「ミウカを迎えにきたんだ。とりあえず今日のところはそれで引き下がるから。大人しくしてくれなきゃ、力づくになっちゃうけど」
「連れていくのは、私を倒してからにしろ」
 いつの間にか進み出ていたコウキがミウカを背後へと庇う。鳴り止まない雷鳴が美しい姿を照らしていた。
「…面白い。では遠慮なく!」
 スラがミウカを後ろへと引いたのと、二人の剣士がぶつかり合ったのは同時だった。激しい剣撃が繰り広げられる。体術も織り交ぜた闘い。
 ミウカとスラの前に立ちはだかったタキも抜剣し、動向を見守った。
 衝撃が大きかったのは、そこにいた誰もが同じだった。だがそれよりも優先すべきことがある。ハルがミウカを欲している。それの意味するところを深く追求するよりも、まずは対象を護り抜かなければいけない。コウキの判断は、正しい。
 目を奪われている間にも、ナラダの騎士は続々と集結していた。包囲の壁は厚みを増していく。その中心で繰り広げられる闘いに微妙な差が生じ始めていた。
 実力はコウキの方が優っている。ただ彼は、本気ではなかった。できれば傷つけずにこの場を収拾させたかったのだ。
 そもそも本気になれるわけはなく。その甘さがハルを優位に立たせた。
 コウキの剣が弾かれ、その手を離れた。不敵な笑みを口端に浮かべたハルは上段から剣を振りかざす。脅しでも、手加減する気もハルにはなかった。
 コウキは邪魔な存在であったから。ナラダの者は阻止し続けるだろう。ミウカを手渡そうとはしないだろう。
 ハルにとって、必要な存在は彼女だけ。多くを望む気はなかった。それを邪魔しようとする者は、相手が誰であれ、本気で立ち向かう。
 速度をつけて降ろされた刃は、別の剣に阻まれた。コウキの前へと廻り込んだ赤銅色。その瞳は鮮やかに色を変えた。
「ミ、ウカッ!!」
 ぎり、と奥歯を噛み締めハルは剣を掴む手に力を込めた。
「させない。あたしは、行かない。…どこにも行かない!」
 痛く、悲しみに満ちた叫び。
 ハルの剣を払い除けすぐに応戦態勢をとる。ハルの瞳が揺れたのは一瞬だけで。
「そうか。なら、他には退場願おうか」
 手首にはめられたバングルを、ひどくゆっくりとした動作で取り外す。
 三年前、能力の覚醒後、高熱より再起した時には、ミウカの腕にはめられていたのと同じもの。
「ハル、それ…」
「どう聞かされているのかは知らないが、これは俺達を束縛するものだ。能力を制限させるものだ」
「駄目よ!外しては駄目!!」
 最後の片方が外されるその瞬間、鋭い声が空気を裂いた。だが、バングルは無常な音を立てて床に転がる。
 皆の視線が一斉に声の主の方に向く。戸口に立つ、双子の母親の顔が畏怖に支配されていた。
 ハルの呻きが聞こえて見た時にはもう、彼は全身から黒い瘴霧を吐き出していた。
「ハ…ル?」
 総ての感覚で感じる…恐怖。足が竦むということを、ミウカはこの時初めて味わった。
「いっ…つ!?」
 突き抜ける痛み。目の前のモノに感応して疼く。背中に感じる違和感。
 両腕で自身を抱き締め上半身を折った。皮膚に爪が食い込む。耐え難い激痛。呼吸が巧く出来なかった。
 この痛みを知っている。この疼きを知っている。
 ――覚醒したあの日、襲ったもの。
「バングルを…!」
 母親の大きな声を、叫び声を聞いたのも初めてだった。混乱する頭の中で、このバングルが重要なのだということだけを理解していた。
 咄嗟に反応した躯が拾い上げようとして、第一撃が放たれた。
 蛇が這うごとく、無数の瘴霧が細く長く、周囲のものを手当たり次第に襲っていく。【遠当て】の能力を持つハルが、ゲリューオンの特徴と組み合わさり繰り出される攻撃。
 避けきれなかった騎士が燻ぶって倒れた。次々と屍の山が築かれていく。
 紡ぎ出された保護壁の内側にいる者達は、地獄絵図を傍観するしかなかった。
「やめてっ!!」
 複数を対象にした保護壁では動きが制限されてしまう。叫ぶしかないことがもどかしい。
 ハルの攻撃が威力を増すほどに、ミウカの背中の痛みは耐えがたいものになっていく。意識を繋ぎ続けるのが難しくなっていた。
 どちらにしろ、このままにしておくわけにはいかない。
「コウキ、タキ!皆を頼んだ!…壁を一度消去する!」
 叫ぶやいなや、誰の返答も待たずに壁は掻き消えた。
 ハルの攻撃は、暴走し始めていた。
 ゲリューオンの能力を――例え半分しか備わっていないのだとしても――その年齢で統御できる筈がなく、それ以前に、魔獣を抑圧できる者など存在しない。
 このままでは確実に、ハルは呑み込まれる。そして、魔獣の思惑通り、破壊の限りを尽くすのだろう。生を持つ者が、総て動けなくなるまで。
 もう半分を、取り込むまで。
 訓練を受けた騎士でさえなす術もないまま絶命していく中、自力で自身を護れない者がいる。すぐさま保護壁を紡ぎ直す必要があった。消去の後、次を作り出すまでに間ができる。
 それは一瞬。けれど確実な隙間。
 【保護壁】の精製には必然的に刹那の隙が出来てしまうのだ。際限まで神経を集中しなければ、しかも連続して紡ぎ出すとなれば尚更で。
 暴れ狂う瘴霧が無作為に襲い掛かる。最早ハルに制御は不可能だった。
 ミウカに向けて発生した瘴霧。紡ぎ始めていた意識が一気に途切れ、だが避ける時間はなかった。見開かれた真紅の瞳に漆黒の陰が伸びてくる。
「――――!?」
 起因の少年でさえ、信じ難い光景に瞠目した。
 ミウカの目前に立ちはだかる長い髪の影。真紅の瞳が戦慄いた。ぐらりと傾いた肢体を受け止めるも、精神的な衝撃が躯中の力を奪い去り、抱えたまま一緒に倒れ込んだ。座る形となったミウカの膝の上に重みが圧し掛かる。駆け付けたコウキの手が震えていた。
「スラ!」「スラ姉!」
 力無く横たわるスラの、僅かに開いた唇から、掠れた声が零れた。ゆっくりと開かれた目蓋の奥にある瞳は、どこか遠くを見ている。
「スラ!私だ、判るか!?」
 頬に手をあて、コウキは呼び続ける。愛しい者の名を。
「コ、ウキ…さ…ま…」
「ここにいる!」
 焦点の合わない瞳がコウキの方に向けられる。もう何も映さない瞳。
「ミウカ…を…」
「ああ!判っている」
 コウキに手を握られたことで安心したのか、ゆるやかに微笑んだ。視線をミウカに移すと振り絞り声を発する。
「め…、よ…」
「しゃべらないで!あたしっ、典医をっ…」
 スラをコウキに預け、走り出そうとした腕をか弱い力が制した。今にも消えてしまいそうな力。そして、何よりも強力な足止め。
 動けなくなり再びしゃがみ込んで、ミウカはその手を両手で包み込んだ。スラの言葉に耳を傾ける。
 かつて美しく可憐なスラの躯は、みるみる瘴霧に犯され、黒く焼け爛れていく。だが彼女に浮かぶ表情はどんな時よりも穏やかに見えた。母によく似た、優しい微笑み。
「だ、め…よ…。あら…そわな、いで…。自分を…せ、めない…で」
 ミウカの手の中で、力が堕ちた。――ことり、と終焉の音が聞こえた。
「スラ、姉…?」
 嘘だ、嘘だ!嘘だっ!!
 血が逆流する。躯の奥底から沸き起こる。視界に捕らえるのはただ一点の影のみ。それがハルであるとか己の半身であるとか、総てが一瞬で弾け飛んだ。理性など、拡散する。
 声にならない何かを叫んでいた。走りながら、睨みつけながら、一直線に駆ける。
 ハルは向かってくるミウカに対峙した。赤銅の瞳に虚ろな色があった。防御体勢をとろうともせず、真紅の瞳を見つめる。
 恐怖。少女の瞳の中にはただ、それだけがあった。
 刃を伝い、鍔を伝い、柄を伝い、感触が手の中に降りてくる。生命あるものを貫いた手ごたえ。
 ――剣を持った時より、覚悟の上だった。
 幾度だって味わってきた感触。決して心地のいいものではなく、むしろおぞましさをその手に残す。
 護るべき存在の為に闘えば犠牲が伴う。やらなければやられてしまう。傷付けることを畏れている余裕などない。
 だがそれは、今までは、相手が人であることはなかった。異形のモノーー魔物だけが相手だった。
 今、確かな感触で貫いたのは人であり、魔物ではなかった。そして…深紅の血を流しているのは、ハルではなかった。

『どうか、争わないで。自分を、責めないで』
 スラの言葉が頭の中に響いていた。


[短編掲載中]