あの日誓った想いは今も、この胸に刻まれている。たとえ路が違われたとしても、それは決して変わらない…。
 不変で、永遠だった。



 ラスタールには三大陸が存在する。その内の一つ、カルダナール大陸の北に位置する国には、遥か昔より劣悪な環境に耐え忍び、生き永らえる人々がいた。
 大陸のほぼ中央に広大な砂漠があり、不帰の砂漠と呼ばれるそこは一度踏み入れたら最期、生還する者は一人としていなかった。天地ほども違う好環境の南へ渡るには他に道がなく、断念せざるを得なかった。
 人々の心が荒涼とするには、充分すぎる事由だった。
 そんな中、一筋の光として投げ掛けられたのは人間として魂を売る行為だった。そうしなければ、それに縋らなければ、国はとうに滅びていた。
 そうして生き残ってきた国が、古より【魔】を崇め続けてきた武装国――クエンだった。
 信じるのは己のみ。力こそが生き残る手段。
 実力を重きとし、結成されたグラザン隊を誰もが恐れた。国を護るという名目の基に集められた先鋭達の内部では常にいざこざが絶えず、立身出世を虎視眈々と狙う烏合の集であった。彼らが護るのは国民と国ではなく、城のみ…とりわけ皇帝のみだと囁かれていた。だがそこに忠誠心は存在しない。あるのは我欲のみ。
 現隊長は無情にして冷酷。歴代隊長の実力を凌駕する力量を持っていた。
 その名を、ハル。
 齢十三にしてその地位に登りつめて、二年が経過していた。


 がきと組み合わさった刃。数秒の睨み合いの後、絶妙のタイミングで互いに後ろへ飛び退いた。赤銅の瞳に対峙していた影は、いまだ気合いを剥き出しにする対戦相手に、ふと態勢を解いた。
「なんだ、ザドー。やめるのか」
 まだ低く奏でることのない、十五そのものの少年らしいトーンが投げられる。
「時間です。これから会議でしょう」
「…ちっ。覚えていたか」
「当然です。今日こそは逃げずに出席いただきますよ」
「お前が出ていれば充分だろう。あとで報告してくれ。ああいう場は俺には向いてない」
「そんな言い訳は通用しませんが?皆へ示しが付きません」
「面倒この上ない」
 むっと眉を寄せ、乱暴に汗を拭った。ザドーはあからさまに溜息を吐いて、愚痴る音量でぼそりと一言。
「クエンに来た当初のままですね。まるで子供だ」
 相手に聞こえるよう、わざとに辟易してみせる。当然ハルはカチンとくるわけで。
「…もう一遍言ってみろ」
「なんでもありませんよ。さ、参りましょう」 
 聞く耳持たぬとばかりにさっさと身を翻し、出口へ向かうザドーの背中を睨みつけながら(この狸め…!)と悪態を吐く。
 ナラダを離れて八年。彼は十五歳になっていた。
 それまでの生活からは想像もつかなかった日々を遣り過ごしてきた。己に課した『誓い』を貫く為だけに、彼は自身を生かし続けた。

 八年前。まだ七歳の幼き少年は、能力の開花と同時に、運命の激流に呑まれた。


◇◇◇


 ひどく、重い。
 覚醒はまず、そんな感覚で始まった。

 ナラダ国城内で突然襲った熱、痛み。
 母親が大切にしていた花壇を暴風雨から護る為の材料を手に、妹の元へと駆けつける途中だった。急激な胸の痛みに動くことも叶わず、ただうずくまるしかなかった。自身の躯から意志に関係なく発せられた圧。あれは何だったのか…。
 暗転した意識の中から、何度か浮上したのを覚えている。うっすらと開けた目蓋、その先に見えたのは、見慣れた城の天井。自室ではないどこかの部屋で、一人きりで眠らされていた。

 完全に眠りからの覚醒をした時には、見知らぬ場所にいた。そして思考を巡らせるより前に、掘り起こされた記憶の断片と照合して、心臓が鼓動を刻んでいることに純粋に驚いた。
 思い出すのは運ばれる感覚。どこか深く深く落ちていく感覚。貫く衝撃と共に落下は停止した。 それから背中に堅い感触。纏わりつく冷たい空気。目蓋の裏に散った火花。薄く開けた視界に映ったのは、切り取られた空。そびえる岩肌。
 遠のく意識の中で思った。ああ、俺はここで死ぬのかと。

 自分がどこにいるのか、何故生かされているのか。見知らぬ部屋。匂い。感触。どこも束縛されていないのに指先を動かすのも辛かった。頭が、躯が、鉛のように重たい。
 どれだけの日数が経過した後なのか、ナラダではないここに、どれくらい寝かされているのか、時間の感覚はなかった。
 自分の置かれている状況よりも、真っ先に不安を煽ったのは同じ色を宿した大切な妹。近くにその存在がないだけで、顔を見ていないだけで、こんなにも心許無い。だが同時に、こんな酷烈な状況にその存在がないことに安堵した。
 一体何が起こったというのか、答えとなるものは何も無い。
 それから数日、眠りと目覚めを不定期に繰り返し、全身の重量感は徐々に抜けていった。時間の感覚は完膚なきまでに狂っていて、漠然とした焦りだけが支配する。
 そうして回復していったある日、扉の向こうに人の気配をはっきりと感じた。
 少年が回復に向かうには誰かの看病があったおかげなのだが、一度とて姿を確認したことはない。少年の意識がこちらにしっかりとない時を、その『誰か』は故意に時機を見計らっていた。つまり少年の意識が追い遣られている間にしか部屋に入ってきていない。
 敵とも味方とも不分明な状況下に置いて、信じられるのは己の勘のみ。
 少年はじっと耐え忍んだ。自身の躯が思い通りに回復するまで、じっと。
 扉の向こうにいるのが誰であれ、姿を見せぬようにするというのなら、こちらも扉が閉ざされている間にのみ身体的機能回復訓練を独自に行なっていた。そして意識が覚醒していようとも『誰か』がいる時には完璧な眠りを演じた。
 時機は到来した。
 目蓋を閉じ、呼気を規則的に紡ぐ。
 なるべく音を立てぬよう滑り込んできた人物は、テーブルに盆を乗せた。食事の匂いが部屋を満たす。毎回同じ順序だった。手をつけられることのない食事を用意し、慣れた手つきで包帯を替えていく。
 いたる箇所が包帯で巻き尽くされていただろう躯も、このところはその範囲を狭めている。包帯を外し傷口を清め、薬を塗り直し真新しい包帯を巻く。今日は二箇所、それをする必要がなくなった。最後に顔にあてられた布を取り、そこは薬をつけるだけで済んだ。
 気配が少しだけ遠くなる。テーブルの上で何やら作業をしているらしい。
 少年は目蓋を薄く開け、背中が向いていることを確認する。濃淡を許さない漆黒の着衣。不揃いに切られた髪を無造作に縛り、短い毛先が肩にあたって跳ねていた。
 衣擦れの音さえも立てないよう慎重に起き上がり、床に足を下ろした。動けぬ間、鍛錬の休止を余儀なくされたとはいえ、数日の内に訓練したことでかなりの勘は取り戻していると自負していた。
 生来より絡め囚われていた『宿命』のおかげというべきか、生を受けて七年、日々が修行だ。培ってきた体術並びに剣術は伊達ではない。とはいえ、今は武器となるものが何もないので頼れるのは躯一つということになるのだが。
 心の中で深呼吸する。一発勝負だ。外せない。
 恩を仇で返すのは気が引けたが、他に優先すべきことがある。
 く、と踏み込む直前の気を集中させた時だった。
「それで、」
 やけに静かな口調だった。見透かし、悟った声色。心臓が一気に跳ね上がり、標的である背を凝視する。声は確かに目の前の人物から発せられたものだった。
 一瞬で様々な思案をし、だが相手が振り向くまでに得策を掴み取ることが不可能だった。
「私を倒して、出てゆきますか?」
 咄嗟に防御の姿勢をとる。けれど相手が取った行動は軽く息を吐き、肩を竦めただけだった。無防備極まりない立ち姿に、警戒も攻撃の意図も見えない。人懐っこい笑顔を見せるだけで。
「そう警戒しないで下さい。といいますか、世話をしてもらってその態度はいかがなものかと」
 そこから教育しなければなりませんね、と呟く。気を悪くした様子はなく、兄が弟を諭すような口調だった。実際、この攻撃態勢を崩さない少年より七、八年上というところだろう。
 ザドーと名乗り、優雅な動作で腰を折った。
 喉から唸り声を上げそうな勢いで睨みつける少年に、依然笑みを崩さない。
「声、出ませんか?ハル殿」
 困惑気味だった赤銅色の瞳が一際大きく揺らめいた。間に、異様な沈黙が堕ちた。


 ハルが己の居場所を無くした事実を把握するのに、時間はそうかからなかった。
 かつて【赤銅の宿命】を担う者として敬される立場にいた彼は、能力の目覚めと共に開花した【呪い】を背負い、葬られる定めにあった。ナラダは彼を『排除』したのだ。


[短編掲載中]