「ハル!?」
 激しい痛み。【呪い】が穿たれた時と同じ痛み。だが今は、それが剥がされた。ハルの手に暴れ廻る漆黒の紋様。しかとその手に掴まれ、ミウカへ戻ろうともがき狂う。
 とん、と肩を押され後方へ弾かれたミウカの瞳に、ハルがその漆黒を己の紋様へ重ねたのが映った。
 体勢を立て直し、駆け寄ろうとして、指先ひとつも動かせない拘束に愕然とする。
 ハルの目線が動いてそちらを見るようにと促していた。ミウカの目に飛び込んできたのは、地上の爪痕。魔獣の姿はなく、地を焦がし燻る瘴霧だけが残されていた。傍らに佇むタキの銀髪が、風に吹かれていた。そして、
「…リ、イヤ?」
 横たわり生気を全く感じさせない。傷は無く、眠っているようにも見えるのだが…。
「彼は、放ったのだ。…集結させ、波紋を。この世界を救う為に」
「そんな…」
 今なら、この【呪い】を完全に消滅できる。宿命を背負い続けた者にだから判ること。
 震駭する妹に向け、ハルは言葉を投げ掛けた。
「ミウカ、戻れ。これは…俺がもらってく」
 自身の胸を指し、ハルは微笑んだ。
「さっきから…なにを、言ってる」
 本当は判っていた。今しかないのだと。この時をなくしては、二度はないのだと。
 ――ハルが総てを背負い、消えようとしているのだと。
「い…やだ!独りにしないで!離れたくないっ」
 痛切な叫びにハルは笑みを崩さない。静かに口を開いた。
「最期くらい、兄でいさせてくれ」
「……ハルッ…!!」
「お前は自分の為に生きろ。誰の為でもなく、自身の幸せの為に」




「ハ、ル…ッ!」
 大きく躯をしならせ、ミウカは覚醒した。呼び掛け続けたタキが支える腕の中で。
 碧眼と蒼穹が見えた。複雑に表情を歪ませるタキの手が少女を引き寄せる。
「ミュウ!…良かった、…良か…った」
 タキの声は、涙に滲んでいた。
 まだミウカの意識はぼやけていて、頭の中は靄がかかっている。それでも徐々に明瞭になっていく記憶を辿り、目を見開いた。
「タキ!リイヤは!?」
 がばと躯を起こしたミウカの瞳に、莉哉の姿が飛び込んできた。先程と変わらず、横たわったまま。立ち上がり駆け出そうとして、膝から力が抜け落ちた。
「ミュウッ…!」
 それでも動こうともがくミウカの力は、タキの制止を振り切らんばかりの勢いだった。片腕だけになった細い躯で、必死に振り払おうとする。
 砂嵐にもがれ飛ばされたミウカの腕は消滅していた。
「ばかやろう!なにやってんだよっ!?目を開けろっ!傍に、いると言ってたじゃないか!……なんなんだ、これは」
「ミュウ。もういい。…見るな」
「どうして。…どうしてみんな、あたしの周りからいなくなってしまう…」
 母様も、スラ姉も、コウキも。…ハルさえも…。
「あたしはっ…」
 独りになりたくないのに。置いていかないで…。
「独りじゃ、ないだろう?俺はいつでもお前の傍にいる。…これからは、ずっと…傍にいる」
「ハ、ル?」
 直接少女の耳に響いた声。ミウカにしか届かない声。
 それは上から聞こえるようで、耳元で囁かれているようで、ミウカは視線を巡らせ姿を捜した。
 少女を支えるタキの腕が少しだけ緩む。突然兄の名を呼び捜し求める少女の動向を見守った。
「ハルッ!どこ!?」
「奪い続けた俺から、最初で最期の贈り物だ」
 少女の目に映る。何のわだかまりも楔もない、解き放たれた兄の姿が。
 差し伸べられた手をとり、抱きしめられた温もりに身を任せた。
 赤銅の光が少女を包む。清らかで柔らかな光が薄くなり、大気に溶け、消えた。
 少女の失われた腕を復活させて。
 目蓋を持ち上げた時、現実に戻った少女は自身に戻された腕を見つめ、顔を歪めた。
 奪ってばかりじゃない。ハルからもらったものは、数え切れない。
「ハル…」
 少女はきゅっと唇を引き結んだ。




 莉哉の《翠眼》が最後に見たのは、彼の中から発生した光が、漆黒の塊となったゲリューオンに向かっていった光景だった。それは確かに魔獣を貫き、その肢体から黒いものが吐き出されたところまで。
 そこでぷつりと、意識は途切れた。
 再び戻ってきた意識。思い出す感覚。あの時、光と共にあった感覚。
 ――彼の中の『何か』が抜けていった。

 死ぬって、こんなんなのか…。
 満たされた気分だった。恐怖はない。後悔もない。何もかもが、満たされていた。
 護れたんだ。彼女の笑顔を、彼女が慈しむものを。
 彼女自身を――


[短編掲載中]