コウキは言葉を口にしようとして、目の前にある瞳の揺らめきに遮られる。切なく歪んだ表情に言葉は失われていく。
 少女の唇から漏れた謝罪の小さな呟き。だが剣を持つ手に力は保たれたままだった。ハルを庇いコウキの剣を防いだミウカは、その体勢を変えようとはしていなかった。少女の肩越しに見える赤銅の瞳でさえ、戸惑いを隠せずにいる。
「……すまない」
 再度呟いた声は先ほどよりはっきりとコウキの耳に届いた。
 ミウカ自身、どうにも消化できない感情だった。何年も燻ぶり続けている感情。
 思考よりも何よりも、先に躯が動く。咄嗟に反応してしまうのだ。理性が理解する当為など、瞬間で吹き飛ぶ。強く切ない願望――ハルと生きてゆきたい。二度も同じ人を失いたくない。
 本来自分が護るべきはナラダであり、銀髪碧眼の血筋なのに。
「お前は俺に、なにを望む?」
 ハルはゆらりと立ち上がった。
 何度裏切ろうと、彼女の信じようとする心は挫けない。
 あまりにも優し過ぎる心。だが時は無情なのだ。なくした時間を取り戻すのは不可能で。引き返すことはできない。
 振り返る真紅の瞳。元来同じ色を持っている少女が何故色を変えるのか。感情の昂ぶりと共に変化する。今は切ないほど揺れていた。
「判らないのか?伝わらないというのか?」
 今にも泣き出しそうな少女。ハルにはそれを受けても痛むだけの心はなかった。人としての感情は、とうに棄てた。そうでなければ、生きてこられなかったから…。
「何故だ!?何故歩み寄ろうとしない!?何故…この手をとってくれない…」
 後半の方は震える声となった。詰まる喉が、痛い。
 完全に躯ごと振り返って向かい合ったミウカは、ハルを見据えた。背中に碧眼の視線を感じる。一歩でも脇へ逸れれば、再び遠慮ない剣撃が紡がれるだろう。
「無駄だよ、ミウカ」
 冷淡な声色だった。あたたかな色を宿す瞳が語るには、あまりにも冷たい響き。
「俺はここには帰れない」
「だったらっ…!」
「…戻れない。進むしかないんだ」
 間違っていようと、手段を選ぶ余地などなかった。
「これは自分らの闘いだ。他を巻き込むな!」
 ハルとて、古の楔に抗えないだけなのだ。罪の所在を追及するなど、そもそも無意味だというのに。理性は彼女の叫びを止められない。心が通じ合わなくなった今では言葉で訴え続けるしかないのだ。
「それは、できない相談だな。判るよな?ミウカ」
 落ち着き払ったハルの声。彼の狙いがミウカでもなくコウキでもなく他であることを、真紅の瞳だけが汲み取っていた。攻撃が出る前に阻止したかった。
「ハル…ッ!やめっ…」
 言葉は遮られ、【遠当て】が放たれる。ミウカは咄嗟に進路を変更し、それの前へ飛び出す。剣に弾かれた圧は空へと拡散した。直線でいけば、それはスティアに当たっていた。
 破片がミウカにぶつかり、躯のあちこちから黒い瘴霧が立ち昇る。皮膚の焦げる匂いがした。
 スティアの目の前に立ちはだかった赤銅色の影。見開かれたスティアの目に鮮やかな赤銅が闇色に犯されたのが映った。
 戦慄く唇から途切れ途切れに単語にならない声が漏れ落ちる。そして間近で目撃した。
 黒い霧が、あたかも元の場所へと帰るように、静かにそっと、その躯に吸い込まれたのを。
 ミウカ自身、信じられない出来事だった。
 恐怖が混乱を呼び、混乱が正気を奪う。スティアの精神は限界を超えた。
「いやあぁーっっ!」
「スティア姫!動いては駄目!!」
 ミウカと視線が合った。護ろうとする手を、思い切り跳ね除けた。まるでミウカこそがおぞましいといわんばかりに。
 ハルを庇った事実も、瘴霧を取り込んだ事実も、スティアにミウカが危険だと判断させるには充分だった。
 走り出したスティアを追いかけることは出来なかった。彼女が恐怖しているのは、ミウカなのだ。
 思わずコウキを見た。駆け出そうと動いているが距離は広がっていくばかり。次にミウカの視線が捕らえたハルは、意識を紡いでいた。狙いは変更にはなっていない。
 【保護壁】は莉哉にあてていた。スティアに移せば済むことなのだが、おそらくそれをした瞬間、【遠当て】は彼に放たれるだろう。
 いわばスティアは囮なのだ。最終目標に達する為の通過点でしかない。あわよくば、フィーゴスの財力をナラダの武力向上の為に献上している国の姫を亡き者にしてしまおうという魂胆もあるのかもしれない。
 そんな事態は、何としてもあってはならない。
 今この場でハルの攻撃から護れるのは自分しかいない。何もかもを護りたい。もう…誰も失いたくない。
 姫の名を呼び、その涙に濡れた顔が振り返った時、ミウカの腕が届いた。加減など構っていられなかった。目一杯強く引き自身の背後へと振った。すぐ後に続いていたタキならば彼女を安全に受け止めてくれる。放たれた【遠当て】の軌道からスティアは外れた。が、そこに残された少女がどれだけ優れた体術をもっていても、避けるのは最早不可能な間合いだった。
 真っ直ぐに向かってくる圧を、真紅の瞳は凪いだ心で見つめた。その向こう側で瞠目している赤銅の影。明らかに見て取れた動揺のさまに、ほんの少し満たされた気持ちになった。
 やはり、ハルは根まで朽ちてはいなかった。
 充分だと、思った。
 自分がいなければ、ハルの手でこの生命を終わらせれば、彼は…兄は、この国を狙わなくなるだろう。――目的を、なくしてしまえば。
 少女はゆっくりと目を細め、覚悟を決めた。
 共に生きる路がないというのなら、先に逝くな、ハル。


 タキはその目で、間近に起こることを見ているしかなかった。ミウカの手より託された姫を腕にしかと受け止め、すぐさま顔をあげた。
 退路を取れずにいる少女。凛とした立ち姿はとても美しくて。
 助けなければと、彼女を失いたくないと、気だけが急いて…なのに時間はひどく鈍重で、動き出せないまま叫んでいた。少女の名を。


 莉哉はその目で、自身を囲む頑強な【保護壁】越しに、少女の姿を追いかけていた。
 一人を対象とした壁なのに、まるで動くことを許されなかった。どこまでも莉哉を護ろうとする少女。頑なな誓いの為に、その生命は今、奪われようとしていた。


 圧は少女だけを捕らえていた。放った本人でさえ意図しない相手を、目標と定めて。
 真紅の瞳に宿る強い光に、想いを見た。総てを受け留めた、想い。
 ――誰一人として望まぬ結末を、静かに少女は待った。
 少女は心の中で、声を繰り返していた。兄に、半身に。…今はもう、通じないけれど。
 目蓋の裏に蘇るのは共に時間を過ごした、優しい思い出。
 間近に迫る音。避けきれない、避ける必要はない。…これでいい。
 ――だが、
 少女の名を呼ぶ声。かつてない声色だが、それは確かに、常は心地よく奏でられていた低い声。
 一気に引き戻された意識。見えたのは幼き頃から傍にあった銀色。艶やかに揺れる細い髪。
 かつて姉が愛した、色。――寄り添うスラが、見えた気がした。
 現実を把握すると同時に、ミウカの躯は違う圧に弾き飛ばされていた。柔らかく、力強い圧。遠のいていくのは自身の躯で、数瞬前まで自分が立っていた場所に、コウキがいた。
 意識の奥深くで叫んでも、声は音にはならなかった。
 しなやかに、長身が空を舞った。ゆっくりと、とてもゆっくりな時間の流れは、残酷な現実をありありと少女の瞳に焼き付ける。
 ハルの放った【遠当て】は黒い魔を纏って、その肢体の中心を貫いた。
 鮮やかな赤の純色が視界を染める。清涼な銀色を真紅に染めた。立ち尽くす真紅の瞳と、同じ色へと…。


[短編掲載中]