二度目の夜が訪れていた。瞬く星と輝く月に見下ろされ、莉哉は城内を歩いていた。一度はベッドにもぐりこんだのだが、一向に眠気は訪れそうになかったからだ。
 日中、怪我をした騎士の治療にあたる手伝いで走り回り躯はヘトヘト、精神的にも疲れているのに頭は冴えきっていた。
 花の香りがないのを淋しく思うくらいで。
 そういえば…ミウカから香るのは、あの花と同じ匂いだったな。
 幾度となく少女の動きに合わせて香った。あれはルーリの花の香りだった。
 部屋の中にいても仕方ないので、探索がてら城内を散歩していた。日中の喧騒から隔離された静寂が、足音だけを響かせている。
 方向感覚には自信があるので迷うことはまずないのだが、それでもうっかり脇に逸れてしまったら迷路ような城内に迷い込んでしまいそうだった。あてもなくプラプラ歩いていて、今だ実感の湧かない現実に溜息を吐く。
 中庭に面した回廊には壁がなく、長いベランダが続いているような造りになっている。四季の寒暖差がないカルダナール大陸南部の気候に合わせた建築様式だった。なので廊下に出るだけで外気も風も直接肌で感じられる。
 怪我をして、そこここに寝かされていた騎士達も完璧な手当てを受け、どこかしらの部屋に収まっていた。
 騒然とした空間の余韻は、そこにあるルーリの残り香だけだった。微かに鼻腔をくすぐる。
 錯乱状態になっていた者も、痛みに動けぬ者も、あの香りが拡充すると途端に落ち着きをみせた。
 無駄なく指示を飛ばし自らも動いていたミウカは、やはり只者じゃないと思った。莉哉にとっての『非日常』のことが、この世界では『日常』であり、慣れていて当然ということなのだろう。
「…あれ?」
 中庭の中央にあたる箇所に枝葉を大きく広げた大木がある。その下に華奢な人影があった。
 忍び足で近づくと、無防備な体勢で幹にもたれ掛かって眠るミウカがいた。右手は脇に置かれた剣の上に添えられている。
 あどけない寝顔。いっそ幼いと言ってもいいくらいに。
 寄り添うように置かれた剣は、いつでもそこにあるのが当たり前で、それは自然の摂理に逆らわないカタチだった。
 彼女の傍らに常にいるのが剣だなんてな、と胸の内で苦笑した。
 手を延ばせば届く距離まで近づいても、赤銅色の瞳は開かれない。静かに腰を下ろして天を仰いだ。天の川がとうとうと流れている。心地いい風が夜気を運び、どこからか、花の香りがした。
 この香り、落ち着くな。
 さらりと長い髪が揺れた。月明かりに仄明るく照らされた顔。俯き気味の頬に、長い睫毛の陰が落ちている。太陽の元で見た時とは違う美麗さに魅入られていた。
 考えるよりも先にボソリと呟く。
「可愛いよな、やっぱり…」
「悪趣味だな」
「…!?」
「人の寝顔見るのが趣味なのか?」
「そそそんなんじゃっ…!お、起きてたのか!?」
 急激に後ろめたい気持ちになる。とっさに顔を逸らして、騒ぐ心音が聞こえないことを祈った。
「空を見てたら、ウトウトしていたらしい」
 目覚め直後とは思えないほどハッキリとした物言いだった。まるでスイッチを入れた途端に点くライトのような切り替えの早さ。
「風邪ひくぞ…って、昼間は大変だったもんな」
「自分は慣れているから問題ない。リイヤこそ疲れただろう。助かったよ」
「いや…。たいしたことしてないし」
「ここはルーリの香りが微かに残っている。少しは落ち着けるかもな」
「……」
「悪かったな。全部使ってしまって。…眠れないんだろう」
「やっ…そうじゃないっ…。えっと、これはだな。っつ、そう!城の中を見てみたかったんだ!俺っ、夜型でっ…」
 捲し立てるように一気に吐き出した。
 図星を突かれ、心配してもらってばかりの状況に恥じ入っていた。その上、夜の彼女は妖艶なくらいに美しくて。直視されると心臓が踊り狂う。
 下手な誤魔化し方だった、と内心反省。誰に言い訳するわけでもなく、あさっての方向に顔を背けていた。
 これは、おかしなことが起きている所為だ。普段の莉哉であれば――元の世界にいる彼だったら、    もっとスムーズに受け応えできた。何もかも『非日常』の所為。
 かつてのような思いをしない為に、偽りの自分を演じる術を、彼は身につけてきたのだ。自分を護る為の最善と信じて。落ち着けば取り戻せる。――取り戻さなければ。こんなのは俺じゃない。
 歯噛みする思いは、あんな思いは、二度とごめんだ。
「そうだ。一輪だけあるぞ」
 そう言ってミウカの左手にルーリの花があった。
「それって…」
「セトがくれたものだ」
 莉哉は差し出された花をやんわりと押し返した。少女は疑問符を浮かべる。
「効果はそう強くでないかもしれないが、少しくらいは…」
「そうじゃなくて」
 勘が鋭いのかそうじゃないのか、判らない。ウィルの背から降りようとしただけで押し止めたのが、単なるまぐれだったとは思えないのに。
 不思議な奴だ、と可笑しくなる。知らずの内に口元に笑みが浮かんでいた。しきりとミウカは首を傾げている。
「ルーリの花の寿命は短い。だから蒸留して保存する。だが、自分はやはり、咲き誇り凛と花弁を広げた姿が一番好きだ」
 目蓋を閉じて、優しく香りを嗅ぐ姿はどこまでも美しく、儚い。
「こんなにも綺麗だから、精一杯咲くから短いのかな」
「そうかもな」
 ミウカはまるで、ルーリの花だと思った。理由などない。それがあるほど莉哉は彼女を知らない。
 何も、知らない。
「精一杯生きて、誰かの役に立てたら嬉しいだろ」
 莉哉の手をとり、そっと乗せた。ふわりと柔らかく香る。

 昼間、怪我人の対応に追われている中、シェファーナが教えてくれた。血の匂いが蔓延する中で、彼女の別の顔を見た。着衣を用意し部屋まで案内してくれた時とは全く別の顔が、手当てに追われ立ち働いている中にはあった。
 この世界で――闘いが日常にあるここでは誰もが持っている、強く、厳しい、凛とした別の顔。それがなければ生きてはいけない世界。
 そんな中、莉哉の気を紛らわせる為、シェファーナは言っていた。
 ――ルーリの花はとても貴重なんです、と。
「へ?そうなの?」
 思わず動かしていた手が止まった。呻く騎士の声で意識を戻され慌てて手当てを再開する。
「こんな惜し気もなく使ってるからそうは思えなかったけど」
 確かにミウカが全部使うと言った時のタキは戸惑っていたけれど。
 希少価値が高いから?…まさかな。んなセコイこと皇族が言うわけないだろうし。
「摘みに行けるのは、このナラダ国ではミウカ様しかいないと言われています。隣国フィーゴスでは比較的容易に採取可能のようなのですが…。こちらの地方では群生場所を特定するのは難しく、決まってとても危険な場所にしか咲かないとされている花なのです」
 動かす手は止めずにシェファーナは続けた。
「でも、ミウカ様のおかげで混乱がひどくならずに済んでいます」
 そうして彼女は満足そうに笑った。ミウカが好かれているのだと伝わる笑顔だった。


[短編掲載中]