使うものを捜していたらしい。
 顔が赤くなっている原因を悟られていなかったことに胸を撫で下ろすと同時に、まじまじと躯を見られるというのは実に気恥ずかしかった。
「な、なにっ…捜してたんだ?」
 上擦った声が出て、内心で舌打ちする。少女は頓着せず端的に口を開く。
「ルルドゥの樹液。火傷に効くんだ」
「火傷?」
「日差し強かっただろ。あの砂漠にどれくらいいたか判るか?ほっておくと危険だからな。ただこれくらいなら薄めたもので大丈夫だろ」
 安堵した様子で立ち上がり、今度はテーブルに置いていた袋を探り出した。
「たぶん誰かが持ち出してるだけだと思うから、捜してくる」
 袋から革製の水筒を取り出した。セトに渡そうとした水筒も肩から外し、並べて置いた。中身は同じ、森の泉で汲んできたものだった。
「それで薄めて使うんだ?」
「そう。あ、勿論飲めるものだぞ?」
「え、いや。そういう意味じゃない」
 泉のすぐ傍で湧き出ていた清水。少女が汲んできてくれた時「元気になるから」と差し出され、何の疑いもなく一気に飲み干した。喉はすでに悲鳴をあげていた。
 汲んだばかりのそれは喉に心地よく、ほんのり甘かった。
 泉のほとりで布を被せられた時、体力は限界を越えていたらしく、その上、剣を突き付けられた精神的な疲労感も手伝って、莉哉はへたり込んでしまったのだった。動けずに休息をとってる間に、少女は二つの水筒に清水を満たした。
「この清水には、若干だけど体力を回復させる効力がある。だから…」
 先を紡げなかった。セトに渡すことの叶わなかった水筒を見つめている。表情が歪んだのは一瞬のことで、莉哉に向き直った時にはもう、暗い陰は消え去っていた。
「ミュウ…ってゆーんだよな?」
「え?」
「名前。セトって子が呼んでた」
 きょとんとして、すぐさま合点がいったように笑った。
「ああ、それは自分の、」
 語尾がノックの音に重なって、少女は扉を見遣る。莉哉もつられて見た。
「いるのか?」
 扉越しのよく通る低い声。相手が誰だか判ったらしく、素早く返事をした。ノブをまわして入ってきた人物に、不覚ながら目を奪われる。相手が男だと判っていたのに。
 痩身で鍛え上げられた体躯。がっちりとした肩。精悍な目元。頬に陰を落とすほどの長い睫毛。流れるような細い銀髪を肩のあたりでゆったりと結わえている。そして、少女とは対照的な、碧色の双眸。これほどまでに秀麗な容姿を見たことが無かった。
「あー!!それ!捜してたっ」
 莉哉が迂闊にも長身の青年から目を離せずにいると、少女の素っ頓狂な声が恍惚の淵から彼を引き離した。青年の手には濃茶色の瓶が乗っていた。
「ああ…」と低い声が応じる。
 引ったくるようにその手から瓶を奪還して棚の中から器を取り出した。
「なんでコウキが持ってる。使い方判らないくせに」
 子供みたいな口調に対して、長身の銀髪――コウキは眉一つ動かさない。少女がルルドゥの樹液と清水を器で調合してる様子を眺めている。
 コウキと一緒になって様子を見守っていた。が、ふと視線を感じて見遣る。碧い双眸が莉哉を見つめていた。
 どこか深海を思わせる濃い碧。吸い込まれそうだった。
「ミウカ、彼が?」
 最後まで言わなくても彼女には伝わっていた。手を止め、自身よりも頭二つは大きい美麗な横顔を見上げる。
「そうだ」
 コウキは莉哉から視線を外さない。射すくめられる碧の明眸。
「名は?」
「人に名前を尋ねる時は、まず自分が名乗るべきなんじゃないのか」
 無意識に口をついて出ていた。にべもない言い方。競争心にも似た感情が沸き起こっていた。圧倒的な空気に負けたくないと。少女に問われた時には湧かなかった感情。
 意に介さず、コウキは口端を僅かに持ち上げた。
「そうだな。――…私は、コウキ=ラクフィール=ナラダ」
 ナラダ?
 莉哉の疑問を読み取ったかのように赤銅の瞳が答えを紡いだ。
「次期皇帝、ナラダ国第一皇子だ」
 ぽかんとしている莉哉を置き去りに、二人は顔を見合わせた。
「身分というものがそんなに珍しいものなのか?」
「…のようだ。彼の名は、リーヤ。ターニアが予言した中で一番可能性が低いとされた――異世界からきてる」
 碧眼は莉哉を改めて観察した。
「…なるほど」と首肯する。
 ――そこに、明確な原因があったわけじゃない。彼が立っていて自分が座ってるせいで見下ろされてる感じがしたから、なんて稚拙な理由でもない。ましてや、相手が皇子だからとか、関係なかった。
 ただ、何となく癪に触るのだ。
 コウキがそこにいるというだけで、取り囲む空気さえも変えてしまう。産まれながらに備わっている気質――魅力に呑み込まれた自分が、気に食わない。
「素路莉哉、だ」
挑むように見上げて出した声は憮然としたものになった。莉哉の視線を受けて尚、悠揚とした態度は変わらない。
「リイヤだな」
 素っ気なく言って、つと碧眼を少女に向けた。
「ミウカ。リーヤじゃない、リイヤだ」
 語調は変わらない。だが根本の僅かな部分がそれまでとは明らかに違っていた。諭すような、兄のような響き。――そこには、ぬくもりがあった。
「リイヤ?…そうか、リイヤか」
 悪かったな、と言ってミウカは肩を竦めた。
「では、改めて『宜しく』だ。リイヤにとっての異世界――ラスタールへようこそ」
 しゃがみ込んで、調合したばかりの薬液を塗ろうとしている少女は、たおやかに笑った。腕をとられ、顔が熱くなる。誤魔化そうと焦燥にかられた。
「ミ…、ミウカでいいのか?名前」
「……!」
 今更になって名前を聞く自分も自分だが、目の前の赤銅色の瞳にはここにきて名乗っていなかったことに初めて気がついた様子だった。
「名乗ってなかったのか」
「あー…だな」
 傍視していたコウキは呆れて息を吐く。
 照れ笑いを隠そうとはにかむ顔は、はっきり言って犯罪的に可愛すぎる。またぞろ顔が熱くなるのを感じながら、目を逸らせなかった。
「遅くなった。自分の名は、ミウカという」


[短編掲載中]