意識下にあって、莉哉は不思議な感覚に覆われていた。無重力に浮上する。あたたかく、優しく、ゆったりと包まれている。
 まるでミウカの紡ぐ【保護壁】の中にいるようだった。
「おい」
 フィルター越しに聞こえる響きで低い声が耳に届いた。
「リイヤ。目を開けろ」
 この話し方を知っている。常に従容的で自信に満ちて、あまねく惹きつけ魅了する者。
 慌てて目蓋を上げた。真っ先に飛び込んできたのは、視界いっぱいを埋め尽くす流星群。
「う、わ…」
 声を落とした者の存在を忘れ、降り注ぐ星の雨に目を奪われる。天の川の星々が一気に流れる量よりも多い。ともすれば、視界が真っ白に埋まるほどに。
 初めて合宿所に行き、諒にとっておきの場所だと教えられたあの川のほとりで見た時も思わず感嘆の声を洩らしたものだったが、比べものにならない。
「リイヤ様…」
 今度は躊躇いがちに、女性の声が響いた。
 幾度か莉哉に囁きかけた、故人の声だ。彼を導き、運命をまっとうするべく道標を拓いた人。
 視線を移す。想像していた通りの人物がいた。寄り添って立つ二つの影。澄み切った碧眼は光を失ってはいなかった。強く真っ直ぐ莉哉に向けられている。
 率直に胸に押し寄せたのは、安堵感だった。二人は再び出逢うことが出来たのだ。
「なにを笑っている?」
 コウキの怪訝そうな顔つきに、よほど頬が緩んでいたらしいと気づかされ、きゅっと口を引き締めた。
「……なんでもない。…ここは?」
 まあいい、と息を吐きコウキは莉哉の背後を指さした。依然周りでは無数の星が流れている。なにがあるんだ?と疑問を口にすることなく素直に従った。つっかからなかったのは召喚以降初めてだな、なんて内心で嘲笑しながら。
 だが次の瞬間。そんな笑いすら消え去った。
 ぽっかりと開いた円形の空隙。展開される光景に釘付けになる。
 タキに支えられ、制止を振り切ろうともがく少女。莉哉に向かって叫び、声は聞こえずとも心情を伴って伝達する。
 ミウカ…!
 声に出して呼べなかった。声にしてしまえば駆け寄りたくなってしまう。今すぐにでも戻りたいと思ってしまう。後悔してしまうから。
 拳を強く握り締めた。――これは自分が選んだ路だ。
 だけど、心が締め付けられた。
 二人に背を向けたままつと顔を上げる。ばれないよう小さく深呼吸をすると声色を作った。
「あー、くそっ。今だけタキになりてぇ」
 せいぜいの強がりに気づいているのか、コウキは笑いを噛み殺す。スラが袖口を引っ張り諌めた。莉哉は背後の様子を敏感に悟り、羞恥心が熱とともに顔で弾けた。
「…んだよっ」
 虚勢を精一杯張って莉哉は振り返った。向き合うコウキにすでに揶揄する赴きは微塵もなく、真摯な双眸があるだけだった。
「こちらにお前の居場所はない。とっとと戻るべき場所へ還れ」
 撥ね付ける、突き放した言い方。そこには常にあった冷淡な温度はなく、あたたかささえ感じられた。
 すぐには、意味を理解出来ずにいた。唖然とコウキを見上げている内に足元が揺らぐ。視界が揺らぐ。流星群が薄れて、コウキとスラが薄れて。
 声が出ない。聞きたいことが沢山あるというのに。手を伸ばしても遠くなっていく。
 莉哉に残されたのは、二人の微笑だった。


◇◇◇


 音が、頭に直接響く。
 彼は知っていた。この音を。金属の擦り合わせたような、甲高い電子音のような。誰かの、悲鳴のような音。悲痛な願いを叫ぶ声を。

 ミウカの望みを叶える為に、俺は呼ばれた――

 ――お願いだから、もう泣かないで。
 ――お願いだから、笑っていてほしい。
 ――悲しまないで、君は独りじゃない。

 ――彼女を救いたかった。それが望みだった…。

 風を感じた。陽の暖かさも、ざわざわとした喧騒も。そこにある総てが、五感を刺激する。ここは不思議な空間じゃない。躯は浮かんでいない。背中にはっきりと大地の感触があたる。
 呼吸をして鼓動を刻む、生命を繋ぐ空間。
 ゆっくりと、ひどくゆっくりと目蓋を開けた。空が見えた。薄い雲が広がっている。
 重力に任せるままに首を横へ向けると、地に膝をつけタキに支えられている少女が見えた。不揃いの毛先が肩にあたって跳ねている。俯いた顔は髪に隠れて見えなかった。細い指が、華奢な肩が震えていた。莉哉に背を向けているタキはミウカをしかと抱きしめている。
 もう叫んでいない。タキの腕につっぷして、くぐもった声が漏れるだけ。
 ミウカの、声だ。
 じんわりと欣幸が染み込んでくる。ここは、現実だ。
 戻ってこれた…。
「…って。へへっ…」
 込み上げる笑いを抑えきれず莉哉の唇から零れた。
 一斉に視線が集中したのは言うまでもなく。そんな勢いが自身に向けられても、それさえも心地いいと感じてしまう。口元を緩め、莉哉は上半身を起こした。
「やっ…た。ミウカが、俺の為に泣いてる」
 長い長い眠りから醒めたようで、頭の頂から足先までひどい倦怠感に襲われていた。巧く躯を動かすことも言葉を発することも難しかったが、何とか笑顔を作ることには成功した。というより、自然と顔が綻んでしまう。
「なん、で。さっきまで確かに…」
 驚愕に目を見開くタキの顔は稀覯ものだった。常に飄々と人の一歩も二歩も先を達観している彼が、平静を揺さぶられた瞬間だった。
 どん、と小さな衝撃が莉哉のからかい顔を揺らした。そのまま背後に傾ぎそうになって、かろうじて手をつき止まる。鼻をくすぐる花の香り。短くなって、尚いっそう美しく輝く、柔らかな細髪が彼の頬に触れた。肩に埋もれる顔。首に廻した腕。しがみつく指先はおかしいくらいに震えていた。
 小さく漏れる嗚咽は莉哉の肩に熱を上昇させた。
 少女の呟きは、向けられた当人にも聞き取りづらいほど掠れていて。だけど心が直接流れ込む。
「…うん」
 言葉の断片を拾って頷いた。少女はにべもない言葉を繰り返す。一番に伝えたいことではないけれど、もっと伝えたいことはあるのだけれど。
「…ばかやろう」
「うん。ごめん」
「泣いてなど、いないからな」
「…ん」
「……リイヤ…」
 無事で良かった。戻ってくれて嬉しい。…救ってくれて、ありがとう。――声にしなくても彼には伝わっていたから。
「うん。…ただいま。ごめんな」


[短編掲載中]