穏やかな風が吹いていた。
 緑に残る朝露が眩しいくらいに輝いている。朝日は清涼な空気をあたためていた。
 日課となった鍛錬の合間に休憩を入れ、火照った躯から流れる汗を乱暴に袖で拭った。天気のいい日はたいてい中庭で剣を振るう。決まった者以外の人が近づいてくることはまずないので怪我をさせる心配はないし、城内の一部とはいえ、やはり自然の中での開放感というものは、どれだけ天井の高い造りの巨大な錬鍛場であっても得られないものだったから。
 莉哉は、ターニアに対顔した日から書蔵庫には寄り付かなくなった。彼女の言葉を鵜呑みにしたわけではないのだが、あれだけ時間を掛けて関連文献を通覧しても片鱗さえも見つけられずにいた で、追い討ちをかけた彼女の言詞に、完全に気持ちが折れてしまっていた。
 気力を回復させなければと前向きにもなれず、かといって、ただぼんやりと時間を過ごしては余計なことを考えてしまうだけなので、今まで以上に躯を動かす方向でひたすら時間を潰した。
「リイヤ、腕は平気なのか?あまり無茶をするなよ?」
 幹にもたれて剣の手入れをしているミウカは手を止め莉哉を見る。直視するのが何となく躊躇われ、また汗を拭うフリをして顔を逸らした。
 役に立たない。すでに、ここに存在する意味すらない。
 身の置き場がないとはまさにこのことだ。と内心でずっと自嘲し続けている。
 ミウカはターニアの言葉を知らないから、こうして何ら変わらずに接してくれているのだろうか。現実を知ったら、こんな風に変わらず屈託ない笑顔を見せてくれるのだろうか。
 彼女の性格までもをマイナスな方向へと一瞬とはいえ疑って、自己嫌悪に陥る。
 最悪だ…。
 黙って隣に座った莉哉の動きに少女の視線が追いかけた。そちらを見なくとも、彼女の表情が見えるようだった。
「リイヤ?」
「……うん、平気だ」
 呟くように答え、目蓋を閉じた。無意識に右肘をさする。何もしていなければ痛みはないのだが、動きが伴うと刺すような痛みが走る。自棄になって無茶をして、鍛錬に打ち込んだのが原因だった。それでも何かをしていたくて鍛錬を続けていた。他にすることがなくて、放っておけば益体ないことばかり考えてしまう。そんな思考を遮断していたかった。
「腕、見せてみろ」
 芝を睨みつけていた莉哉はミウカの言葉と動きに不意を突かれ、かわす間を与えられずに右腕を掴まれた。そのまま袖をたくし上げようとするミウカの手をかろうじて押し返す。
「見せろ」
「なんでもない…って、言ってる…だろっ」
 見た目を見事に裏切る力で半ば馬乗り状態になるミウカに、倒されつつも莉哉は必死に抵抗する。が、お腹の上に膝を立てられると途端に他に力が入れられなくなった。
「ど、け…よ」
 ぐぐっと抵抗の力を返しながら言葉を発するのは困難で、上に乗っかってくるミウカの勝ち誇った顔が無邪気に笑った。
「この体勢から勝てると思うなよ?」
 ミウカは人の怪我とか病気にはとても敏感で、薬草に詳しいのも一心に研究をしているのも、自分ではない誰かの為だった。
 昨日の鍛錬の最中に腕を痛めた。ミウカは痛みの走った直後には筋をおかしくしたことを察知していて、大丈夫だという言葉を丸無視して強引に手当てを施した。おかげで今日も鍛錬を続けることができているのだが。
 ぐいと右腕を捕獲され一気に袖をまくられる。昨夜ミウカに手当てで貼り付けられた薬草の下が、それをめくらなくても腫れているのが見て取れた。
「ひどくなってるじゃないか。一体何時からやってたんだ?自分が来るよりずっと前だろ。だいたい、今日はやるなと言っておいたよな」
 咎める口調にはあたたかみが含まれていた。心配し相手を思っているからこそ、滲み出る温もり。
 ――心が、軋む。
「痛くないから気づかなかった」
「そんなわけがないだろう」
 空とぼける莉哉の腕をまじまじと観察し、彼女の脳内で展開されているだろう薬草の調合が、ぶつぶつと愛らしい唇から小さな音量で漏れていた。
 ふ、と口元を綻ばせる莉哉に鋭く視線を投げてくるミウカは口を尖らせた。
「なに笑ってんだ。怒ってるんだぞ、こっちは」
「判った、判った。負けたよ」
 だからとりあえずどいてくれ、と続ける。
 ミウカは傾倒し易い性格の持ち主で、一つに専心すると周りが見えなくなる傾向がある。莉哉に言われて初めて、二人がどんな格好になっていたかに気づいた様子だった。
 耳まで熱が上がり、真っ赤な顔をして飛び退く。
「わわわわ悪いっ…」
「俺を押し倒してどうするつもりよ?」
 可愛いなぁ、と内心で呟きながら上半身を起こしてからかう。ますます赤くなるミウカを見つめた。
「な…なにも、あるかっ!」
 声を押し殺して笑う莉哉を赤面顔で睨んでいる。迫力は皆無なのだが。
「だけどほんと、これがあるからそんなに痛みはないんだ。こんなに腫れてるなんて思ってもみなかった。薬草の効き目、相変わらず秀逸だな」
 少しだけ落ち着きを取り戻したミウカは嬉しそうな顔つきになる。
「効果てきめんだろ?」
 彼女がこうして屈託無く笑う。表面だけ見ていれば一緒になって笑って、あたたかい雰囲気に酔いしれていればいいのかもしれない。――けれど莉哉は知っている。
 彼女が自身の能力を、驚異的な治癒力を、快く思っていないことを。彼女にとって必要な能力だと、莉哉は考えるけれど。
 こんな世界に生きて、宿命を背負っているのだから、あって然るべき能力だと。
 さすがだよ、と言って笑顔をみせる。
 彼女が笑っていようというのなら、せめてミウカの前でだけでも笑っていたい。できることなら、自分が彼女を支え、心配かけないようになれればいいのだけれど。
「風、気持ちいいな」
 莉哉の笑顔を満足気な表情で受け止めてからミウカは空を仰いだ。突き抜けるような青空が広がっている。柔らかく風が吹き抜けた。
 隣にある赤銅色の瞳は穏やかに細められる。
「自分は、ナラダを…ひいては、ラスタールを護りたい」
 黙って耳を傾ける。ミウカの声は滑らかで、耳に心地よい。
 小さく相槌を打った時、少女の視線の先にいる二つの影に気がついた。中庭沿いの廊下を並んで歩く長身の銀髪の影と、ぴったり寄り添う女性。
 莉哉達がナラダに帰って数日もしない内に、コウキを追いかけてスティアが入来した。それ以来ああしてコウキにべったりくっついて廻ってる。決して邪険に出来る相手ではないだけに応対するコウキの時間は殆どスティアにとられてしまっていた。
 公務は必然的にタキにまわるようになり、相当な不機嫌さで忙殺されていた。勿論表には出さないのだが。
「コウキもタキも、母様も…スラ姉も、愛した国だから。大切に想う世界だから。自分にはその資格がある。その為の能力を与えられた」
 穏やかで清涼な横顔だった。少し細められた瞳の先に映るコウキの姿を見るミウカはまるで別人で、歳相応の少女そのものだった。
 強く見せようとする虚勢も意地も何もない、ありのままのミウカ。コウキに寄り掛かり眠る姿が脳裏に蘇る。
 コウキが愛した国だからこそ、護りたいのだろうか。生命を掛けられるのではないか。
 莉哉のよこしまな思考を拒否するかのようにミウカは続けた。
「スラ姉の隣で笑うコウキが好きだった。自分はスラ姉が大好きで」
 ミウカの目にはスラの姿が見えているのだろうか。コウキの隣にいるのは姫ではなく…。
「あれは…あの笑顔は本物じゃない。コウキの心からの笑顔を見ることは、この先ないだろうな」
 それほどに二人の想いは強く繋がっていた。失った衝撃はどれほどの影響を彼に与えたというのか。常に冷淡で沈着したコウキもまた、見せないようにした傷を抱えている。
「スラ姉が愛したこの国を、コウキは必死に護ろうとしている。…そんな二人が大好きなんだ。だから自分も護りたいと願う。それだけだ」
 風が中庭を駆け抜ける。大木の下にいる莉哉とミウカに気がついてスティアは手を上げ微笑んだ。幸せそうな笑みで。
好きな者と一緒にいられる幸福感は誰にでも平等なあたたかさなのに、誰にでも平等に与えられることはない。触れることも叶わない冷たさが、人の心を凍りつかせる。
 スティアの視線から解放されたコウキは顔を中庭に向けながら無表情になった。莉哉には辟易したものに見えていたけれど。ミウカもそれを見て取れたのか、スティアに向けて愛想笑いを浮かべて呆れたような息を吐く。距離があるので溜息が聞こえる心配はまずない。
 目線を外さないまま静かに言葉を綴る。いっそ柔和な温もりを携えて。
「勿論、コウキのことは大切に想ってる。宿命に従い、生命を賭そうなんて考えるわけない。自分が護りたいと思う相手だからこそ。…ただそこに、莉哉が思うような感情はない。勘違いしているようだったから、一応な」
 フィーゴスの屋上で話した時のことだろう。思い出すだけで顔から熱を噴きそうになる。
「あー…、いや。ごめん。…あん時はちょっと、どうかしてた」
 少女は揶揄する目つきを投げ掛けてくる。気にしてはいないようだ。
「コウキもタキも同等に大切で、好きだけど、それ以上の感情はない」
 返事をどうしたものかと迷っているとコウキが来るようにと合図している。
「挨拶しないとな」
 若干面倒臭そうに笑い、ミウカは立ち上がる。そうだな、とミウカにならい莉哉も歩き出す。
 並んで歩く莉哉の足取りは自分でも(単純だな)と笑ってしまうくらい軽かった。
 顔の輪郭も表情も読み取れるほどの距離まで近づいて歩きながら会釈をする。コウキは変わらず動きもしないが、スティアは莉哉に笑みをくれて軽くお辞儀を返した。
 改めて見るスティアは初対面とは全く違った雰囲気を纏っている。コウキがいるだけでこうも違うものかと、口にしてはいけない嘲笑を懸命に堪える。
 顔を横に向け噛み殺しているとミウカに肘でつつかれた。
 緩やかだった。このままゆったりと時が、何事も無く流れていけばいいのにと思った。彼女の傍にいたい。元の世界に還られなくてもいい。
 『波紋を投げ掛ける者』としての役目がないというのなら、いち個人として何かを見つければいい。ミウカの近くにいられるだけの存在価値になればいい。
 きっとミウカは、どんな自分でも受け入れてくれる。確証のない、確信があった。
 そう思えたのに――
 地を揺るがす振動は、轟音と共に鳴り響いた。
 バランスを取ることさえも難しく、かろうじて転ばずに済んだものの、隣に並ぶミウカ、正面にいるコウキの険しい表情が、やけに印象強く焼き付いた。
 そしてまた、唐突に視界が渦巻いた。事前に見えた炎も、土埃も、目の前のコウキもスティアも、隣にいたミウカも、一緒くたになって混ざっていく…。
 目眩ではない。衝撃の所為でもない。――《透察眼》が見せるもの。
 過去なのか?未来なのか?…くそっ!なんだってこんな時に…!
 時も場所もお構いなしに割り込んでくる。どれもこれも鮮明で、確実な。
 胸がざわつく。嫌な予感がする。頭の奥で警鐘が鳴り続ける。
 駄目だっ…。見たくない!

 ――視界が、弾けた。

 そこは、『続き』だった。これから起こる、ごく近い『未来』
 見逃してはいけない。取り零すことなく、記憶に焼き付けなければいけない。
 そして、この嫌な予感が当たっているとしたら、回避する方法を見つけなければ…!
 見えたのは、ほんのひと欠片の、切り取られた映像。
 赤銅が舞う。己の力ではない方向からの圧に吹き飛ばされ、髪をなびかせて少女は舞っていた。仰け反る肢体。髪に隠れて表情は見えない。
 鋭く放たれたハルの【遠当て】が、その華奢な躯を貫いて――瞳の真紅のような血が、空を染めるが如く散った。

 彼女の生命が、途切れた『未来』――それは決して、避けられぬもの。


[短編掲載中]