人前で泣くという行為を少女は己に禁じてきた。
 弱さの証ではない――そうだとしても、耐えるということ自体がミウカの予防線だった。
 それを越えてしまったら、一挙に少女の精神は崩壊していただろうから。
 隣に座るミウカが何を思い、考えているのか、透けて見えるわけでもないのに、その横顔をじっと見つめていた。涙の跡が胸中を疼かせる。
 莉哉の座る側からでは額の傷痕は見えないのだが、彼女を見つけた時には血を拭ってもいなかった。乾いた血が額に張り付いていて、莉哉が泉で濡らした袖口で拭いている間も、どことなく空虚な目をしていた。常の彼女であれば大人しくされるままにはなっていない筈で。
 今まで凛とした姿の中に、何度となく儚く消えてしまいそうな彼女の内面を見た。見間違いではなかったのだ。
 心の壁をなくせる術を、莉哉はずっと逡巡している。
「スラ姉も、コウキも、…あたしを助けて、死んだ。護るだけの、生き永らえなければならないだけの、価値があるなんて思えない」
 ともすれば、【呪い】の一端を背負っている自分が消えてしまえば、この国に根強く残る恐怖は消えていくのかもしれないのに。
「護りたいから護る。ミウカだってそうなんだろ?」
「宿命が、そうさせているだけなのかもしれない」
 莉哉はかぶりを振った。判っていて、思い込もうとしているだけなのか。
「俺には…ミウカの意志以外のものなんて見えないよ」
「……」
「生命の重みに、優劣なんてないだろ?想う相手を救いたいと願うのは、自然の摂理だ」
 俺だって、と言い掛けて先は続けなかった。――コウキのように力があったなら、否、例えなくとも、ミウカを護りたい。そう思っている。
 ぽつりぽつりと返す彼女の声のトーンは依然低いままだった。莉哉に対して率直に「弱さ」を見せるのはこれが初めてだった。けれどしこりが残る。どことなく距離を感じてしまうのだ。
 入り込むなと撥ね付けられている気分になる。
「自ら生を、絶つことも考えた」
 悟っていた実相。だが本人の口から発せられるにはあまりにも重過ぎる。ミウカは構わず続けた。
「弱音を吐けば、自分を取り巻く運命が辛く思えてしかたなかった。…自分が死ねば、ハルは諦めるかもしれない。共に、古の時と同じように、『無』に還ればいいのかもしれないと…」
 少女の声に芯が戻ってきつつあった。偽りの姿を取り戻そうとしている。
「けれどある時、ハルの目の中に、見つけた。収まり切らない、揺ぎ無い感情を。彼は暴走するだけ。止められるのは、自分しかいない」
 いつだって、相反する思考を同居させ続けてきた。迷い続けてきた。
 正しい答えなんて、どこにもなかった。
「ミウカ……」
「…なんだ」
「周りをもっと頼れよ」
「……」
「ミウカは一人じゃない。俺も…。俺は、ずっと傍にいるよ。…ミウカの傍に」
 今度はミウカがかぶりを振った。声はもう完全に、強く見せようとする彼女のものになっていた。
「リイヤがなにを見、どう感じたかは知らないし、知る気もない。…だが、リイヤが考えるべきはそんなことじゃない。元の世界に無事な姿で還ることだけを考えてくれないか。それを見届けるまで、自分は必ずリイヤを護る」
 己を「あたし」と呼んだのは、一度きり。境界線を壊すことは叶わない。だが引き下がりたくなかった。
「俺は…この世界に残ったっていい。還ることなんて考える気はない」
 何より、莉哉自身がここに、ミウカの傍にいたいのだ。
 赤銅の瞳は莉哉を見ない。声は、届かない。総てを拒絶し、総てを独り背負い込む。誰もその荷物を軽くすることが出来ない。
 歯痒くて、悔しくて、力の無い自分が情けなくて。莉哉は己に苛立つ。
 自分が唯一の場所になりたいと、願うのに。
「だったら!…どうして俺を呼んだ!?どうして俺だったんだっ」
 声を荒げたことを咄嗟に後悔した。これは八つ当たりだ。ミウカが誰にも心を開かないのは、それだけの理由があるからだ。計り知れないほどの闇を抱えているからだ。
 巻き込んで誰かが傷つくのを恐れている。自分がどれだけ傷つこうとも平気なフリをするのに、自身以外が傷つくのは耐えられない。――判っているのに。
 何も出来ない自分への苛立ちをミウカにぶつけているだけだった。ターニアが宣言したように、彼に出来ることは何もない。役に立てることは何一つない。認めたくなくて、無様にあがいているだけ。
 深く息を吐いて、小さく謝った。ミウカの方が見られなかった。
 一瞬だけ見えた少女の顔。その瞬間に垣間見えた表情が焼き付いて離れない。
 望んだのは、何よりも彼女の笑顔。心からの微笑み。
 願ったのは、彼女がマトゥーサの父親の前で頭を下げた時の表情を、二度としてほしくないことだった。
 なのに、他でもない莉哉が、ミウカにその顔をさせた。彼女を、傷つけた。
「教えてやれば、いいんじゃないか?」
 もう一度謝ろうとした莉哉の言葉は冷淡な声に遮られた。二人の視線が一斉に声の方へと向く。
 寄り掛かっていた幹から躯を離し、緩慢な足取りで二人に近づく。
 輝く銀色を携え、碧を深く沈ませている少年。清冷な顔から感情は読み取れない。
「…その前に、」
 ずい、と莉哉の正面に立つと胸倉を掴み持ち上げた。
「いくらお前でも許さない。ミュウを責めるな。彼女の所為じゃない!しかも今は…」
 コウキを失ったばかりだというのに――
 莉哉に返す言葉など無い。タキの言う通りだ。俯いた莉哉と噛み付かんばかりのタキを引き離そうとするミウカの表情は、痛くて直視できないものだった。乱暴に莉哉を振り払ってタキは彼を見下ろした。
「『波紋を投げ掛ける者』は…」
 タキの背後に控える月が、やけに綺麗だった。翠の光を潜めた瞳は澄んだ碧眼を直視する。
「タキ!」
 慌てたミウカの声が夜気を裂く。銀色の少年は構うことなく続けた。

「その生命を犠牲にして、この世界を救える存在だ」


[短編掲載中]