三年という年月は、人を変えるのに充分な期間だった。それがまだこの世に生を受けて二桁と年数が経っていない者ならば尚更で。
 ハルがいなくなって三年。心から血を流し続けながら少女は十歳になっていた。

 朝から暗雲が垂れ込めていた。目覚めた時にはあまりの暗さに、まだ夜が明けていないのかと思ったほどだ。
 静かに降り続けた雨は昼が過ぎる頃には激しさを増し、窓に叩きつけるまでとなっていた。
 ガチと組み合わさった鍔。互いに動きを止め、視線がぶつかった。碧眼はふと口元を緩め、腕から力を抜いた。対する赤銅の瞳も臨戦態勢を緩め、剣をひいた。
「だいぶよくなった」
「そう?…なんて、素直に喜ぶと思ってんの!?手加減しすぎ!」
 頭二つ分高い位置の碧眼を睨み付ける。はちきれんばかりに頬を膨らましたミウカを見て、見学していたスラは吹き出した。
 プンティの件以来、子供達は一緒にいることが多くなっていた。剣を交えて鍛錬することも増え、実力はそこいらの大人では太刀打ちできないほどだった。
「私に並ぼうというのがそもそもの間違いだろう。年齢も違えば性別も違うのだから」
 理屈では納得していても素直に引き下がるのは無性に悔しい。
「程度の話をしているの!手抜きし過ぎだっ!!」
「充分だと思うが?次、タキ」
 端的に言い放ち強制終了。欠伸混じりに眺めていたタキは、のんびりと立ち上がる。
「あたしがやる!タキやろう!」
 コウキをぐいと押し遣って、スラの隣へと運ぶ。まだまだ不完全燃焼だった。
「僕はどっちでもいいよー」
 腕を頭の後ろで組んで中央まで進んだタキは、相手が戻ってくるのを待った。
 コウキを強制的にスラの近い位置で座らせる。二人は微妙にはにかんで、でも素直に従った。 想いの通じ合った二人を見守るのは、見ているだけで嬉しい。
「さて、やりますか」
「いくよっ」
 軽やかに踏み込んで、剣撃を繰り出した。やるからには真剣勝負で、スラの目にはその動きが追えなかった。感嘆に息を洩らすばかり。
 自慢の妹。大切な家族。三年前半身を失った悲しみの分も、愛していこうと誓った。一手に背負おうとしている背中を、支えてあげたいと。
 日増しに実力をつけていく妹を頼もしく誇りに思う半面、心配でならなかった。
「コウキ様…。私は、」
 突っ走る妹はその身を滅ぼすまで止まらないだろう。スラには止める術がない。
「判っている。私は力で彼女を護ろう。貴女は心で支えてあげればいい」
「…そうですね。ありがとう、ございます」
 あまりにも優しい眼差しを向けられ、恥ずかしさが込み上げた。見つめていられず俯く。高鳴る鼓動が聞こえてしまいそうだった。
 雷鳴が轟いた。激しくぶつかり合う刃音も掻き消される。
「タキ、ミウカ。もうそろそろ…」
 時間だ、とコウキが立ち上がろうとして、地鳴りがした。足元が大きな衝撃に揺れる。
「っ、きゃあぁ!」
 咄嗟に頭を抱えしゃがみ込んだスラの上にコウキが覆い被さる。ミウカもタキも動きを止め、辺りを見渡す。パラパラと天井から破片が落ちてきた。
「なんだ!?」
「見てくる!」
 言い終わるよりも早くミウカが出口に向かって駆け出した。すぐさまタキも続くが、二人の足は再度の揺れに止まらざるを得なかった。
「二人とも動くな!」
 コウキの鋭い声が響いた。城内で何かが起こっている。遠くで悲鳴が聞こえた。こんな状態でじっとしていられる筈はなく。
「コウキはスラ姉を、」
 振り返っていた顔を出口へと向けた。言葉が途切れた。目を見開いて、近づいてくる影を凝視する。微笑みを湛えた顔に、視線が張り付いた。

「やだな、ミウカ。幽霊でも見たような顔しないでよ。傷つくじゃないか」

「う…そ…」
 固まって、動けなくなっているミウカを余所に、対峙する影は嗤った。
「まさか、だって…」
「驚いた?そうだよね。驚くよね」
 緊迫した空気の中に、微笑みが浮かび上がる。友好的とは程遠い微笑みが。
 口を開けないミウカの代わりに、向かい合う少年は落ち着き払った口調で続けた。
「騙されてたんだ。…コイツにさ」
 目の前の人物しか目に入っていなかったミウカの視界に、後ろに控える黒づくめの数人を確認した。その中にある、両脇を抱えられ捕らえられた見知った顔。
「ターニア!」
 見たところ怪我をしている様子はないのだが、今にも倒れてしまいそうなほどに顔面蒼白だった。細身の躯が頼りなく立たされていた。
「真実を知っているのは、ターニアと皇帝、そして俺達の父親だけなんだってさ」
 まるで謳うように言葉を綴る。いっそ機嫌がいいとさえ、言い出しそうなくらいに。
 これは誰なんだろう?
 こんな哂い方をする人を知らない。こんな空気を纏う人を知らない。
 けれど、知ってる色だ。産まれた時から片時も離れたことのなかった色だ。同じ顔。懐かしい声。
 失って尚、求め続けた――
「ハル…」
「うん?」
 呆然と呟くミウカとは真逆のハルの態度。面白い玩具を見ているような目つきだった。ナラダで育った彼が、一度とて見せたことのない表情。ハルの器に別の人格が移り住んでるみたいだった。
 そこにいた誰もがその動向を見守るしかなく、誰もが動き出せなかった。
「迎えにきたんだ」
 歩み寄って、手を差し伸べる。
 ――これはハルだ。だが、ハルじゃない。
 混乱する。
 死んだと聞かされていた兄が生きていた。それだけならば喜ぶべきところなのに、それは出来ない。彼が従えているのはクエン国のグラザン隊なのだ。
 差し伸べられた手を掴みたかった。駆け寄って抱き締めたかった。変わらぬ兄のままであったなら。
 警鐘が鳴る。本能が危険を知らせている。
 ハルはゆっくりと差し出していた手を戻し、自身の掌を見つめた。
「三年前、俺は抹消された。…筈だった。けど、生命を取り留めた」
「なら、何故。戻って…」
 自分で言ってておかしなことくらい承知していた。けれど口が無意識に動いていた。それは、切望。見透かしたようにハルは言葉を遮る。
「戻れるわけがないだろう?」
 自分を殺そうとした国に。
 言葉をどう紡げばいいのか。何かを言わなければ、黙ってしまったら、兄が目の前から消えてしまうのではないかと焦燥にかられる。
 逢いたかった人が手の届くところにいるのに、変わってしまった姿に戸惑う。昔には戻れないのだと、認めたくないのに頭の片隅で囁いている。
 完全に敵対体勢の兄に、圧倒される。
 呼吸さえ忘れてしまうほどの緊張が張りつめていた。笑顔を浮かべているのはハルのみで。
「ミウカ、行こう」
 何食わぬ顔。思わずつられそうになって気を引き締めた。
「目的は?」
「今度は怖い顔だね」
「ふざけないで。あたしの知ってるハルは…」
 先を飲み込んだ。言ってはならない言葉だ。
 ハルが死んだと聞かされて、ミウカとて辛い思いを味わった。癒されぬ傷を負わされ、未だもって治る兆候すらない。そして、ハルも…兄も想像も出来ないほどの時を過ごしたのではないだろうか。
 彼を救った手が何者であったのか、それは容易に答えが出るのだけれど。
「俺は変わった?ミウカの兄ではないとでも言いたいの?ここで産まれ、一緒に育った時間さえも、嘘だったと?…俺達は同種なんだよ、ミウカ。なによりもこの色が証」
 惑わされては駄目。聞いてはいけない。ミウカの大切な半身は、やはり三年前に死んだのだ。
 ――けれど…。
 目の奥が熱い。泣かないと決めたのは、兄の為であり、何よりも自分の為だった。強くなりたいと願ったのも、がむしゃらに力を磨いたのも。
 決心が、根底から揺らぎ始めていた。
「ハルッ…!!」
 名を呼ぶのが精一杯で、あとはもう、首を振り続けるだけだった。


[短編掲載中]