何も言えなかった。
 彼女の笑みが何を示すのか、心底にある気持ちを汲み取ることは不可能で。それ以上に、彼女の口から出てきた、答えではない――質問に、返答ができないままになってしまったから。
「それはリイヤが、リイヤの世界にいる恋人を想う気持ちと、同じ意味ってことか?」
 言葉が出てこなかった。見つめたまま、何も返せなかった。清涼な瞳に、まるで総てを見透かされていた。
 俺は朝香を好き?
 ミウカに問い掛けたのは恋愛の――愛情の意味。ミウカが自分に問うたのも、その意味だ。
 だからこそ、答えられなかった。そうだと肯定するのが、当然である筈なのに。
 恋愛感情を朝香に抱いていたことがあるのだろうか。好きだったのか。
 もう一人の自分が内から問い掛けてきた。――答えられなかった。


◇◇◇


 ナラダに戻って翌日には、元通りの日常に埋もれていた。
 コウキもタキもミウカもシェファーナも、それぞれが役目を持ってこの世界を生きている。数日経過し忙殺されている皆を余所に、莉哉は一日の大半を城内の書蔵庫で過ごしていた。巨大な図書館のようなその場所、利用者は城に駐在する学者などが大半で、だが訪れるのは少数だった。
 フィーゴスで散々文献を読み漁り、根気よくシェファーナに文字を教えてもらった甲斐あって、大概の文書は読めるようになっていた。
 この日も朝からずっと詰めっぱなしの状態で、明かりを灯さなければ見えない時間帯になって初めて、朝食以降何も口にしていないことに気がついた。またシェファーナに怒られるな、と内心苦笑する。
 深く静かに息を吐き出し、辺りを見渡した。人気は全くといっていいほど無い。毎日通っているのは莉哉くらいなものだった。
 閲覧所に当てられてる箇所は吹き抜けになっていて、振り仰げば天井が遠くに見えた。そこを囲むようにして三階に分かれて、四方を書架がびっしりと並べられている。棚に詰め込まれた文献を片っ端から読もうとするなら、一生掛かっても無理だろう。狙いを定めて抜粋している莉哉でさえ、時間がどれだけあっても足りないくらいだった。
 手応えはない。文字がチカチカと巡るだけ。無駄な時間を過ごしているとは思いたくないのだが、こうも何も出てこないとなると、ふとした瞬間に気持ちが挫けそうになる。
 一気に襲ってきた疲労感。目頭を指で押え俯いた時、静寂な空気に足音が響いた。そちらを見遣ると、質素な色合いの着衣を身に纏った細身の女性が近づいてきていた。
 少しの距離をとって立ち止まり、躊躇いがちに莉哉の名を呼んだ。深々とお辞儀する。
 この世界にきてから、自分の知らない相手が自分を知っていることに、もう慣れていた。毎度がそうなので慣らされたというべきか。
 若干かすんでいた視界をしばたたかせてクリアにし「座ったら?」と向かいの席を指す。再び頭を下げてから物音が鳴らない動きで着座した。
「私は、ターニアと申します」
「確か、占者だったよな?」
 何度か聞いたことのある名だ。ターニアはコクリと頷いて、細い指をぎゅっと組み合わせた。莉哉からは見えない、テーブルの下で。
 対照的に莉哉は気持ちが高揚していた。だから彼女のそんな様子には全く気づいていなかった。
 こうして書蔵庫に詰めて調べているのは、ミウカとは異なった目的からだった。彼女は莉哉を還す方法を捜していた。莉哉は、『波紋を投げ掛ける者』の意味を捜している。その役割、その必要性を。
 だが全くと言っていいほど、関連する文献は見つからなかった。苛々ばかりが募る毎日で。
 占者であれば、知りえない情報を欠片でも持っている可能性はある。この機会を逃す手はない。
 気持ちが上擦っていて、相手の言を持つという気遣いすら失念してしまう。
「…俺さ、向こうの世界にいた時、『声』を聞いたんだ」
「声、ですか…?」
「名指しではない。けど、誰かに向かって懇願する声だ。そしてそれは、俺にしか聞こえなかった。……あれは、ミウカだった。…そうだよな?」
 たまに、微かに、不意に、不定期に、紡がれ届いた言葉。願い。懇願。
 数秒逡巡し、ターニアは頷いた。
「毎日のように祈りを捧げていたのです。ですがまさか、その声が届いているなどとは…」
「俺はそれに応じ、召喚された」
 弾かれたように顔を上げたターニアに慌てて弁解する。彼女の口が最初の単語を発する前に遮った。
「誤解しないでほしい。…誰かを責めるつもりはないんだ。ミウカが責任を感じる必要もない。こうして現実に起こってしまったことを、今更とやかく言うつもりもない。ただ俺は、知りたいだけなんだ」
 逸る気持ちを抑えながら話すのは予想外に骨が折れる。けれどなるべく、落ち着いた声色を作った。
「シア、リーテの史実を見た」
「存じております。お二人が流砂に呑み込まれた時、私にもそれと感じておりました」
 口火を切ったことで流砂に呑まれ見た情景が鮮明に蘇ってきた。その時感じた想いも。思考がふと脱線する。思い浮かんだことが無意識について出ていた。
「貴女は…」
 口にして、途端に莉哉の躊躇いを悟ったターニアは先を促した。何を言わんとしているか、それとなく感じた上で。
 たっぷり数秒は見つめ合って、続けた。
「貴女は、ミウカを裏切らないよな?」
 言葉に詰まり、困惑顔を露にするものだから莉哉の方が慌ててしまった。初対面なのにあまりに失礼だ。
「悪いっ。…あの、悪気はないんだ。ただ、ちょっと…ショックがでかかったというか…」
 しどろもどろになる。人前で慌てふためくなど、元の世界では考えられないことだった。
「いえ、いいのです。気になさらないで下さい」
 肩を落として再度謝る莉哉に念を押して「本当に気にしないで下さい」と繰り返した。
 話を戻すけど、と前置きしてコホンと咳払いすると、ぐっとトーンを落とした。
「あれは…何年前のことなんだ?」
「……千年前、と伝えられております」
 時の数を聞いた瞬間、あの夜、川のほとりで諒と並んで天の川を仰ぎ、話したことを思い出していた。
 人の想いが繋いだ“光の橋”――千年の時を掛けて造られた橋。
 この召喚に、意味がないわけはない。自分にしか出来ない『何か』がある筈だ。
 このラスタールを、赤銅の双子の【呪い】を、救えるかもしれない者。
 不確かな存在にして、唯一の存在――『波紋を投げ掛ける者』
「波紋を投げ掛ける、とは?…俺はそう呼ばれているんだよな?」
 度々耳にした『波紋を投げ掛ける者』という単語。ハルのおかげでそれが、莉哉自身に向けられているのだと理解した。ラコスが莉哉を敬うのは『波紋を投げ掛ける者』がナラダを救う者として言い伝えられているからだ。
 意味があるから、ここにいる。莉哉が存在する。そう呼ばれるのには、意義があるからだ。
 何をすべきか、どう動くべきか、やっと道筋を見つけられる。不安であり、同時に心が弾んだ。
「俺に、なにが出来る」
 莉哉の心情を読み取った上で、落ち着き払った声でターニアはゆっくりと言葉を綴った。切なげな顔つきで。
「貴方様がこの世界に召喚されたことですでに、波及しております。目に見えぬ形で、確実にそれは広がっているのです」
 意味を飲み下すまでに、時間を要した。期待していた言葉ではないのだと理解するまで、じっと相手の目を見つめて。ようやと口にした声は、微かに震えていた。
「……役目は…終わりということか?」
「そうなります」
 にべもなく、占者は言い放つ。蝋燭の頼りない炎が風もないのに揺れ、じじっと音を立てた。ろうの焦げた匂いが鼻をつく。
 鈍器どころか、巨大なハンマーで殴られたような衝撃だった。ずぶずぶと床に埋め込まれていく。
 言葉を捜して思い付く前に口を開くも、当然何も言うことが出来ず、馬鹿みたいに開いた唇をパカンと閉じた。
 声も何も出てはこない。紡げる言葉など見つからない。強力な脱力感に襲われた。落胆の色を露わに、莉哉は無言で書蔵庫を出て行った。
 その背中にはっきりと、陰を落として。

 莉哉が出ていった扉が閉ざされて巻き起こった風に、蝋燭の炎がゆらゆらと揺れた。頼りなく照らされてる巨大な空洞の中、見送ったターニアは深い溜息を吐いた。
「……悪かった…」
 明かりの届かない陰の部分から呟くような声。重い足取りで明かりの届く範囲へと姿を現した声の主へと、ターニアは沈痛な面持ちのまま顔を向けた。
「あれで…よろしかったのですか?」
「いいんだ。…また、嘘を吐かせてしまった。すまない」
 申し訳なさそうに口を開くミウカに首を振ってみせる。
「謝らないで下さい。八年前も、私は…それだけの罪を犯したのです…」
 八年前、あの時も吐かなければならなかった捻じ曲げた現実。嘘を真実として伝えなければいけなかった。
 だとしても、やはり恨まずにはいられなかった。心底恨んだからこそ、ミウカは表立って責めなかった。楽になど、させたくなかったから。
 そのことに、かつて燻ぶり続けた過去の、この裏の思いにターニアは気がついていただろうか。
 今となれば当時の彼女の葛藤を容易に想像出来るのだけれど。
「仕方なかった。あの時、命に背けばターニアの生命がなかったのだから」
 そう本心から言える。――だがそれでも、思ってしまう。
 離れ離れになるのが動かし難い宿命だったというのなら、相手の存在など知らずに生きたかった。傍にあるのが当たり前になってしまってからでは、どれだけ身を引き裂かれる想いを残すというのか、単純明快だというのに。
「申し訳ありません」ターニアは呟き俯いた。
 ふる、と首を振り「過ぎたことだ。気にしないでくれ」と応えた。このことを今更掘り返したところで何が変わるわけではない。今考えるべきはこれからのこと。
 知ってしまった事実。――波紋を投げ掛けた者の末路。
 莉哉は何としても元の世界に還らせなければいけない。即座にそう決断した。
 引き留め続ける権利などない。まして、この世界で身を滅ぼすかもしれない宿命を、負わせるわけにはいかなかった。
「結局…。また『無』に還るしかないのかもしれないな」
 他に路を捜していないわけではない。問題を先延ばしにして、いつかまた事態が発生した時代に生きる赤銅に任せっきりにするつもりもない。できることなら、自分の代で断ち切りたい。
 だがそれが叶わないとしたら。路が見つからないままに【復活】があるようであれば、不本意であってもその方法をとるしかない。
 現在を生きる人々を護る為に、シア・リーテと同じ路を辿る他ない。


[短編掲載中]