星の瞬きを、月の輝きを、太陽の暖かさを、大地の息遣いを。――生きとし生けるもの総ての、生命の囁きを。
 少しずつ、細く、無限に、一つ一つを細い糸にして、確かな強さに紡いでゆく。

 真紅の瞳が開かれた時、フガードの群れは後ろへ弾き飛んだ。――透明な壁が、三人を囲んでいた。
「相変わらず強力だねー、この【保護壁】は」
 突然見えない壁に阻まれたフガードは勢いを止めない。尖ったクチバシを突き立てようと盲撃ちを続けている。それを馬鹿にするように銀色の少年は愉快そうに笑って、壁を指で弾いた。
 壁の外側では未だコウキが群れの内部で闘っている。
「呑気なこと言ってないでさっさとやれ!」
「兄様なら大丈夫だと思うんだけどねー」
 やれやれと肩を竦めると、表情を一変させた。雄気を全面に剣を前に構える。
 フガードを相手にしながら壁の内側を伺っていたコウキは、剣を構えた少年の後ろに下がっていくミウカと無言の言葉をかわす。
「これだけ間を作れば充分かっ?」
 セトを抱き上げ、前を見据えている背中に問う。
「いーよー」
 銀の少年からは拍子抜けするくらい軽い返事が返ってきた。毎度のことだ、内心呆れ溜息を吐く。
「消去する!」

 ――意識に紡いだ糸を解放する。

 鋭いミウカの声で壁が掻き消え、同時に刄のごとく鋭い風が吹き荒れた。タイミングを合わせて屋根へと飛んだコウキは地上の魔物が切り刻まれていくさまを眺めていた。魔物の群れは一体残らず動かぬ塊となり散乱した。
 剣を通じて風を操っていた銀色の少年は満足気に剣を鞘に収める。
「兄様!僕、腕上げたと思いませんかっ?」
 コウキは悠々とした足取りで近づいてきながら剣をピッと振って、刄についたフガードの体液を払った。その表情は嬉々として近寄ってくる弟とは正反対だった。
「ふざけが過ぎる。お前は緊張感を持つべきだ」
「兄様も、ミュウも、真面目過ぎるんですよ。群れには一掃する術を使うのが一番でしょう?護ろうとする対象を多くするのは構いませんが、毎度今回のように苦戦するおつもりですか?」
 銀色の少年が言うことは尤もだとミウカは思う。が、実際の闘いにおいて選択するのはコウキと同じ戦略だった。
 大きな犠牲を防ぐために、小さな犠牲には目をつぶる。――そう割り切れたなら、これまでだってもっと楽に終息できた闘いは数え切れないほどだった。
「まぁ、今回の状況…街中で兄様の術を使っては、この国が消し飛んでしまうかもしれませんね」
「ならばタキ。お前が早々に来ていればここまで損壊することはなかっただろう。なにをしていた」
「……寝てました。低血圧なもので」
 呆れて言葉もないコウキに対して悪びれた様子もなく銀髪の少年――タキは肩を竦めた。日常的な兄弟の遣り取りを脇において、ミウカは周りを見渡した。
 建物の損傷はあるが人為的な被害――騎士や街の自警隊を除いて――はほとんどないように見えた。
 風の精霊を味方にした術を操るタキがこなかったなら、今だもって事態は収束していなかっただろう。
 剣だけで、しかも二人だけで無数の魔物を相手に、街も国民も護りながらでは苦戦を強いられても仕方がなかった。かといって、大地の精霊を味方にしたコウキの術は込み入った街中では周辺のものを巻き添えにしていた。
 そもそも、フガードが襲ってくること自体が奇異なことなのだ。
「セトは大丈夫なのか?」
 ミウカの首に腕をまわししがみついている小さな頭に手を置いて、コウキは優しく撫でた。上衣を顔が出るよう取り除くと怯えた顔がミウカを見つめた。
 抱き上げられたまま首を巡らせて見回して、赤銅色の瞳と再びかち合った時になってやっと、セトの瞳の揺らぎが止まった。
「平気か?怪我は?」
「うん。平気」
 セトは小さく頷いてから脇に立つコウキを見上げた。
「ありがとうごさいました、コウキ様」
「礼ならミウカに…」
 コウキの言葉尻を裂くように、セトの名を呼ぶ声がした。
「お母さん!」
 セトを地面へと降ろすと、声のした方へ走り出した。母親にしかと抱きとめられ、セトはまた泣き出してしまった。
 幼い少年を抱き上げ近づいてくる。数メートル距離を置いて止まると母親は頭を深々と下げた。
「本当にっ…ありがとうございました。感謝致します」
 母親はコウキより近くにいるミウカには目もくれず、真っ直ぐにコウキを見つめた。
「…いや」
 その視線の意味するところを感じ取っていたコウキは言葉を詰まらせる。
「あからさまだねー」
 ミウカの数歩後ろに立って、母子が去っていくまで静観していたタキは辟易して溜息を吐いた。三人とも、見えなくなった後もしばらく動かずにいた。先頭にいたミウカが微動だにしないことで、後ろに立つ二人も動くことを躊躇われていたからだ。
「ミウカ…」低い声が呼び掛ける。
 ミウカはついと顔を上げて気づかれぬよう小さく深呼吸した。
「マトゥーサの、母様が…亡くなられたそうだ」
 長身の肩にかかる銀髪が僅かにピクリと反応した。少女は空気が変化したのを背中で感じながら、感情を押し込めて淡々と続けた。
「それでなくても昨日の今日で、こんな惨禍の真っ只中に自分の息子がいたのだ。感情が昂ぶるのは至極当然だ」
 二人は無言だった。彼女の独白を、黙って聞くしかなかった。
 胸の奥の了見を、違うのだと、それは間違った解釈だと、伝えても彼女に響かないことを知っていたから。
 運命が彼女を絡めとっている限り、否もはや、それを断ち切ること自体、難しかった。そうしてこなければ、また、これからもそうしていかなければ、彼女は自身を保ってゆけない。
「だから…仕方がない」
 自身に言い聞かせるように、宣言するように、少女は発した言葉を胸の内で反芻した。
 ――偽りでも、何でも、それを真実として刻まなければ、生きてなどこれなかった。
「さ、戻ろう。動ける者には修復を指示しないとな」
 振り返った顔も声のトーンも常と変わらない。――その仮面を剥がさない限り周囲の誤解を払拭できないというのに。宿命はそれさえも拒み、少女は奔流されるがままになっていた。

 嘘で塗り固められた裏側に、計り知れないほどの暗い澱が蓄まっていくのを、銀髪の兄弟だけが感じ取っていた。


[短編掲載中]