目覚めは、唐突だった。
 昨夜、ミウカが言っていた通り、花の効果は抜群だった。寝付くまでミウカが部屋にいたのだが、その時間は幾許もなかった。
 もともと寝付きのいい方ではないし、また、低血圧のため寝起きもよくない。引き摺られるように眠りに落ちたのには愉色が浮かぶところだが、覚醒から醒めるキッカケになった雑音は気分を害した。音は依然続いていて、莉哉は顔をしかめる。
 走り廻っている足音は忙しなく、無数に聞こえる。怒号のように飛びかう声。低い呻き声。金属製の何かが落ちる音。ガラスの砕け散る音。――目覚めはそんな音から始まった。
 莉哉は愚鈍な頭をゴソリと動かし、部屋の扉の方を見た。見慣れた自室でも、合宿先でもなく、眠りに落ちる前に見た同じ光景に落胆する。同時に、扉の向こう側から聞こえてくる物音に眉をひそめた。また一つ、足音が廊下を駆け抜けて行った。
 窓から差し込む光は微かに柔らかさを含む程度で、てっぺんまで太陽は昇っていない。午前中の早い時間だった。
 鉛のように重たい躯を何とか起こし、寝台から足を床に降ろした。ヒンヤリとした冷たさが足裏にあたる。それで若干目が覚めてきたものの、まだまだ鈍い動作でテーブルに置いてあった水差しに手をかけた。騒々しい雰囲気に扉を開く気にはとてもなれなかった。
 俺には関係のないことだ。
 自身に言い聞かせて、気にしないよう努めた。
 だが、それまでとは違った硬質な複数の足音が近づいてきて、莉哉の部屋の前を通り過ぎざまに聞こえた問答に思わず反応した。
「ミウカ殿は!?」
「コウキ様と共に前線にいる!」
「動ける者は総て出陣しているのか!?」
「はっ。ですが数が多すぎて…」
 慌ただしく早足で靴音は遠ざかる。莉哉が反射的に廊下へと顔を出した時には、もう姿はなかった。
「なん、だよ…これ…」
 代わりに飛び込んできた光景に口元を覆っていた。
 ――むせるような血の匂い。倒れている人数は見える範囲だけでも何十人といた。
 吐き気が込み上げてきて、後退った。入口の縁に背中がぶつかる。愕然と目の前の惨状を凝視した。
 唐突に名前を呼ばれ、心臓が跳ね上がる。
 聞いたことのある声。そろそろと振り返る。ぺこりとお辞儀をして顔を上げた声の主は、不安な表情も隠しもせず、莉哉を見上げた。
 女官のシェファーナだった。コウキ付きの女官である彼女は、昨晩治療後の莉哉に着替えを用意し、部屋まで案内してくれた。
 昨夜は莉哉の着衣を抱えていたように、彼女の腕は今、大量の布や包帯を抱えている。
「これは一体…」
「今朝早く、魔物が城下街に現われたのです!これまで街壁を越えてきたことなどなかったのですが」
「ま、魔物!?」
「すみません!怪我をした人達を看なくてはなりませんので」
 大きくお辞儀をして早々に立ち去ろうとするシェファーナを呼び止める。振り返った顔は、泣き出しそうなくらい困惑していた。
「ミウカは!?」
「コウキ様と共に、討伐に出られています。お二人がいらっしゃってもこの有様です。戻された騎士の話によれば魔物の数は多く、苦戦を強いられているとか…」
 シェファーナは「すみません。失礼します!」と急いで頭を下げ、走り去って行った。




「コウキ!!」
 地を蹴って飛躍したコウキは、群の中へと斬りかかっていった。その背中を見送りながら真紅の双眸を携えた少女は正面から侵略してくる魔物の群を迎撃していた。
 何故だ!?均衡が破られたことなど無かったのに…!!
 全身をウロコで覆われ、鳥のような姿の魔物――フガード。発達した大きなクチバシで素早い攻撃を仕掛けてくる。翼が小さいため飛ぶことが出来ず、その代わりに頑強な足を持っていた。
 山奥に生息しているので、その姿を見たことがある者は数少ない。まして、こんな城下街へくるなど有り得ないことだった。
 魔物が当たり前に存在するこの世界において、共存が実現しているのは均衡が保たれているからだった。互いに領域を侵さないことが暗黙の了解であり、危害が及ばなければ存在を認め合っていたのである。
 怒りを露にしたフガードは城下街へ乗り込むなり、殺戮を繰り広げた。最初の犠牲者は莉哉に一瞥をくれたあの門兵だった。夜も明けきらぬ空気を悲鳴が切り裂いた。
 猛り狂うフガードが絶え間なく向かってくる。侵撃はすでに街の中心部まで進んでいた。
 一騎当千のコウキとミウカの駆け付けにより犠牲者は激減したのだが、立ち向かう城の騎士や街内の治安を護る自警隊の多数が傷を負い闘えなくなっていった。
 前線より後退することなく侵攻を防いではいるが、実質二人だけで無数の魔物が相手では拮抗状態を保つのがやっとだった。
 群の内側からコウキが、外側ではミウカが、フガードを斬り捨てていく。二人の剣撃はまるで舞っているかのように、隙のない動きだった。
 流れる銀色の影と赤銅色の影。動きは対のようだった。
 目の前に迫ったフガードの攻撃を寸前でかわし、剣を水平に一閃した。首が跳ね飛んだ。すかさず後からきていた別のクチバシに剣を突き立て、天に向かって振り上げる。剣を抜き、別のフガードへ振り下ろし躯を二つに斬り捨てた。次から次へと迫りくる魔物を動かぬ塊にしていく。
 きりが無い!!
 奥歯をぎり、と噛み締める。
 街の人々はとっくに避難している筈だった。だからこそ縦横無尽に剣を振るうことが可能だった。護るべき存在がいるというのは、それだけ動きを制限されてしまう。
 が、視界の端に小さな影を見つけた。我が目を疑ったのも束の間、それがセトだと判明するのに時間は必要なかった。
 セトは崩れた壁の瓦礫の陰に隠れてうずくまっている。ミウカの姿を見つけると泣き濡れた顔をくしゃくしゃにして縋るような目を向けた。
 フガードを斬り倒し、あそこまで行けるか!?
 今は見つからずに済んでいるが、それも時間の問題だろう。見つかればたちまち食い千切られる。
 絶対させるか!!
 間断なく湧き出るフガードの群を薙ぎ払い、一瞬開けた道筋を逃さなかった。
「セト!!」
 腕を伸ばし、立ち上がった少年を引っ張り抱き締める。
 右横からきた、大きく口を開けたフガードの口内目掛けて剣を衝いた。甲高い悲鳴。地面に突っ伏し、もがき、絶命した。だが、そこに隙が生じ、背後からの気配に反応したが、剣が間に合わない。咄嗟にセトを庇い覆い被さった。
「ミュウねぇ…っ!!」
 力いっぱい抱き締められたセトの声が止まる。――覚悟した衝撃は、落ちてこなかった。
「間一髪だったねぇ、ミュウ!」
 陽気な声が降ってくる。こんな状況でこんな声色を出す人物を、ミウカは一人しか知らない。よく知った声に安堵すると共に、すぐさま立ち上がりセトを背後に庇う。
 不安げに服の裾を握るセトに振り返り笑みを見せた。
「目をつぶって、耳を塞ぐんだ。恐くない。すぐ終わるから。…な?」
 ミウカは上衣を脱いでセトを包む。
「ミュ…姉、っ…」
 涙を流し、セトはカタカタと震える。目の前で繰り広げられるおぞましい光景に怯えきっていた。赤銅色の瞳はあたたかさを携えて、ゆるりと微笑んだ。
「動くんじゃないぞ」
 頭からすっぽりとミウカの匂いに包まれ、セトはこくんと頷いた。
「ミュウー。そろそろ手を貸してくんないー?」
 二人を庇って剣を振るっていた背中は、わざとらしく情けない声を出す。一人でフガードを払い除けてた少年――コウキとは別の、もう一つの銀の影――は目配せした。
 何度も戦を共にすれば、相手の考えてることは言葉にしなくても判るようになる。銀色の髪を真後ろで結んだ少年。碧の目がミウカを振り返った。
「間を作ればいいか!?」
「ああ!」
 銀髪の少年は余裕の笑みで応える。ミウカは少年の横をすり抜け前に躍り出ると同時に、刹那の間で意識を紡いだ。


[短編掲載中]