召喚以来訪れることのなかった森へ、足を踏み入れていた。
 そう遠くない過去のことなのに、懐かしく感じる。初めてミウカと出逢った場所。
 森の入口にホスーを繋ぎ、躊躇うことなく歩き出した。月明かりも届かない暗闇でも、頼りないカンテラの灯かりしかなくとも、怖いと思わなかった。
 ウィルの姿はなかった。繋ぎとめておく必要がないからだろうか。
 確信はない。けれどきっと、ここにいる。彼女は、いる。

 拓けた草地。豊かに水を湛えた泉に清澄な月の姿が映る。僅かに揺らめき、輪郭がぼやけた。
 そのほとりに、佇む少女。俯きもせず、仰ぎもせず、水面を見つめている。

 安堵していた。心急いて捜していたのが嘘みたいに。
 彼女の心情を思えば安直に喜んではいられないのだが、それでも無事でいてくれたことに感謝した。
 背中しか見えない華奢な赤銅色の影。儚く、脆い、姿。
 名を呼ぶことさえも憚られ、無言のまま近づいていった。莉哉には気配を消す妙技はないし、あったとしてもする必要はない。下草が奏でる足音を気にせず歩いた。
 まだ手を伸ばしても届かぬ距離まで近づいた時、可愛らしい声が低く響いた。
「……くるな」
 莉哉は歩調を緩めはしたが歩みを止めなかった。
「いやだ」
「心配してるのか?それなら無用だ」
 あと数歩の距離。手を伸ばせば届く距離まで詰めて、足を止めた。
 数秒の沈黙が二人の間に分厚い壁となって立ちはだかる。それ以上踏み込めないようにと。これ以上、心の距離は縮められないのだと。
「独りになりたいと、言ってるんだ。…棄て置いてくれ」
「できない」
 する気もない。
 ミウカは静かに剣を抜いた。滑らかな動きに刃が月光に輝いた。
「ならば、斬る」
「いいよ」
「斬れないとでも?」
 抑揚のない声だった。感情の欠片も混ざっていない、無表情な声。
 莉哉の心は凪いでいた。
「ミウカのしたいようにすればいい。俺は…俺のしたいようにする。放っておけない」
「リイヤに、…人の空間を奪う権利が?」
「……ないよ。いなくなってほしいなら、斬ればいい」
 彼の本気を少女は背中でひしひしと感じていた。奥歯を噛み締める。
 心が、波立つ。

「頼むからっ…!独りに…っ」

 とうとう少女は、言葉を紡げなくなってしまった。声が震えて、それ以上を続けてしまえば感情が決壊してしまう。
 再び落ちた沈黙の中に、莉哉の柔和な声が名を呼んだ。ぴくりと赤銅の髪が肩の反応に合わせて揺れた。
 少女の腕をとり、振り向かせると同時に、その躯を抱き締めた。
「っ…!離せ!」
「いやだ」
「斬るぞっ…」
「やれよ。本気で嫌なら、殴ってでも突き飛ばしてでもこの腕から逃れればいい。出来なくはないだろ?」
 今ここで、君を支えることも出来ぬ腕ならば、要らない。
 ミウカの頭に手を添え、更に引き寄せた。細い躯は腕の中にすっぽりと納まる。
「我慢しなくていい。泣きたければ泣けばいいんだ。…涙は、弱さの証明じゃない」
 莉哉の囁きに反応していた。するりと手から剣が滑り落ちる。空になった手はしがみ付くことなく脇に垂れ下がったが、少女はその温もりに躯を預けてきた。
 すでに莉哉の胸に埋もれた少女の表情が、かつてないほど素になり、崩れた。

 泣いてはいけない。涙を晒すなど許されない。己に課した境界。
 だけど本当は、慟哭し、突っ伏して、後先考えずに感情を走らせたかった。なり振り構わずに、感情に任せたかった。
 強くなりたい。弱くいきたくない。…だから、泣かない。涙は棄てる。自身に固く誓った。破るわけにはいなかくて。
 怖かった。痛かった。本当はずっと、泣きたかった。
 せめて今だけは…。

「っ!っく…。うぁあ――…」
 痛切な、胸を抉られる泣き声。静かに月が見下ろしていた。


 莉哉の言葉に、ミウカの意識は幼少の頃へと回帰していた。
 ハルが死んだと聞かされて、ハルの分まで生きるのだと、強くなるのだと――泣かないと決めた頃へと。
 半身を失ったミウカに対し、父親はそれまでと何ら変わらず厳しかった。父の無情さに気を取られているゆとりはなく、鍛錬の強要に不平の一つも洩らさず継続した。
 だが剣呑にかわりはなく、精神を精一杯保とうとする少女の心を周囲は危ぶんでいた。
 そんな時、少女の前に現れた小さな小さな動物。怪我をして動けぬところをミウカに保護され、プンティと名付けられた。子供達の献身的な介護のおかげで回復に向かっていく。
 プンティが懐くのに比例してミウカの心も少しずつ救われていった。なのに、現実は容赦なく叩き付ける。
 ある朝目覚めた時には、プンティは冷たくなっていた。
 その日の鍛錬に全く身が入らず、普段なら絶対にしないような怪我をあちこちにし、ボロボロのまま中庭に放り出されていた。父の辟易した溜息が耳に残るも、どうでもよかった。虚ろな目線を頭上に広がる碧空に向けていた。
 どうしようもなく孤独感に蝕まれる。
 ハルだけじゃなく、プンティまでもが自分を置き去りにする。
「…っ」
 小さく呻いて、慌てて顔を覆った。喉の奥から込み上げる嗚咽を必死に飲み下す。
「泣いてもいいんだ。我慢するな」
「…!」
 不意に落ちてきた声。音色だけで、誰が傍にきたのか判っていた。だからこそ顔を覆う手を避けることが出来なかった。一呼吸置いて、何気ない声色を作ろうとして無理だと気づかされ、黙っていることにした。
 声の主は傍らに腰を降ろす。見えなくとも柔らかな視線が感じられた。
「泣けばいい」
 ふる、と首を横に振る。
「……強くなりたい。だから、泣かない」
「泣くことが弱いということではない。…あの子は…プンティは幸せだった」
 無言のまま体勢を変えないミウカに尚も続ける。いっそ柔和な表情で。
「ミウカに出逢えたのだから」
 空よりも深い碧を湛えたコウキの瞳が柔和に細められた。


[短編掲載中]