「ばれんたいん?」
 思いっきり素の状態で無知さ加減をひけらかす少女に、間髪入れず端的な逸の突っ込みが入る。
「せめてカタカナ発音にしてくれ。何歳児だよ、お前は」
 呆れ口調はいつものことながら、ご丁寧に溜息付きだ。
 新聞から目を離し、未だ疑問符を浮かべている少女を見遣る。異世界から来たのだから知らない風習があって当然とはいえ、基本冷静沈着な逸でも流石にこけそうになる聞き返し方だった。
 週末の昼下がり。昼食を終え、リビングでくつろいでいる時だった。
 話題は一週間後に控えたバレンタインデーのことだ。街中がそれ一色に染まり、浮き足立っている。否応無しにでも目に入るそれらにミウカは「なんだろう」程度の疑問はあったようで、けれどさして興味はなく、今の今まで素通りしていた。話をふったのはルイだ。
 知らないことが本気だと判って、ルイは意地悪心をむくむくと湧き上がらせる。
「本当に知らないんだね、ミウちゃん」
「だから、それはなに」
 ミウカの問い掛けにお茶を濁して、回答を先延ばしにしている。
 むー、と唇を尖らせ揶揄するルイを軽く睨む。
「逸兄は知ってる?なんなの?」
 回答者を変更。ルイは「言っちゃ駄目だよ」と目配せしたが、逸はお構いなしだった。
「製菓メーカーの陰謀」
 あまりに淡白すぎる物言いに、ミウカもルイも呆気に取られる。
「陰謀?楽しいものなのかと思ってた」
 真剣に返すミウカに、ルイは違う違うと手を振って逸を一瞥する。
「夢の無い言い方しないでよっ。毎年いっぱい貰う立場のくせにっ」
「人の好意は有り難く受ける主義。だがな、お返しが面倒臭いのも事実。俺は現実を話してるだけだが?」
「本命チョコが大半だなんて趣味疑っちゃう。どっこがいいんだ、こんな人の」
「どこだろうな。そういや、生憎もらえなかったことはないな」
 しれっと言い放つ。自慢にしているというよりは、ルイの反応を面白がっているらしい。
「逸兄にはあげないから!」
「そりゃ結構」
「感じ悪っ」
「俺以外にあげる奴なんているわけ」
 わざとらしく小馬鹿にした逸の返しに、ルイはムキになる。
 そんな兄妹の間にいて、結局のところ『バレンタイン』がどういうものなのか不明のまま、遣り取りの切れ目を窺う。
「んもー、ぜぇーったいあげないっ!」
「待ってますよ、妹君」
「あげないっ。もしくは義理って思いっきり書いてやる!」
 ぷいとそっぽを向くルイに小さく笑うと、逸は再び新聞へと目線を戻した。
「で、誰が答えをくれるわけ。ルイ?」
 憤然冷め遣らぬ様子のルイも切り替え早く、行事なのだと教えてくれた。一緒に盛り上がれる相手がほしかったのだろう。嬉々として説明を開始する。見事に出鼻を挫かれてはいたが。
 本来は好きな人に告白するキッカケにするものだと、ルイは言う。それを本命チョコと呼ぶのだと。
 義理チョコというものもあり、普段の感謝を込めて送るのもなのだと説明を受けた。
 本命チョコは告白の後押しをしてくれる。好きな人がいる人達にとっては重大行事なのだと。
 面白い風習だ、と思う。ナラダでそういう行事があったら、と想像すると、わりと笑える情景が浮かんだ。
 コウキもタキも大量に――しかも本命の方でもらい、だが二人とも手をつけないだろう。表面上快く受け取ってどこかに放置、のち城内の女官へ配布。お返しも人任せにして手渡しではなく送付。勿論失礼のないよう細心の注意を配り、裏事情がばれないようにする。
あ、でも…。
 スラからのものであれば、コウキは喜んで受けるだろう。本命中の本命なのだし、コウキが唯一望む相手なのだから。ただ受け取る際、表情に出さないように努めるだろうけれど。
 スラは「女性らしさの理想」が具現化したような人物だった。ミウカにとって自慢の姉であったし、賛美の対象だった。コウキならずとも、心惹かれるのは当為だった。
 対して、
 宿命の所為にするわけではないが、仮に【赤銅】に絡み取られた生命でなくとも、ミウカはその方面では足元に及ばなかっただろうと思う。どちらにしても、違う生き方は想像がつかない。向いていないだろうな、とは想像つけられるのだが。
「莉哉さんにあげないの?」
 想像の世界から一気に現実に引き戻される。しかも内容が内容なだけに「へ?」と素っ頓狂な声が出てしまった。
 ミウカの反応には頓着せずに、ルイは続けた。
「作ったら?」
「え?あ。えぇ!?そーゆうもんなの?」
 バレンタインすら知らなかったミウカにしてみれば突拍子なくて、そこまで思考が追いつかないのが現状で。
 加えてまだ、いまいち判っていない。なんというか、周囲がそれほどまでに盛り上がっている心理が。
「ルイと一緒に作ろうよ」
「え、でも…」
 お菓子作りを趣味にしているルイならともかく、である。
 香椎家の家事は基本持ち回りだ。だが実際のところ、平日は遅くなりがちな逸に代わってミウカが、週末は逸が食事の用意をする。ここで暮らすようになって数ヶ月、調理の腕は悪くないと自負しているのだが、お菓子作りは別物だ。ルイの手伝いをすることもあるけれど、器具を揃えたり重量計測くらいなもの。失敗したら目も当てられない。
 ミウカの踏み切れない理由を他で解釈したらしく、ルイはからから笑う。
「義理チョコだって渡せばいいんじゃない?日頃の感謝の気持ちを形にして贈るものだから」
 そういうことではなくて、とミウカが口を開きかけて、リビングテーブルにドサッと積まれたレシピとルイの笑顔に、領解違いを正す間を遮られた。
「ね。一緒に作ろ?」
 無邪気にされれば頷くしかなかった。嬉々として先に話を進めていくルイを微笑ましく見守る。
 一言でチョコレートのお菓子と言っても種類は豊富にあり、あれもこれもと話に花咲く。ようやと「これにしよう」と一つに絞ったところで、逸がポツリ。
「義理で渡すんか?」
「うん?…え?なに?」
 きょとんと逸を見上げるミウカに呆れ顔が対面する。
「特に意味はない。気にするな。ま、精進して作ってくれ」
 逸の考えてることがミウカに聞こえるわけはなく、少女は小首を傾げた。


◇◇◇


 二月十四日。
 莉哉の通う常汪高校は生徒の自主性を尊厳する校風だった。平たく言えば、問題を起こさなければ自由にしなさい、ということ。
 なので危険物でない限り、校内への持ち込みを取り締まったりはしない。朝からそこかしこでソワソワと、落ち着きのない空気が学校中を包み込んでいた。
 登校してすぐに行動に移す者もいたり、機会を窺う者がいたり。
 そんなこんなで莉哉の机には、時間の経過に比例して数量も増加していった。休憩時間の度に呼び出され、教室にいるのは授業中だけという事態に陥っていた。
 今も時間ぎりぎりに解放され、着席したばかりだった。流石にくたびれて、戻るなり机に突っ伏す。前の席の成澤が振り返った。
「お疲れのご様子で。何個目よ?」
 完璧揶揄する口調だ。僻んだところで何かが好転するわけでもなく、どうせなら莉哉を玩具にしてやろう、という魂胆がみえみえだ。茶化すと面白いらしい。
「うるせーよ。もう帰りてぇ…」
「モテる男は辛いね」
 隣から井塚までもが茶々を入れる。
「頼む…。黙っててくれ」
 反発する気も起きやしない。
 それからも休み時間の度に誰かれ構わず(否、相手はそうではないけれど)莉哉を訪れ、時には強引に連れ去られたりした。どれもこれも、無責任に仲介役を買って出て、安請け合いする悪友が原因だ。面白がって莉哉が振り回されるのを傍観している。
 当人には「話も聞かないで、とっぱじめから断るなんてゆーことしたら、冷たい奴だって思われるかもなぁ。あの子、そういうことには敏感そうだし」と釘が打ち込まれていて、しょっぱなから断れない心情を拵えられた。
 対人関係に煩労してきた少女を知っているから、莉哉にその一言は効果てきめんだった。
 お陰で、ひとまずは呼び出しに応じ、受け入れる気持ちがないことを丁重に告げ、それでも渡してくるものは受け取り、教室に戻る最中にも引き止められ…を繰り返し繰り返し。疲弊しつつ、廊下を歩く。両腕に抱えられた贈答品の数々に、男子の視線は突き刺さり、女子は愛嗜の中に嫉妬を含ませ視線を投げ掛ける。
 疲れた…。
 なるべく目が合わないようにと床に視点を置きながら歩いていたのだが、自分の教室が近づいてきたあたりで顔を上げた。
 戸口にいる人物――ミウカを発見し、途端に歩を早める。少女は莉哉にはまだ気づいていない。誰かと(予想はついているのだが)と談笑している。あと数歩まで近づくと、相手を確認して(やっぱりな)と溜息を吐いた。
 いち早く莉哉を見つけた成澤が含意のある、なんとも嫌味な笑顔を向ける。成澤の動きに、ミウカと井塚も莉哉を振り返った。
 ナルめ。楽しんでやがるな。
 内心毒づき、おくびにも見せず三人の元で足を止める。
「お。大漁、大漁」
 成澤が感嘆した声色を作り、大袈裟に茶化す。続けて井塚が「お返しが大変だな」と妙なところで憐れみを示した。
「全部返してられっかよ。大体お前らが勝手に約束執り付けっからだろうが」
「あらら。冷たいな」
 大仰に驚いてみせる。ミウカがいるから成澤は言っているのだ。
 わざとらしーんだよっ、とは思っても、表には出さない。
 つらっとして「相手の了承済みデスヨ、ハイ」と返す。俺を陥れようなんて百年早いわ、と勝ち誇った顔を作って。
 水面下の遣り取りを判っていたのは当人達と井塚だけで、ミウカはぽかんと聞いているだけだった。話の途切れ目が見つかって滑り込む。
「ほんと、沢山もらったんだな」
 すごいな、と純粋に感心していた。
 成澤との歪んだ会話の後で、砂漠に見つけたオアシスみたいな心持ちになる。だからつい、考えもしないで疑問を投げ掛けてしまった。
「なんの行事か判ってる?」
 現今、バレンタインを知らない人間などいるわけがない。
 ナラダで産まれ育ったことを知っている者ならば自然に感じるこんな質問も、知らない者が聞けば「知らないわけがないだろう」と、質問を投げ掛けた者の頭を疑う内容だ。
 ということをすっかり失念してしまい、思わず口をついていた。が、
「バレンタインだよな。チョコあげる日」
 指を立てて笑顔満面。即答するミウカの愛らしさに、成澤、井塚の両名は突っ込む方向から気が逸れた。
「もてるね、莉哉。いっぱいあるならコレ、要らない?…よな?」
 遠慮がちに持ち上げられた包み。明るい色で可愛くラッピングされている。それはいつかの、調理実習があった日に知った、ミウカがイメージする莉哉の色だ。
 返事を待たずして「これどうしようかなぁ」などと、処分の行方を考え始めている。
 なんとしても阻止せねばと焦るのだが、喰い付くのは格好悪い。いや、格好つけてる場合ではないのだが、何せ傍にいる人間が悪い。後で肴にされるの必至だ。どうにか何食わぬ顔を作った。
「数の問題でなくて、」
 もらうよ、と差し出そうとした莉哉の手は、ミウカの邪気無き表情に遮られた。
「でも食べきれないだろ?今ある分だけでもすごい量だし。ちゃんと食べないと失礼だ」
 食べずに分配しようと思ってた、なんて考えていたことは絶対に秘密だ。加えて秘密は墓まで持って行くぞなんて実に馬鹿らしいことまで考えている内に、成澤と井塚が割り込んできた。
「じゃあそれ、俺達でもらっちゃっていい?」
「ミウカちゃんくらいだもんな、俺らにチョコくれんの。君からのだったら、いくらあっても嬉しいからさ」
 すでにもらってんのか!?なら充分じゃねーか!などという醜態晒しの思考は声にせず、けれど慌てて阻害に取り掛かる。が、颯爽とした台詞が浮かばず、今まさに奴らの手に渡ろうとして、咄嗟に出たのは――
「俺んだっ」
 叫んだ瞬間、後悔。まさに先に立たず、だ。
 ピタリと動きを止め、悪友二人の笑顔が歪んだ。莉哉は顔面いっぱい赤く染めて、それでも尚、ミウカの贈り物をしかとその手に収めた。
「手作り?」
「うん。ルイと作った。バレンタインは感謝を形にする日だから、この方が気持ちこもってる感じしないか?」
 感謝?
「だろ?」
 ミウカは無邪気そのものだ。
「…ああ、うん。感謝、だな」
 義理か。まぁ行事知ってただけ奇跡だよな。と無理矢理納得させた。
 瞬間的に落胆したのを出してしまい、慌てて引っ込めるも成澤と井塚に見られてしまった。声を殺して笑っている。
 悪友二人は顔を見合わせて、ほくそ笑む。

 こんな茶番劇に少女が一枚噛んでいたことは――内緒のハナシ。




[短編掲載中]