失われるべきは、この生命だった――
 雨は音もなく降り注ぐ。地上の悲しみを天に映して、とめどなく流れる涙のように…。城内が、国中が、悲しみにくれていた。


 惨劇の爪痕を色濃く残す剣聖帝国ナラダの皇位第一継承者――コウキ=ラクフィール=ナラダの死は、瞬く間に方々へと伝えられた。予期されなかった事態に、国の者は皆不安を覚えずにはいられなかった。
 恐れ、慄き、嘆き、悲しみ、将来は閉ざされたも同然と口にする者もいた。
 彼を慕い尊敬している者は数多く、その衝撃は計り知れないほどだった。
 陽が落ちて闇が総てに降りた頃には降り続けた雨も止み、静寂の月夜が訪れていた。昼間でも夜かと間違えるくらい分厚く垂れ込めていた雲もどこかへ流れていき、月の明かりが優しく地上を照らす。
 人気の無い夜更けの廊下に足音が響き渡る。複雑な感情の色を深く刻んだ表情で、薄茶翠眼は激しく焦燥に襲われていた。闇雲に走り回り、少しでも油断をすればあっという間に混乱に陥りそうになるのをギリギリで引き留める。
 思考は総て一つのことに囚われていて、早鐘のように鳴り続ける鼓動に急き立てられてて、角から飛び出してきた影とぶつかりそうになった。際どい所で何とかかわし、胸を撫で下ろす。同時に相手を確認した。
「タキ!」「リイヤ!」
 二人の声が揃う。瞬時に目的が同じなのだと悟る。
「心当たりはないのか!?」
 噛み付くような勢いの莉哉同様、タキも冷静ではなかった。いつもの飄々とした空気は微塵もない。
「散々捜してる!」
「どこか…!なにか、なんでもいい。思い当たることを教えてくれ!」
 喧嘩ごしで、懇願する響きで。互いの気持ちは同じだった。
「一体どこへ行ったんだよ…!」
 シェファーナに知らせを聞いたのは数刻前のことで、以来ずっと捜し回っていた。

 ミウカが、消えた――


◇◇◇


 莉哉は城外に出ていた。額を伝い落ちる汗もそのままに、カンテラの明かりが石畳の道を揺れて照らす。
 コウキがあんなことになった直後で皇族は戒心していた。コウキのことだけが原因ではない。痛嘆に打ちひしがれる隙もないほど、別件で対応に追われることとなったのだ。
 スティア姫が攫われた。
 退路の確保の為にグラザンに連れさられ、身の安全は確認されていない。救出の為の会議が城のどこかで開かれているという。
 タキは城から出ることを禁じられ、監視が付いて廻っていた。城内のことは彼が詳しい。引き続き探索を続けるというので任せることにした。対して、城の構造にも詳しくなく、かといってミウカの行き先に心当たりがあるわけでもない莉哉だったが、大人しくじっとしているなんて絶対に不可能だった。
 独りになりたいのだろう。けれど、独りにしてはいけない。
 喪に服している城下街の夜は不気味なほど静かに時を遣り過ごしていた。人気は皆無だった。動く影がないことに慣れきっていた莉哉は、小さく動いた影に心臓が飛び跳ねた。
 対する相手も最初こそ驚いたが、捜していた人物――莉哉が目の前に現れその表情を泣き崩した。
 いつかと同じ、駆け寄って莉哉の足に抱きつく。顔を埋めて嗚咽を漏らしている。
「セト…」
 優しく諭すように呼び、しゃがみ込んで目線を合わせた。濡れる頬から涙を拭ってやるも、次から次へと流れる。
 しゃくりあげる喉に負けないよう、懸命に押し込めて莉哉の名を呼ぶ。揺れる瞳の中に伝えたいことがあるのだと悟った。早く話して莉哉に助けてほしいのだけれど、感情だけが先回りして言葉が空回る。セトが伝えたい言葉を笑みを携えて待とうとした。そうすることで莉哉自身も落ち着ける気がしたからだ。
 けれどセトが何を言わんとしているのか、それが今の莉哉に関わってくるのだと判断し、ゆっくりと促した。
「ミウカを捜してる。…知らないか」
「夕刻に…見掛けたきり…」
「街に、出ていた…?」
 セトはコクリと頷いた。涙が瞳に留まる程度に収まっている。
「この道を通って、街門の方へ…」
 あたかも今、目の前を歩いているミウカの残影を追いかけるようにして、セトは指先を門の方へと動かして指した。その動きを追って莉哉もそちらを見る。彼女がくぐったであろう門に視線を据えた。
 街の外へ出た…?
「一人だった?」
「ウィルが一緒だったよ」
 思い出しているのか、再びセトは雫で頬を濡らした。この少年が何を思って涙を流すのか、他に理由があると思った。それを一番に自分に言いたいのではないのかと。
「なにか、あったのか?」
「皆…ひどいんだ。ミュウ姉が悪いって…全部ミュウ姉の所為だって…」
 思い出すのも辛いのか、セトは小さな顔を大きく歪ませた。ポツリポツリと拙くなってしまった話し方で思い出す情景を説明していった。
 城下街を抜ける少女の歩みは、ひどくゆっくりしたものだったという。
 まるで罵る声の一つ一つを、その華奢な躯全部で受け止めようとするように。言葉だけでも耳を塞ぎたくなる内容を、彼女は深く沈んだ表情でぶつけられるままになっていた。
 やがて、何も言い返さない、顔も上げないミウカに怒りの感情は膨らんで、物を投げ出す者が現れた。八つ当たりでしかないその行為は次第にエスカレートする。はじめは小石や木の実等、当たっても怪我をする類のものではなかった。
 それでもその数は降り注ぐほどの量になり――収束は、鈍い音だった。
 少女の額に直撃したそれは、落下し石畳に傷を残した。足元に転がるそれを数秒見つめ、少女は再び歩き出した。何も言わず、何もその表情に刻まずに。
「レンガ、だと?」
 憎々しげに呟く莉哉の目を見ているのが辛いのか、顔を逸らしたセトは一点を凝視した。欠けたばかりの石畳道の一点を。
「お願いっ。ミュウ姉をっ…見つけて…!」
 セトの縋る切ない声が心に突き刺さる。
 マトゥーサの父親に刺された時と同じ。あの時のコウキの心情が手に取るように判る。一度や二度じゃない筈だ。彼女は傷つけられようとするのだ。まるで見当違いな重責を、一手に引き受けようとする。
「ミュウ姉の所為なんかじゃないよね?皆ミュウ姉を責めるけど…違うよね?」
 険しい表情の莉哉の袖口を引っ張る。沸き起こる憤怒を押し込めて真顔になった。
「当然だろ?ちゃんと信じていてやれ。惑わされるな。自分の知っているミウカを信じるんだ。…俺に任せてくれるか?ミウカを必ず見つけるから、家でちゃんと待ってられるか?」
 はい、と小さくとも強い信頼の含まれた声色だった。
 振り返り振り返り帰路につくセトを見送り終え、莉哉は立ち上がった。駆け足で城へととって返す。
 避けようと思えば避けられるのに敢えて避けない。受けなくてもいい中傷を受ける。自らを傷つけることは出来ないから。
 ――コウキはミウカの所為で死んだ。
 勿論違う。事実ではない。だが彼女も同じようにして自身を責めているのだろう。自分が彼を殺したのだと、一人で抱え込もうとするのだろう。例え伝わらなくとも、伝え続けなければいけない。
 彼女の耳に届くまで。


[短編掲載中]