瞬時に、何もかもを理解するのは不可能だった。
 現実に引き戻されてもすぐには、莉哉の意識はここへ戻ることを拒否した。《透察眼》が見せた光景を巧く受け止められなくて。
 だが時間の流れは止めようがない。
 莉哉の思考が停止しても、惨劇はその範囲を広げていく。
 そこにある音。衝撃。振動。悲鳴。叫び。怒号。――穏やかに流れていた空気は一瞬で惨劇の序章へと色を変えた。
 目の前で展開されていく現実に、躯の機能は動きの一切を止めた。
 焼け焦げた熱風が体当たりして、ぎゅっと目をつぶる。視界が黒に閉ざされる前に見えた赤銅の長い髪が、自分から遠ざかっていった。中庭の中心へと駆け出した華奢な影を追って、莉哉の背後から横をすり抜けていったのは銀色の影で。
 ただただ戸惑い、圧倒されて立ち尽くす。己の《透察眼》を疑っていたかった。
 目蓋を無理矢理こじ開け、爆音にぼやけた聴覚を澄ました。痛いほどの轟音がつんざく。
「ミウカ!!」
 すでに斬撃を繰り出している少女の背中は振り返らない。呼応するように同調するように、赤銅と銀が舞う。あまりに無駄のない動きに目を奪われる。
 それも数瞬のことで、城のどこかが崩れ落ちる轟音に我に返り、反射的にスティアの方を見遣った。柱に捕まり躯の半分を隠してこちらの様子を伺っている。というよりは、動けないでいた。その顔は恐怖に染め上がっていた。
 フィーゴスでは滅多に城から出たことのない身分であるスティアにとって、こんな光景を見るのも体感するのも、産まれて初めてのことだった。
 混乱を極め騒々しい城内で安全な場所など失われているだろう。だとすればどこにいても同じこと。あのままあそこにいてくれる方がかえっていいのかもしれない。剣を持ったこともない姫ならば下手に動いたりはしないだろうし。
 そう判断して莉哉は再び戦地と化した中庭へ向き直った。
 駆け付けたナラダの騎士も果敢に応戦している。が、敵の数も相当なものだった。
 先頭に立って指揮を執る赤銅の影――グラザンの隊長、ハル。彼の顔は狂喜に歪んでいた。
 ミウカが纏う赤銅色はとても清浄で華麗なのに、同じ色なのに…別色だった。
 どう動けばいいのか。何を優先すべきか。逡巡している間に根が生えて、地中深くまではってしまった。足が動かない。動こうとしない。
 あの中に入って満足のいく動きがとれるとは思えない。足手纏いだけは願い下げだ。かといって、このまま木偶の坊でいたくない。
 どうすれば…!ちくしょうっ…。このままではミウカが…!
 次々と範囲を広げていく惨状を食い止めたい。ちっぽけな戦力でも対抗可能なことはあるだろう。どうにかして阻止しなければ、彼女を失ってしまう。
 気ばかりが急く。もどかしく、苛立つ。
 力が、ほしい。彼女を護れるだけの。一緒に歩んでいけるだけの。
 赤銅色の瞳は今や鮮やかな真紅に変わり、少女のあどけなさは微塵もなくなっていた。
 グラザンの容赦ない攻撃は見る影も残さず、次々に城を破壊していく。崩れた瓦礫に飛び散る血飛沫は後から他者のそれで上塗りされていき、敵も味方も赤く濡れていく。
「コウキ!ここはいい!後方を護れ!!」
「ふざけるな!意味が判らん」
 互いに視線は交わさない。けれど的確に互いの間合いを把握して、まるで打ち合わせがあったかのような動きだった。
 ミウカの苛立ちをコウキが気づいていないわけではない。だがその原因が不明だった。勿論闘いの最中にあって、完全なる平静を保てる者などいるわけはないのだが。これほどミウカが集中しきれていないのは初めてのことだった。
 とん、と互いの背が触れ、ぴたりと動きを止めた。背中越しに鼓動を感じる。
 にじり寄るグラザンの騎士は警戒を露わに、誰もが息をするのを忘れてしまっていた。踏み込ませるのを躊躇わせるだけの威圧感が二人から醸し出される。
 弾む呼吸を整えながら前方を見据え、背後にいるコウキへ口を開く。
「動いたら、ここは任せろ」
「さっきからなにを言ってる?」
「判らないのか?」
 益々苛立った声色になる。柄を握る手に力を込めた。ミウカの正面に立つハルには二人の会話は聞こえていないが、僅かな隙を見せれば途端に斬りかかってくるだろう。悠長に話している場合ではない。
「役割を忘れるなと言っている。コウキと、このナラダを護るのが自分の役目だ」
 足先に力を入れる。剣を構え直し、ハルと瞳がかち合った。踏み込んで、ミウカは地を蹴った。コウキの背中に言葉をぶつけて。
「…コウキが護るべきは姫だ!」
「ミウカ!」
 コウキの声を振り切りハルへ向かって跳躍する。
 刃が硬質な音をたてた。噛み合った剣を押し合う。間近にある真紅と赤銅の瞳。本気で遣り合えば互いを死へと追い遣ることは可能だった。それをしないのは、望むことがそうではないから。
 二人が望む根底にある願いは、同じ。だが決して相容れない。――望む結末は同じであっても、選んだ方法も路も違われていたから。
 模索し続けてきた。後悔の度に苦しんで、でも信じようとして、また裏切られて…。
 本当は抜剣することすらしたくなかった。差し出すのは刃でなく、抱き締め合う腕でありたかった。双子の望みは同じであるのに、何故同じ方向を見て歩いていけないのか。
「本気でかかってこい!」
 ミウカの心情を読んでハルは、声を荒げた。
「守戦に徹している限り、俺は倒せないぞ!」
 集中していないわけではない。背後を気に掛けて踏み込めないのは事実だったが、手を抜いているつもりはなかった。だが、ハルを相手に、生命を奪う剣撃など繰り出せるわけがない。
 ――生きて、並んで歩いてゆきたい。…ただそれだけが、望み。
「共に生きる路はないのか!?クエンの駒となり、それで満足なのか!?」
 彼女の叫びは悲痛なものだった。表情は愁嘆に染まる。ハルは無表情だった。何も表に出さない為の冷たい双眸。幼き頃、言葉がなくとも通じ合っていた心は、堅く閉ざされたまま。
 何も伝わらない。

 ひとまずミウカの言う通りに動いてみせていたコウキは、ひっきりなしに現れるグラザンの隊を迎え撃ちながら、少女の様子をずっと観望していた。
 ひとつの結論に達する。やはり無理なのだと。…それを責めるつもりは毛頭ない。権利もない。
 けれど、傍観するつもりもない。
 自身の心に誓った約束を、貫きたい。――必ずミウカを護り抜く。

 剣を弾き合った双子。間合いをとって睨み合う。切り裂くような張り詰めた空気に、誰もが足止めを余儀なくされた。入り込めない空間。しかしそれは数瞬のことで、
「私が、相手だ!」
 素早く反応したハルは攻撃を防御し、すかさず斬り返す。ミウカの前に銀色の背中が見えた。長身の陰が少女に差し掛かる。
「コウキ!なにをやってる!」
 少女の怒号は絶え間ない斬撃に阻まれた。
 コウキの攻撃は容赦なく降り注ぐ。五年前とは明らかに違う。僅かな躊躇いもなかった。
 例え恨まれることになろうとも、彼女の生命は護る。相手がハルであろうと、敵以外に思ってはいけないのだ。
 やめろ、手を出すな、とミウカが叫び続ける間にも、グラザンは襲い掛かってきた。薙ぎ払い、集中しなければと叱咤する。
 何故!?――感情はそう思うのに、理性はとっくに答えを出していた。コウキは見抜いているのだ。幾度となくハルと剣を交えるミウカを近いところで見てきたのだから。その上で判断した。
 ミウカにハルは倒せない、と。
 歯噛みする思いだった。自責の念に苛まれる。
 判っていた。とっくに、感じていた。自分にはハルを二度と失うことは出来ないと。どんな形であろうと、生きていてほしいのだと。
 気迫が、コウキの実力を遥かに上回らせる。負けるわけにはいかなかった。終息させなければいけなかった。少女の精神がもっている間に。
 歴然の差。それほどにコウキはこの時に賭けていた。ついにハルの手が地に着く。絶え間なく繰り出される攻撃に、体勢を立て直すことが不可能だった。振りかざされた長剣が一閃した。
 防御は間に合わない。見開かれた赤銅の瞳とかち合って尚、碧眼は冷たく澄んでいた。
 ガキンと硬い音がした。咬み合わさった刃。コウキと、もう一つは――


[短編掲載中]