ナラダ国第一皇子、コウキの執務室で碧の瞳は、赤銅色の影と向かい合って座っていた。
 間に落ちた沈黙は、夜の帳のせいばかりではなかった。
「確証はないが、可能性は充分高い」
 少女特有の軽やかで甘い声。だがその声が作り出す言葉は重々しいものだった。組んだ足に片肘をつき口元に手を当てていたコウキは美眉を更にひそめた。
「グラザンの第二部隊、…しかも三人だけとなると、やはり狙いは常とは異なるのだろうな」
「的確に場所まで知っていた。…ターニアは、自分が城を離れている間に『波紋を投げ掛ける者』が降り立つ日が今日であると導き出したのだろう?」
「お前達が城に到着する、ほんの数刻前のことだ。だからルルドゥの樹液が必要だろうと返しに行ったのだからな」
「間者がいるという訳ではなさそうだな。しかし、クエン国の目的が彼である可能性が拭えない限り、油断はできないな」
「ミウカ、」
 低く、よく通る耳に心地良い声。被せるように愛らしい声が重なった。存知顔で頷く。
「判かってる。…もとより承知だ。絶対に護り切る。彼を死なせはしない」
 燭台の灯りが頼りなく照らす薄暗い部屋の中、鮮やかな真紅の瞳が浮かび上がった。




 晴天の闇夜。月は頭上高く登り、星とともに輝いていた。輪郭の鮮明な満月は、無数の星達が造り出す天の河を携えて夜に鎮座していた。
 空は同じなんだな。
 肌寒いくらいの夜気を纏って、莉哉は小さく身震いした。
 砂漠でどれだけの時間照射されていたかは判らないが、ルルドゥの樹液のおかげか、微かに赤くなってはいるものの痛みはなかった。
 さあっ、と微風が莉哉の頬を撫でる。袖がはためいた。
 ナラダ国の服を用意されたのだが着替えずにいた。上等な布地で出来た着衣に気後れもあったし、長衣など動きずらそうで遠慮した。
 元の世界からの持ち込んだのは今着ている服と、ポケットに突っ込んでいた携帯電話だけだった。
 どうやってあの砂漠に降り立ったのか――落ちてきたのか、乱れた映像が輪郭を現していくように粒子が集結するみたいに実体になったのか――全く覚えてはないが、衝撃もなく、太陽の熱にやられることもなく、電源を入れればちゃんと作動する。どの方向に向けようとも圏外ではあったが。
 二つ折りの携帯電話を開ける。カチリ、と音がして画面が明るく灯った。待ち受けにある二人の笑顔。一つは莉哉、もう一つは…。
 俺が消えて、大騒ぎになってるんだろうか。
 ふと一人の時間ができて、心許無い気持ちになっていた。

 日焼けの治療後、莉哉の部屋にと通されたのは客間だった。うるさいくらいに装飾が施され、豪華な調度品がずらずらと並べられていた。とてもじゃないが落ち着かないと言って即決辞退。
 今いるのは離宮の外れ、住み込みの女官や使用人などが居住する部屋の一つをあてがわれることとなった。
 客間に比べれば格段に落ち着けるものの、やはり熟睡というわけにはいかなかった。
 なにが起こってるんだ。俺はどうなる。
 こちらの世界“ラスタール”へ迷い込んだ時同様、目が覚めたら元通りというわけにはいかないだろう。
 部屋前の回廊で柵に両腕を組んで乗せ、寄り掛かっていた。無意識に溜息を吐く。
 見上げる空は同じでも、自身の置かれた状況は明らかに異常だった。
 …結局、肝心なこと聞けなかったな。
 ミウカもコウキも、莉哉を…否、『誰かがこの世界に召喚されること』を知っていた。それの意味や還る方法も知っている可能性は充分に考えられる。
 剣を当たり前に携帯している世界など、一刻も早くおさらばしたいところだった。
 明日、絶対聞こう。
 胸の内を引き締めた時、廊下に足音が響いた。月明かりのみの明るさでは少し離れた場所でさえも見えない。身構え、暗がりを見据えた。
 やがて輪郭を明確にした見知った姿に安堵し、警戒を弱める。赤銅の双眸には僅かに憂いの色があった。
「眠れないのか」
「…なんとなく、な」
 隣に並んで立つと、ふわりと花の香りがした。優しい香りは気持ちを落ち着かせる。
 華奢な躯に背負われた身の丈ほどの剣が目に入った。寄り添うように躯の一部となっている。ラスタールではこれが通常のスタイルなのだ。コウキは長剣を腰元に下げていた。彼の場合その姿こそしっくりきているように莉哉には思えるのに、ミウカには違和感を払拭し難い。
 当然のごとく剣帯して、次期皇帝に敬語を使わない少女。
 ミウカも皇族なのか?
 だが格好を見る限りその可能性は皆無だった。
 迷路みたいな城内を歩いて治療された部屋に着くまでに、ドレスを着て優雅に歩く者、中庭でお茶を飲んでいる者を数名見掛けた。一様に着飾り、艶麗な仕草と言葉遣いで華やかな空気を醸し出していた。その誰もが剣など持っていなかったし、女性でミウカのような格好をしている者はいなかった。
 他のタイプがあるとすれば、侍女の服を着て忙しなく立ち働いている姿くらいで。城内において女性はそのどちらかのスタイルが至当だった。
 剣から視線を外すと赤銅色とかち合った。莉哉の肩よりも低い身長。今は莉哉が前屈みになっているので、目線はほぼ同じだった。
 艶やかに、鮮やかに、瞳と同じ髪の色。
 莉哉の世界から考えれば異色であるのに、彼女にはとても似合っていて、その色以外の少女が有り得ないことに思える。
 あれは…既視感だったのか?
 森に踏み入って視界が渦巻いた時に一瞬見えた姿。赤銅の影。確かにミウカだった。
「これを置きにきた」
 ミウカは手にしていた小瓶を取り出して月の光にかざした。透明なガラスの中で光に反応する不思議な色合いを放つ液体が満たされていた。光の加減で乳白色が七色に輝く。
「綺麗な色だな。セトって子が持ってた花に似てる」
「…同じものだ。これは蒸留したもの。セトがくれた花――ルーリの花には精神を落ち着かせる効果がある」
「部屋に置いてあったな。ミウカが?」
 天を仰ぎ見たまま、そう、と頷く。月に照らされた横顔は、どこまでも美しい。
「蒸留したものの方が即効性がある。もし眠れないようだったら、と思って」

 ミウカは笑顔を浮かべながら、胸中で他のことを考えていた。
 ルーリの花は、そう容易く手に入るものではない。だからこそセトの入手方法が気掛かりだった。常人では辿り着けぬ崖の隙間に咲いているのを摘みに行っているのだ。ミウカほどの身体能力があってこそ摘める花だった。

「これを水に溶かしてあたためると香りが部屋中を満たす。不眠者でもたちまち眠れるそうだ。試してみるか?」
「そうだな。…頼むよ」
 ぶっきらぼうに少年のように話す少女。そのギャップにしばらくは慣れないと思うも、最初に出逢ったのが彼女で良かったのかもしれないと思った。


[短編掲載中]