夜も深まった刻。城門の一角に設けられた監視哨の上に、赤銅を纏う少年の姿があった。見張りの兵を退け、ただ独り佇む。
 分厚く垂れ込めた空に輝くものは見えない。月も星も遮られ拝める日数を数えた方が容易なくらいの天候環境。クエンの領土は、何もかもを塞ぎ込ませる。
 記憶にある星河を描く。とうとうと、たゆたう天の河。
 不意に思い出す。いつも隣にあった温もりを。優しい光景そのものを。そして重なる。同じ色を宿した瞳が、歪められた。そうさせたのは、この自分。
 目の奥が熱く弾けた。慌てて拳を握り、唇を引き結んだ。
 少々、感傷的になっているな。
 苦笑交じりの溜息を吐いた。
 戻れない。引き返せない。戻るところなど、とうに失っていた。あとは進むしかないのだ。
 再び強く、己に誓う。
 だが今は…。今だけは、この心の痛みをそのままに。人として、痛みを受け留めていたい。




 初の襲撃から三年。幾度となくナラダへの攻撃は続けた。ハルは十三歳になっていた。

 戦況報告の後、王座のある居室を後にし、廊下をザドーと並んで歩く。
 カルダナール大陸北部の天候にしては珍しく、晴れ渡った午後だった。かなり稀有な天気である。かえって不吉な予感がするくらいに。
 歩調を合わせて、いつもであれば一歩後ろを歩くザドーが、今は真横にいた。ハルはそれに気分を害するわけでもなく、気にも留めてはいない。そもそも彼の方が歳は上なのだ。失われる筈だった生命を再び吹き込んでくれたのも彼だ。
「第一隊隊長の実力をどう思われます?」
「急になんの話だ」
「ハル殿こそ相応しいと私は思うのですが。その気はないので?」
「陛下の探りか?」
 上を目指すに越したことはない。皇帝に近づく為に   討つ為に地位が必要不可欠だった。
 面と向かって聞かれたのは初めてだった。僅かに瞠目した表情を慌てて引き締める。
「とんでもない。個人的興味です」
 大袈裟に否定する。
「わざとらしい」
「で、どうなんです?」
 彼はハルより年上であるにも関わらず敬語を使う。それはわざとではなく、彼の性分であるらしい。目下の者であろうが使用人であろうが、一律敬語なのだ。
「なにか企んでるのか」
「猜疑心の塊ですか、貴方は」
 笑みを含む呆れ顔。そこに偽りは見えない。いい加減信用して下さい、という懇願にも似た響きも感じられた。
 ザドーとてグラザンに身を置いているからには、野心がないわけではなかった。ただ彼の場合、己は表立たず力ある者を押し上げ、自身は傍らにいようとする。白刃の矢がハルに立っただけのこと。二人の出逢いは偶然にして必然だった。ザドーは己の達観力を自負していた。
 ハルは肯定も否定もしない。
 確かにこれまでの彼を見てくれば、充分に信用に足る人物だ。四面楚歌の状況の中にあって、一人くらい信を置ける相手が欲しいのも本懐で。
 だが…。
 押し黙っていると飄々とした口振りが投げ掛けられた。珍しい。
「では、貴方の望みのままに」
 ザドーの柔和な笑みを訝しげに見上げた。
「どういう意味だ」
「貴方の信用を得る為に、贈り物を致しますよ」
 ザドーの破顔の仔細が判るのは、翌朝のことになる。




 第一隊隊長の訃報が、早朝のクエン国城内を駆け巡った。
 一人で練鍛場にて剣を振るっていたハルは、転がり込んできた新米騎士に知らせを受けた。クエンにきてから滅多に表情を崩すことのなかった彼にしては珍しく、一瞬だけ動揺が表に出、すぐに押し込められた。
 判った、とだけ応じ平静を装う。背を向け合点顔を隠した。
 ザドーめ。このことか。
 ミウカに己の存在を明示してから早三年が過ぎ、芳しい結果が得られぬままだった。焦燥だけが募る毎日で、比例して苛立ちも相当なものだった。
 完璧に隠し通してきたつもりだったのだが、ザドーには悟られていたらしい。そのことは悔しさも滲むところだが、今回の功績で相殺といったところか。
 この国で昇りつめる為に上の者を蹴散らす手段をずっと模索してきた。
 火急の場合、通例とは違い昇進武闘競技の、いわゆる『下準備』が皆無となる。実力が拮抗の際、勝敗を決めるのはそういう『根回し』がものをいう。
 尤もそれはあくまで『実力がほぼ同格』の結果が招くことで、歴然たる差が見られる場合、事前の尽力は泡と消える。
 そうしてハルは、十三歳にして第一隊隊長の座に顕達した。


 そして十五歳。
 自他共に認める力も地位も我がものとし、バングルを片方棄てた。完全な解放ではなかったが【魔】の潜在能力は強大だった。
 ラスタールにはびこる魔物の勢力は異常をきたし、砂漠の縦断は容易くなった。
 街門を抜け、ハルは立ち止まった。どんよりと垂れ込める空を仰ぐ。何故か不意に、初陣より戻った日の空を思い出した。
「ハル殿。『波紋を投げ掛ける者』が降り立ったようです」
 斜に構えていたザドーは妙に落ち着き払った声質だった。密偵に向かわせていた第二隊の者が先刻戻り、草原で確認したとの報告があったのだという。
「…そうか」
 独り言サイズの呟き。緩やかに目を細めた。
 やっと…。やっとここまできた…!
 去来する感情を呑み下し、凛とした声を背後へと投げ付けた。
「行くぞ、ザドー」
 彼の生きる意義。それはただ一つの願いだけのもの。大切なのは己に誓った想い。

 必ずこの手に、取り戻す――!




[短編掲載中]