自覚と共に根付いた感情の名を何と呼べばよかったのか。

 還る場所を失い、大切なものを失い、奥底から湧き上がるモノは日毎肥大化していく。止める気はない。膨らめばいいとさえ思う。
 あんな国などこちらから棄ててやると。
 だが一つだけ、取り戻したいものがあった。自分なき後、彼女はどうしているのかと。酷い目に遭わされてはいないだろうかと。
 その焦燥は加速を呼び、やがて確たる『誓い』になる。
 彼女を取り戻し、二人が安穏と暮らせる世界を創る。自分にとって邪魔なものは塵一つ残さず滅ぼし、必ずやカルダナール全土を、否、ラスタールを手に入れる。
 内で蠢き続ける【魔】の力を我が物として、必ずや…!
 目的を見出した時、囁きが始まった。内なる邪悪なモノ――【魔】の囁き。甘く魅力的な取引。

『我を解放せよ』
『代償は、貴様が望む運命』
『消し去る。我が総てを取り除く。忌まわしき【赤銅】を』
『楔なき自由を、貴様にくれてやる』

 宿命が煩わしかった。憎んでいた。それさえなければ、自分はまだ隣にいたのだ。引き裂かれることはなかったのだ。
 ――総てはこの【赤銅】が引き起こした。総ての、元凶。

 囁きは機宜を選ばず日常に割り込んでくる。心に沁みる。犯されていく。
 揺らぐ揺らぐ、精神の水面。
 だが支配されるのではない。力を呑み込み、自在に操るのはこの自分だ。思い通りに動かすのは、他でもないこの自分。
 【魔】が己に見せた史実など、取るに足らない戯弄だ。
 必要なのは今を生きる生命。真実だけが枢要だった。
 望むものを手に入れる為に、手段など選ばない。




 切り棄てられて三年。十歳になった少年は偽る術を身につけていた。
 ナラダに葬られた後、拾われ助けてもらったこの国に対してさえ、欺き操る術を。
 クエン国がハルに望むもの。思惑。ハルはそれを逆手に取り、皇帝をそれと判らぬままに手玉に取っていた。欲にまみれ、達見する目を持たぬ皇帝の目論見を見破ることなど容易くて。
 皇帝は謂う。ナラダを滅ぼせと。南の地を我の手にと。
 ハルは応える。恩は必ずや返しますと。貴方の意のままに、世界を手に入れましょうと。
 ――腹の奥底にある真意など、皇帝に読み取れるわけはなく。従順なまでに忠誠を誓っていた。表面だけは。

 無駄に広い空間だ、とハルはここへ足を踏み入れる度に思う。
 片膝をつき深く頭を垂れる。形ばかりの敬意を示し、王座に座る皇帝の言葉を待った。
 クエンでは、極悪を極める環境によって作物はおろか、人造物でさえ乏しい状況であった。城門の外へ一歩出ただけでその差は歴然と目に映る。それでも己のみは豊かであろうとする皇帝の気随な心持ちを、ハルは心底軽蔑していた。
「我の元にきて何年になる?」
 どこか親しみのある声色だった。常のぎすぎすとした声ばかりを聞き慣れていたせいか、少々戸惑う。それを押し込めて平坦な声を床に向けて発した。
「は。三年です」
「そうか。…よい。おもてを上げよ」
 一拍置いて一礼の後、ついと顔を上げる。対峙する皇帝は上機嫌のようだ。珍しく口端に微かな笑みが見て取れた。
「剣術体術で右にでる者はいないと聞く。そしてその成長は発展途上であると。誇りに思え」
「…は。有り難きお言葉にございます」
 皇帝の言葉を鵜呑みにするほどハルはもう純良ではなかった。この三年間、余所者であるハルは己の存在を示威する為だけに時間を費やしてきた。クエンでは弱さを見せたら喰われるのみ。
 クエンにおいて『異端』であったハルが目の敵にされるのは自然の流れで。
 仕掛けられたことは幾度となくある。数えるのも面倒になるくらいに。謂れなき理由を延々と挙げられて、いつでも多勢に無勢の状況を作られていた。一度とて負けたことはないけれど。
 棘のある奇異の目と興趣の嘲りには慣れた。
 この【赤銅】はナラダを護る証として示されるものだが、ラスタール全域を隈なく捜したところで存在する色ではない。皇帝がハルを殊遇しているという曖昧な事実が風説を呼び、大袈裟なものへと肥大していく。ひがみはやっかみを引き寄せた。力でねじ伏せようと考える者ばかりが仕掛けてきた。なので、ハルは実践錬磨に事欠かずに今に至る。たいていの場合、大勢でくるような輩はたいした実力を併せ持たない者で、さほど身になる相手にはならなかったのだが。
 ――何としても生き残り、そして、強くならなければならなかった。
 表情を動かさず、胸の内で蠢く猜疑心からなる神経を最大に尖らせた。
「ナラダを制圧せよ」
 しんとした室内に皇帝の声だけが反響した。
 待ち望んでいた瞬間だった。それなのに実際耳にすると一気に気持ちが昂ぶり、返す言葉が巧く浮かばない。
「お前が指揮を執るのだ」
 端的に続けられた命令。ハルはふつふつと愉悦が込み上げのを飲み下し、あくまで平静を装った。この上ない流れだ。
 だが手放しで喜び勇み、素直に受けるわけにはいかない。フリは大事だ。
「ですが、私がそのような大役を受けては他の者に、」
 言い淀む。その後に続けるべき台詞は、こんな高揚した心持ちでは口にするだけでわざとらしくなりそうで、止めておいた。建前だと皇帝も判っているのだ。
 烏合の衆であるグラザン隊ではあっても、表向き上下関係というものは一応ある。つい最近第一部隊に昇格したばかりの、いち兵力でしかないハルの立場で、ナラダへ侵攻の指揮を執るなど異例だった。
 皇帝に目を掛けられているという事実だけでさえ風当たりは相当なもので、それが今後加速するのは容易に想像できた。
 たとえそうなっても、ハルにとっては塵払いに等しかったのだが。




 皇帝の命が下って数日後。ハルは隊を率いてナラダより帰還した。決して堅調な戦果ではなかった。
 結果を残せなかったわけではない。大きな傷痕をナラダに刻んだ。初陣で甚大な損害を与えたことは顕彰ものであるという声がある中、ハルは悔しさをその手で握り潰した。
 初陣であるからこそ、最初にして最後の、そして彼にとって最良の結果を残したかったのだ。
 当人のそれとは気づかぬところで、浮き足立っていたのかもしれない。
 彼女の無事な姿をこの目で確認することができて。そして、悲しみと怒りと畏怖の瞳を向けられたこと。悲痛な叫び。彼女の願い。それらがハルを常とは違わせた。
 ――非情に徹せなかった。

 この日の為にクエンを生き抜いてきたというのに。
 この手で、血を分けた姉を貫いたというのに。

 満足のいく結果を残せなかった原因に、砂漠で戦力を大きく削がれた要因があった。
 ハルの能力――内なる【魔】を解放すれば些細な問題にしか成り得なかったのだろうが。
 このバングルを外し出陣すれば良かったのか。後悔の波がきたと思えば一方で、時期尚早だ、と誡める自分がいた。実際、城内でほんの一時外しただけであれほどの威力を、支配力を爆発させたのだ。ザドーが再びこの腕にバングルをはめなければ、ハルは容易く呑み込まれていただろう。
 情けない話だが、己の中にあって、この【魔】の力は底が計り知れなかった。制御により抑圧しながらそれを見極め越えなければ、我がものにするなど到底無理な話だった。
 かちりとはまったバングルを睨み見下ろす。
 みすみす魔獣などになってたまるか…!

 報告の為、城へ戻るとすぐに皇帝の所へと向かった。降り掛けられた言葉は今回の戦果を称賛する凡愚共と同じで。底冷えするほどに辟易した心情をおくびにも出さず、うやうやしく受け賜った。満足気な皇帝の顔が癪に障る。
 宰相の家族を討った功績を、まるで己のもののようにとうとうと謳っている。政の中枢に鎮座する宰相に揺さぶりを掛けられたのは見事だと。
 性悪だな。内心毒づく。
 かつてハルの親族であったと知っていて、賛辞の語群を連ねているのだ。性根が腐っている。
 ナラダを落とす。共通する最終目的は同じだった。だが中身はまるで違う。
 皇帝はハルがゲリューオンへ変わることを望んでいた。無敵にして最強と謳われた存在を己が意のままにできれば、ナラダは勿論のこと、ラスタールを統べることが可能だと。
 だからハルは黙秘し続けている。バングルの存在を。それから敢えてのたまう。「同調は順調故焦慮の必要はありません」と。
 そしてハルの中で、世界を統べるのは皇帝ではなく、ハル自身であった。理想郷を創るのだ。誰にも邪魔されない、思い通りの。そこには絶対不可欠な人物がいる。――ミウカだ。
 彼女が望む望まないは別にして、彼自身とミウカが平穏に過ごせる世界を創造する。その為にまず、彼女を手にしなければならない。
 真意は誰にも悟られてはいけない。
「精進せよ」
「はい。…陛下。確認したきことがございます」
「なんだ。述べてみよ」
「私の片割れ――【赤銅】を手中に収めし時のことですが。身の振り方の一切をお任せ頂けないでしょうか」
 数秒の沈黙。魯鈍な思考回路なりに回転させているのだろうかと、真摯な顔つきを保ちつつじっと待った。やがてニヤリと、品位の欠片もない笑みを刻んだ。
 皇帝が腹の底で何を思ったか、ハルは見透かしていた。
 ハルの力を称賛する傍らで、皇帝が自身を畏れているという事実に気づかない筈がない。実力は現第一隊隊長を優に越えている。だからこそ今回の出撃命令もあったのだ。
 皇帝は水面下で畏怖の対象――ハルの弱味となるものを、模索していた。
 それを今まさに見つけたと言わんばかりの感情が、皇帝の表情に刻まれたのだ。
 先手必勝。愚かな皇帝が口を開くよりも先に、ハルは端然と言い放つ。
「彼女は尊い能力を持っています。陛下の後ろ盾となるは必定。その為には少々の教育が必要かと」
「己であれば…飼い殺しにできると?」
「はい。必ず」
 卑しい笑みを深くして、皇帝は是認した。


[短編掲載中]