「突然の呼び出しに応じる莉哉さんはすごいと思う」
 眉間にしわを寄せて仏頂面を晒す兄を、ルイは呆れて見遣る。
 普段から表情の動きが乏しい上に、よく見せるのは不機嫌そうに黙然としたものが殆ど。なので、鋭い視線を投げ付けられたところで妹にしたら慣れたもの。気おじなどすることはない。
 逸は大仰に溜息を吐き、通話を終えたばかりの携帯電話を耳から離す。自身にくっついている少女に視線を転じた。
「あいつにしてみりゃ、願ってもないチャンスだろ」
「ミウちゃんが大変だ、なんて言われたら来ないわけないじゃない。莉哉さん、理由聞いてこなかった?」
「くれば判る」
「軽く鬼畜よね」
 ルイはますます呆れて息を吐く。「強引にもほどがある」
「知った風な口をきくな。――支度は済んだのか?」
「あとちょっと」
 早くしろ、と無言で圧してくる。
 不機嫌になるのも判らなくはないが不可抗力なのだから仕方ない、としか言いようがない。確かに一晩中付き合わされ、それは同情はするけれど。
 上機嫌な少女との温度差は、正直可笑しい。
 がっつりの睨みが入る前にくるりと身体を反転し、自室に逃げ込んだ。

 それから十数分後、玄関のチャイムが鳴った。
 ほんの数分前より、昨夜からついさっきまでの逸状態になっていたルイは、猛烈反省中だった。兄をからかったことは謝ろうと決める。
 さすがに、これが一晩てのはきつい。
 二度目が鳴った。
「ミウちゃん、ちょっといい?」
 逸からルイへとひっつく対象を変えた少女は、ぶんぶんと首を横に振る。肩に手を添え離そうしても、ますます力を込めるだけだ。
 三度目が鳴り、四度目はそうたいして間隔を開けずに続けられた。
 莉哉さん、苛々してるっぽい。まぁ当然だよね、と即座に納得する。
 あんな呼び出し方でくるだけでも、感心ものだ。
「ミウちゃ、」
「いや!」
 語尾に重ねて、聞く耳を持たない。実年齢がルイよりも上であるのに、まるで今は聞き分けのない幼子だ。これでは埒があかない。
 莉哉が帰ってしまっても困るので幾分強引に剥がそうと動いて、扉の向こう側に声が響いた。
「鍵なら開いてる」逸だ。
 ルイに抱き着く少女の肩がぴくりと反応する。
「一体なんなんだよ」莉哉のトーンはかなり刺々しい。
 往々にして逸には端的だからとか、扉を隔てているから、は原因ではないだろう。
 不機嫌なのが目に浮かぶ…。
 顔を完全にドアへと向けて、少女はその扉さえも透けて見えるかのように凝視していた。
「唐突に人呼び出しといて、なに決め込んでんだよ」
 逸に対する槍声が飛んだ。
 莉哉が、およそ年上にするには不躾極まりない言葉使いをぶつけるのは珍しい。とルイが驚くのと、束縛が緩み少女が走り出すのはほぼ同時だった。
 ルイから離れる直前に零れた呟きに、苦笑を漏らすしかない。
 ますます莉哉さんの機嫌悪くなりそ。
 少女の後をおって玄関に向かう。少女は止まらずそのままの勢いで扉を開けた。向こうにいた莉哉も同じくノブを引っ張っていたらしく。
 驚きに瞠目していて、どん、という衝撃に、ルイから、自分にくっついた塊へと視線を転じた。
 華奢な腕を目一杯莉哉の胴体に巻き付けた少女は顔だけを莉哉に向け、にっこり笑う。無邪気な幼子そのものの笑顔。実年齢よりもだいぶ幼い無邪気さだった。
「ミ、ミウカ!?」
 普段からでは到底考え及ばない行動に戸惑っている。
「見つけた」
 ミウカは満足げに笑みを深くし、再び莉哉の胸に顔を埋めた。
「……見つけた?」胡乱げに莉哉は問う。
 ミウカは腕に力を込め、嬉しそうに答えた。
「捜した、ハル」

 それで、と言ったきり口を噤んで説明を求める莉哉は、胸にミウカをくっつけたままソファに座っていた。まるで昨夜の再現だ。逸が莉哉に代わった以外、ミウカの嬉しそうな笑みに遜色はない。
 逸は近くに座っているものの説明する気はさらさらないようで。ようやと解放されたことに安堵しているようでもあった。素顔を隠すためのサングラスを外さないのは念の為だろう、と推量する。
 ともかく、兄が説明放棄しているのは明白だった。
 莉哉は部屋に上がってからもむっとしたまま。
 ミウカに抱きつかれたまでは驚いても拒絶することではないのだろうが、違う名前を呼ばれたのにはむっときているのだろう。
 そんな二人の間にあってルイは、部屋の中に漂う微妙な空気に居心地の悪さを覚える。
「あのね、莉哉さん」
 ルイが口火をきって、昨夜からのことの顛末を話し出す。
 ルイの風邪がうつったらしいミウカは市販の薬を飲んだ。数分後、薬の効果が現れると時を同じく、ふらふらと酔った風になった。瞳はとろんとまどろみ、呂律は次第に鈍重になる。
 明らかに様子がおかしく、逸に連絡し、早めに帰宅してもらったところ、逸を見た途端「ハル!」と叫び抱き着き、朝を迎えることになった。
「一晩中?」
 莉哉の声には純粋な驚愕と憐憫が篭っていた。
「そう、一晩中だ。おかげで一睡もしてない」
 逸が首をまわすとゴキゴキと鳴った。さすがの莉哉もこの音には憐れみに眉をひそめた。
「今の莉哉さん状態でいたから…あれ」
 ルイは壁に掛けられたスーツを指す。しわくちゃにくたびれたスーツがさげられていた。
「着替えるまもなく拘束されちゃったの。――ね、逸兄」とルイは同情の眼差しを兄に送る。
「どうしちゃったんだよ?」莉哉は心配そうに少女を覗き込む。
 ミウカの頭を撫でると、少女は猫が喉を鳴らす時のような顔を見せた。音まで聞こえてきそうだ。
「どうやら、性別の判断だけはしているらしいな」
 逸は見解を述べ、ルイは同意した。
「というと?」
「今のミウカにとって、男はみんなハルで」疲れた風に逸が言い、
「女性はスラさん」ルイがあとを継ぐ。「さっきあたしがスラさんのふりをして、ようやと逸兄が解放されたってわけ」
 それで逸は、車をあたためる為に外へ出ることができたのだ。
 莉哉はまじまじと少女を観察する。
「薬の効果?」疑問を口にし「害はないんだよな?」
 たぶん、とルイは返答する。
「ミウカ」
「うん?」
「辛いとことか、ないか?」
「ないよ、ハル」
 それどころか、至極幸せそうにさえ見える。
「薬のせい?」
「そう考えるのがしっくりくるの。他に思い当たらないし」
 数瞬思案し、そうか、と呟く。
「ミウカは免疫がないからかもしれないよな」
「免疫?」ルイは小首を傾げた。
「人工的な薬ってやつにさ。向こうでは薬草を煎じて病に対するのが一般的だったし、そもそもミウカには不要だった」
「それで免疫がない、か」
 反芻し逸も納得している。
「にしても、向こうでのコイツはこんなんだったのか?」
 逸は溜息を混じえて疑問を吐き出した。
 同等の疑問を抱えていたルイも頷いて莉哉の回答を待つ。ルイも逸もミウカの過去を幻影で、断片でしか知り得ていない。
「俺の知るミウカの、どれにも当て嵌まらない。まるっきり甘えん坊の子供じゃないか」
 騎士だった彼女は、宿命を背負い、重責を背負い、神経を尖らせて生きていた。人に甘えず、甘えること自体を、己にはあってはならないとするかのように。
「透察眼がみせたミウカとも、違う」
 あの不思議な能力がみせる過去はすべて真実だった。だとしたら、たどり着く答えは――
「こうありたかったという、願望なのかもしれない」
 口にしてしまえば、正解は他にはない気がしてくる。
 自身でも意識できぬほどに、最奥に封印されたそれ。
「まぁなんにせよ、ここで議論したところで好転があるわけじゃないし、薬が元凶だっていうならじき治るだろ」
 効き目の時間が長いのも、免疫が皆無だからだろう。
「素路に頼みがある」
「頼み?」
 不気味なものでも見るように逸を見た。
「俺はルイを病院に連れていかねばならない。留守を頼めるか」
「緊急事態てのは、それなのか」
「コイツを連れていくのは構わないんだがな、今のコイツに誰彼構う分別はないだろう。誰彼構わず抱き着いていっても、俺は一向に構わんけどな」
 意地悪にもほどがある。ルイは口には出さずに呟いた。
「それか、だ。俺の代わりにタクシーでルイを送り届けてくれるのでもいいんだが」
「ミウカはどうなる」
「今の素路と俺が、入れ代わるだけのことだ。どちらも嫌だっていうなら断ってくれてもいい」
「誰も、んなこと言ってねぇ」
 不機嫌そうに言って押し黙るのは、ある種の虚勢なのかも、と莉哉を見て思う。
 男心って複雑。

 玄関先で立ち尽くす莉哉と、彼にぶら下がるミウカの構図は笑えるものがあった。露骨にするわけにはいかず、それを引っ込めるのに苦労する。
 素の状態でミウカがこうして甘えてくれているのなら、莉哉とてこんな複雑な顔をしなかっただろう。
 ドアを開けてルイを先に出すと逸は「頼むな」と言って自身も廊下に出る。閉めるドアを中途半端な位置で止め、再び莉哉を見た。
「言い忘れてたけど、唐突に正気に戻ることあっから、下手打たない方が素路の為かもな」
 意地悪い笑みが刻まれたのはドアが完全に閉まった後だった。閉まる直前に見えた唖然と言葉をなくした莉哉の顔に対するものだろうと想像がつく。
 エレベーターが上がってくるまで待っている間、人気がないのを確認してからルイは兄を斜に見上げる。
「嘘の意図は?」
 ミウカが我に返ったことなど、効き目がでてから一度もない。
「釘刺しといたんだよ、あいつの為だろ」
 兄は堪えきれずくつくつ笑う。
「あの顔見たか?あいつの悪友どもに見せてやりたいとこだな。ま、がんばれ少年、ってとこか?」
 部屋にぽつりと残された揚句、余計な忠告まで残されたのではさすがに莉哉が憐れになる。
「逸兄、」諌める語調をもって名を呼ぶ。
 兄はいつでもルイにとって「よき兄」であるけれど、これとそれは話が別だ。軽くへこませるくらいなら、神様だって大目にみてくれるよね。
「オヤジ臭い」
 心の中で舌を出した。




[短編掲載中]