「ん!」
 ずいと目の前に差し出された小さな包みを、ミウカはまじまじと見つめた。それから視線を向かい合う莉哉に移す。
「ん?」
 小首を傾げる。莉哉は少女の手をとって、それを乗せた。柔和な色合いのラッピングを施された箱は、掌に着座する。
「なに?」
「お返し」
「なんの?」
 思い当たる節が見当たらない、らしい。不思議がるミウカは可愛らしく、ずっと見ていたい衝動を莉哉は押さえ込んだ。あまり長引かせると単なる虐めだ。
「今日は三月十四日。バレンタインのお返しをする日、って聞いてない?」
「あ!ほわいとでー、ってやつだな!?」
 綻んで贈り物を見つめる。嬉しそうに笑う少女を見られただけで、莉哉はご満悦だった。たどたどしい平仮名読みでミウカが発した単語は、気にもならない。逸であればすかさず突っ込んでいる箇所だろうけれど。
 少しずつ、少しずつ。少女は“こちらの世界”の人間になりつつある。成長を見守るようで、楽しい。知らないことを吸収していく、それの手助けができることが、嬉しかった。
 ただ、
 不安がないと言えば、嘘になる。
 “こちら”に来た理由。それを達成して随分時間は経つ。ミウカは戻らないと言った。言ったが、確実ではない。不安が常に付き纏う。
 誰かが彼女を、いつか取り戻しにくるのではないかと。いつか、いなくなってしまうのではないのかと。
 頭で考えていても仕方のないことだ。片鱗があるわけでもない。暗い顔を見せればミウカに心配かけるだけ。それでなくても人の感情に敏感なのだ。
 だから、笑っていようと決めた。
 起こるかもしれないけれど、起こらないかもしれないことに怯えて、負の思考に支配されるよりは、起こってしまった時に考え、最善を尽くしたい。
 だから今は、隣で笑っていたい。
「ありがとう。開けていいか?」
 ルイと一緒にいる時間が多い所為か、無邪気に笑うミウカは幼く見える。“向こう”での少女を知ってるだけに子供っぽく思えるのだけれど、“こちら”の歳相応だとも思う。
「そういやさ、変なこと聞いていいか?」
 ふと、思い浮かんだ疑問を口にしたくなる。ミウカは包装を解く手を止め、莉哉を見上げた。
「ミウカって俺のイッコ下だよな?学年が二つ離れてんのは、何故だ?」
 香椎のミスか?と続けようとして、やめた。凡ミスをする人間には見えない。策略家だという方が、妙に納得できるタイプだ。
「それね、逸兄が決めたんだ。年齢詐称ってゆーの?お前ならいける、って言われた」
 呆れ返る。なに吹き込んでんだ。
 怪訝さが表に出てしまったのか、ミウカから陽気さが消えた。少しだけ声のトーンを落とした。
「まずかった?でもやっぱ、逸兄の言う通りにしておいて良かったなって、思うんだ。勉強についていけないし」
 まあ、そうだよな。一理ある、か。
 内心で息を吐き、未だ困惑気味のミウカの頭をポンと撫でた。
「まずかない。けど、秘密にしとかなきゃな」
 莉哉の同意が得られたことが嬉しかったのか、ミウカの顔が明るくなった。
 やべぇ。可愛すぎ。
 直視が困難になり、顔が熱いことを悟られたくなく、ふいと顔を逸らした。頬にあたるミウカの視線に、疑問符を浮かべた様子が窺えた。
 元々素直だったと思う。素直すぎて、何でもかんでも正面から受けるばかりだった。
 一人で背負い込むことしか頭になく、他を気遣うばかりで。人の為に、少女は生きてきた。
 真っ直ぐなミウカに惹かれた。護りたいと、願った。傍にいられるのなら、術があるのなら知りたいと。
 ミウカに絡みついていた重責から解き放たれ、少女は莉哉の目の前にいる。幸せだと思う。続くことを祈っている。出来ること総てで、護っていきたい。
 少女が寄り掛かかってくれる度、莉哉は至幸に浸る。何よりも、自分の為に生きているミウカを見れることが嬉しい。
 本人は気づいていないだろうけどな。
 軽く騒いでいた心音が落ち着き、ゆっくりと顔を元の位置へと戻す。
 ミウカの目は、天上を捉えていた。じっと、真摯な眼差しを向けている。
 ドキリとした。続けて、胸騒ぎがする。この目を、知っていたからだ。ナラダにいた頃の、騎士だった頃の、射抜く強い目だ。
 声を掛けられなかった。掛けても、ミウカには聞こえないだろう。少女の意識が“ここ”にはないような気がして。
 ミウカの唇から零れた名前に、背筋が凍る。これは、恐怖。
 思い浮かぶ人物が、過去にしてきたことへの恐れではない。現在の少女を連れて行ける力を持つ者だからだ。
「ミウカ!」
 思わず腕を掴んでいた。乱暴な動きに、心底驚いた顔が対面した。
「……どうした?」
 莉哉を見るミウカの目は戻っていた。一瞬だけのことなのに、早鐘を打った心臓は落ち着きをみせない。口籠もる莉哉に、ふっと表情を緩めた。
 総てを悟っているかのような、慈悲に溢れた表情だ。
「ハルの声が、聞こえた」
 焦燥が駆ける。また言葉を失った。先走って制止を叫ぼうとする自分と、言葉を待つべきだと諭す自分が対立する。迷っている内に、ミウカは続ける。
「贈り物をしたいって」
 直後、声に感応して、景色が一変した。
 日常にいた筈の莉哉とミウカの周りの景色が一瞬で暗転し、光が流れ出す。
 莉哉は知っていた。この光景を。
 『波紋を投げ掛ける者』の役目を終え、ラスタールに戻される直前、最後にコウキに会った時。
 無数の流星群が、そこに存在した。――これは何を、意味する?
 まわりを見渡すミウカは無邪気そのもので、はしゃいでいる。感嘆の声をあげながら、360度の景色を心底楽しんでいた。
「ミウカッ!」
 悪い方向にしか思考が向かわず、どうしていいか判らず、大きな声になってしまった。
 心臓を鷲掴みにされている気分だ。
 莉哉の形相に驚いて、ミウカは駆け寄ってくる。顔色が悪いと見て取れたらしく、不安気だ。取り繕うにも、どう作ればいいのか判らなくなっていた。
 ミウカはこの光景を知らない。意味を知らない。ミウカを連れ戻す為のものかもしれない…!
 腕を掴まれて、正気を戻す。ミウカが見上げていた。
「莉哉?これはハルからのお返しなんだ。見せてくれてるだけ。それだけだ」
 念を押すように、ゆっくりと話す。真っ直ぐに瞳を見つめていると、落ち着きが還ってきた。
「……お返し?」
「莉哉と同じ。ほわいとでーだ」
 ふ、と景色が消えた。元通り、だ。
 何が何だか、混乱する。きゅっと指先に力を込められて、ミウカを見つめた。
「どういうことだ」
 まるで判らない。
 対するミウカは了知しているようで、そっと微笑んだ。ともすれば、莉哉の不安を見透かしているみたいに。
「ばれんたいんでーに、連れてってもらったんだ。あの川のほとりに。ハルの分を持って」
 兄と話が出来る場所なのだと、ミウカは嬉々として言っていた場所だ。実体はなくとも、意識は存在しているのだと。
「勿論、本当に渡せるなんて思ってなかったけど。…でも、不思議なことってのは、有り得るんだよな」
 自分達に起きていることと一緒で、と笑う。
 その日、ハルの返事はなかったという。行事について話したり日常の雑談を一方的に話した後、立ち去ろうとして、ミウカの手にあったチョコレートが光に包まれた。粒子になり、天へと吸い込まれていった。
 声はなかったけれど、礼を述べられた気がしたという。
「間違いなくハルが受け取ったんだよ。だからさっきのはお礼」
「そ、そうか」
 としか応えようがない。
 ついさっきの幻影を見せる前、声を聞いたのはミウカだけだ。
 ミウカを信じるか?――当たり前だとも。彼女が「そう」言うのなら「そう」なのだ。
「ごめんな。俺が大声出さなきゃ、まだ見れてたかもしんないのにな」
 急にバツが悪くなる。申し訳ないやら、情けないやら。余裕のなさは、変わってない。
 ミウカは笑顔でかぶりを振った。どっちが年上なんだか判らないな、と自身を嘲笑する。
「ちゃんと、いる。どこにも行かない」
「え?」
 見透かしているように見えるのは、気のせいなんかではないのかもしれない。莉哉の不安を判っているのかもしれない。
 安心させられるのはただ一人、自分だけなのだと。
「莉哉、心配要らない。自分は、ここにいる」
 赤銅の双眸が、笑いかける。それは莉哉が見た幻だけれど。
 自分を掴む少女の手は、紛れもない現実だから。確かめるように、頷いた。

 誰よりも君を信ずる――




[短編掲載中]