ミウカはピタリと歩みを止め、ゆっくりと振り返る。その表情からでは彼女の心を読み取れなかった。
「そうですか。お役に立てたのなら本望でしょう」
 一度だって聞いたことのないミウカの語調。それはそれで違和感を否めないのだが、原因はそこではない。ミウカとスティア、二人の間に流れる表し難い雰囲気の所為。
 スティアも向き直ると、二人の視線がぶつかった。チクリとした電気が走る。
「色々と、ね。…明日帰られてしまうのが残念で。早く婚礼を行いたいものです」
 莉哉は僅かに目を見開き、ミウカを見た。身長差が邪魔をして少女の顔が巧く見えなかったが、彼女の頭上に漂う雰囲気が暗くなったように感じる。
 この人がコウキの婚約者か。
「……時がくれば、貴女のお望みのままになりますよ」
 瞳は揺れない。声は冷静そのものだった。
 タキに揶揄された時のような感情の動きもない。
「そうね。父も乗り気ですし…。それにコウキ様はもう、貴女のお姉様のこと、忘れたとおっしゃってました」
 ここにきて初めて、ミウカの平静が波立った。僅かに肩が反応する。少女の躯の脇に置かれた手が拳を握った。
「信じられない?でも確かにあの方は言って下さったのよ。疑うならお父様にでも聞いて御覧なさい」
 柔和な微笑み。見る者を魅了する艶麗な姫。その内に隠した感情に敏感なのは、莉哉の瞳のせいなのだろうか。微妙な空気の流れが居心地悪く感じる。
「…まさか、疑うなど…」
「そうよね。…元々、身分の違う恋。所詮は叶わないものだったのよ。自分以外の者と結婚する姿なんて見なくて済むなら、その方がいいもの。ね?」
 ミウカは俯き気味になった。堅く握られた拳が小刻みに震える。噛み締めた奥歯の隙間から漏れてしまいそうな言葉を必死に飲み下す。そして選ばれた台詞は、感情を完全には隠せていない声色と共に吐き出された。
「それは…スラ姉が亡くなってよかったと、おっしゃりたいのですか」
 出来る限り感情を押し込めた声。それは怒り。それは、悲嘆。
 ミウカの脳裏に幾度も鮮明に蘇る過去。彼女を苦しめ、束縛し、責め続ける。
 纏う空気に飲み込まれそうになって、何とかスティアは持ち直す。負けじと強気な声を作った。
「そうは言ってないわ。けれど、貴方達がいなければスラ様は今も元気でいらっしゃったかもしれないわね。それとも、あの奇異な瞳が、自らの破滅を呼び寄せたのかしら」
 莉哉の頭に血が昇る。ミウカに袖口を掴まなければ、とっくに怒鳴っていただろう。掴みかかっていたかもしれない。
「…くっ」
 堪えるしかない。一番に、誰よりもそうしたいのは、ミウカなのだ。
「貴女のお姉様には負けないから。必ず私が忘れさせてみせるわ」
 僅かに口調がきつくなる。揺れるスティアの瞳を見た瞬間に、彼女の中に渦巻く不安が伝わってきた。
 何度「忘れた」と言われても、口先だけであると思い知らされる。この姫は、名義上コウキの近くにいる存在であっても、ずっとずっと不安だったのだろう。その想いが本気であればあるほど。
 それを悟られたくなくて、強がっているだけなのかもしれない。
 そして、嫉妬する。
 彼の心を理解し、家臣と臣下の関係であっても、心の上で対等であるミウカに敵対心を抱く。自分はどうしても並べない位置にいるミウカを妬む。
 羨ましいと素直に出せず、裏腹な言葉を綴るのだ。時には残酷な言葉を。
 ミウカはつと顔を上げた。凛と背筋を伸ばしスティアを直視する。その視線はいっそ痛いくらいに真っ直ぐで。
「コウキの心は一生、貴女の届かないところにあります。あの人のところに」
 可愛らしい少女の声が揺ぎ無い言葉を放ったのと同時に、快音が廊下に響いた。ミウカの頬に熱が走る。
「不敬罪ですわ!」
 スティアは声を荒げていた。目尻に涙を浮かべ、唇が震えていた。先ほどまでの落ち着きは微塵もなくなっている。心を乱す、決定的な言葉。
 衝撃によって横を向いていた顔をミウカはゆっくりと戻し、真っ直ぐに視線を向けた。平手打ちをした姫の方へと。強い視線。揺ぎ無い視線。どうあがいても勝てないのだと思い知らされる。
 認めたくなどないのに…。
 その目を逸らしてほしくて、再び手を振り上げた。スティアの手首を莉哉が掴んで制する。
 強い光を宿す瞳。共に闘い、並んでいける力を持っている。そこにある絆は誰にも壊せない。入り込む隙間はない。――それが、悔しくて、羨ましかった。
「なんの騒ぎですか」
 緊張した空気に不意に割り込んできた声。見遣ると気難しそうな顔つきの男が立っていた。ナラダの宰相――ヘルバオだ。
 それまでの遣り取りなど気にも留めていないようで渦中に入ってくると、ミウカを一瞥し、スティアに向かって深々とお辞儀した。
「…いえ。なんでもありません」
 視線をずらしながら答えるスティアに、形だけの笑みを浮かべると「そうですか」と応じる。
 莉哉の手から解放された手を胸の前に持ってきて、その震えを止める為にもう片方で押さえ込んでいた。
「こんな所でなにをしている。早くリイヤ様をお送りしないか」
 ミウカの方を見もせず、だが明らかに彼女に向かって発せられていた。棘々しい語調に莉哉はむっと眉をひそめた。当のミウカは「すみません」と小声で言い、すぐさま「失礼します」と方向転換しようとした。
「その前に、スティア姫に謝罪をしなさい」
「なっ…。ちょっと待てよ!悪いのは…」
 先ほどから続く苛々に上乗せする男の言葉に、とうとう我慢の糸が切れた。
 大体、誰なんだよ!?経緯も知らないで一方的に決め付けるのは間違いだろっ!
 男が誰であるか知らない莉哉は露骨に不機嫌を表に出す。
 一歩前に出ようとして、上げられたミウカの手に踏み止まることを余儀なくされた。勢いよく送った視線の先にいるミウカの顔は正面に立つスティアに向けられ、その瞳には常の少女の凛とした強さが戻っていた。
 深く頭を垂れる。言葉はなく、それはミウカの精一杯の抵抗で。
 身を翻し莉哉を促して歩き出したミウカを、落ち着きを取り戻したスティアの声が呼び止めた。


[短編掲載中]