「そうはいくかよ!」
 ぐん、と後方に引っ張られ、スティアは勢いのまま大きく空振った。目標を無くして数歩たたらを踏む。
 ミウカは自分の腕を掴む莉哉を振り仰ぐ。光加減で翠色が見えた双眸とかち合って、直後怒声を落とした。
「ふざけるな!同じこと何度もしてんじゃねえよ!」
 呆気にとられ、だがミウカを掴んでいる莉哉の手が震えていることに気づき、表情を歪ませた。
「よ、くも…!コウキ様を…返してっ!」
 初撃をかわされスティアは再び短剣を振り上げた。叱りつけていた莉哉の反応が遅れ、ミウカを庇いに動いて、刃物が目前に迫った。仰け反らした頬を微かに斬り付ける。
 タキの手が間に合っていなければ、ザックリいっていたであろう勢いだった。
 頬を一筋の血が流れるのも構わずに、集結している群集に向かい莉哉は声を張り上げた。ラコスを呼ぶ。
 タキと莉哉がいては思うようにはならない。そして、二度もやろうとしたことで――たとえそれが失敗に終わったとしても――スティアの張りつめていた精神は折れてしまった。
 がっくりとうな垂れたスティアをラコスに託し、三人は改めてグラザンの方へと躯を向けた。
「頼みがある」
 一歩分だけ前に出ていたミウカは振り返らずに背後へ声を掛けた。莉哉もタキも、黙って次を待つ。
「二人はここにいてくれ。自分だけ、行かせてくれないか」
 タキはあからさまに溜息を吐く。想像通りの台詞に苦笑が浮かんだ。
「それは伺いじゃなくて宣言なんだろ?…いいけど、間合いを今以上離さないからね」
「俺も、引かないよ」
 顔を横に向けて、口端だけで少女は笑った。
「感謝する」
 正面を向き直り、確かめるような足取りで進んでいった。

「俺が憎いだろう?コウキを殺した張本人なのだから」
 ハルは腕を組んだ格好のまま、剣先をくるくると廻し弄ぶ。挑発的な笑みを貼り付け、一歩間合いを詰めた。そんなハルを見据えて、ミウカは眉ひとつ動かさず数十センチの距離まで歩を進めた。
 ピタリと立ち止まると目の前の顔を見上げる。
 幾度も、幾度も、手の届くところまで近づいても、一番遠かった存在。
 【赤銅】の宿命さえなければ、能力が開花しなければ、【呪い】が穿たれなければ…考えても仕方ないことに、ずっと思考は支配され続けてきた。だから、
 もう、終わりにしよう。
 少女は閉じていた目蓋を、ゆっくりと上げた。取り囲む緊張感も、喧騒も、何も感じない。聞こえない。今ここにいるのは、ハルと自分だけ。切り取られた空間。二人だけの、時間。
 ミウカは静かに口を開いた。
「ハルは、どうしたい?」
「……」
「…どうしたいんだ?」
 征服の為だけなら、ミウカの能力を手に入れるだけで済んだ。力づくで拘束することも可能だった。だが違うのだ。力がほしいのではない。
 ハルが望んだのは、ミウカと過ごしていける時間。誰にも邪魔されず、当たり前のささやかな幸せだけ。
 【呪い】も宿命も、特別な力も…要らない.
 それと引き換えに出来るのなら――望んだ温もりと歩んでいけるのなら――他を失くしてもいい。
 望んだ相手と寸分違わない、願い。
 平静を装っていても、唐突なミウカの問い掛けにハルが困惑しているのが伝わってきた。ミウカが何を言わんとしているのか、見えるわけでもないのにハルは同じ色の瞳を凝視した。
「ハル。二人で生きよう。…一緒に、生きよう」
 ミウカの手がハルの胸にそっと触れた。少女の指先に兄の鼓動が伝わってくる。
 ずっと言葉にしたくて叶わなかった。口にしてはいけなかった、言葉。ハルの瞳が、揺れた。
 ミウカがその一言を伝えるのに、どれだけの勇気を使ったか。最初で最後の問い掛け。これで、進むべき路は決まるのだ。

 莉哉は静かに少女の背中を見守った。その表情を窺い知ることは出来なくても、彼女を覆う空気でどんな顔をしているのか察せられた。
 穏やかな顔をしているのだろう。なんのわだかまりもない顔を。天の星を見上げ話をした時のような、そよ風に吹かれて温柔な時間を過ごした時のような。

「ハルが受け入れてくれるのなら、ここを棄てても構わない」
 それは、宣言。それは、懇願。
「ハル、あたしは誰からも離れてもいい。…この国に、二度と帰れなくてもいい」
「なにを…」
 困惑するハルを遮って、ミウカは続けた。気持ちは昂ぶる。
 思い出す。総てを。そして、紡ぐ。彼女が望むものの為に、選んだ路を。
「だけどっ、ハルと離れるのは、もうイヤだ。…昔のように、戻ることはできないのかっ!?」
 胸に当てていた手を首の後ろへと廻し、抱きついた。こんなにも、近い。
「ハル。…愛してる。ずっと、一緒にいたいよ…」
 もう、この温もりを失いたくない。
 ハルを抱くミウカの腕に力がこもる。逡巡し、戸惑い、心が揺れた。…表情が、解けた。
 赤銅の少年の腕が動く。その手に捕まえた温もりを、しかと抱く為に。
 背中に廻ったハルの腕が少女を包み込もうとしたその時、揺るがす衝撃が二人に落ちた。
 重なり合った双子。確かに心が通った瞬間。

 太く強靭な一本の矢が、貫いていた。


[短編掲載中]