部活時間。男女混合のミニゲーム終了後の休憩に、葵は小柴亜理紗の元へ駆け寄った。体育座りで並ぶ。
 亜理紗は遥、葵、琢巳と同じクラスで、琢巳の彼女だ。亜理紗以外の三人はバスケ部に所属。部活のある日はたいてい、終わるまで体育館の隅っこで練習を見ている。
「お疲れー。勝ちましたな」
 亜理紗は涼しい顔だ。対して、火照った顔面の汗を拭って葵は、タオルからパッと顔を上げた。満面の笑みになる。
「うん!疲れたけど気持ちいー」
「沙月先輩のフォロー、すごかったよね。味方で良かったんじゃない」
 沙月は葵達の一学年上だ。抜きん出た実力を持っているにも関わらず、努力を怠らない。普段は穏やかな性格だが、ことバスケになると顔つきがガラリと変わる。
「流石は先輩だよ。お蔭で敵チームの遥を負かせてやった!」
 向こうの方で談笑している遥と不意に目が合って、いー、とか、なんとも可愛げのない顔をする葵を斜に見ながら、亜理紗は呆れ返る。チームが分かれた二人は試合中だというのに、事あるごとにぶつかっていた。というか、張り合っていたというか。
 お返しに変顔をしてくる遥の隣にいた琢巳は亜理紗を見つけ、手を振ってきた。
「柴ちゃんはいーよなぁ。好きな人と付き合えて、大事にしてもらえてさ。こんな風に毎回練習見にくるんなら、部活入ればいーじゃない」
「やだ。じっくり見てらんなくなるしょ」
 亜理紗は恋愛に関して素直に心境を述べることに、抵抗を感じないタイプだ。変に照れたり、繕ったりしない。
「はいはい。のろけは満腹ですよぉ。…けど、羨ましい。あたしなんて、煙たがられるだけなんだもなぁ」
「だったら、ちっとは女の子らしくしなよ。単なる喧嘩友達にしか見えないって。本気なんだか判んないって言う紺野の気持ち、判らなくは無い」
 素直に真剣に想いを告げる。
 葵の中で『それは無理』と制止がかかるのは、理解できなくもないことだった。たった一度でも、受け容れてもらえなかった過去があれば尚更で。
 芽生えてしまった“臆病”は、時の経過と共に成長するだけだ。
 だから亜理紗は敢えて言う。言葉を変え、言い方を変え、繰り返す。真摯に伝えるべきだと。
「無理っす。嫌がられるって」
 葵は肩を竦めた。広げた掌を亜理紗に向ける。
「たまに違うことしたら“キショイ”でしょ?」指を一本折る。
「素直に言えば即答“考えられん”」二本目を折る。更にもう一本折り曲げて、おどけて片眉を持ち上げた。
「そして極めつけ“タイプじゃない”だよ?引き合いに出すのは、正反対な小西さんの名前」
 隣のクラスの小西彩は、学年内でも男子に人気のある子だった。女の目から見ても可愛らしい容姿に、屈託ない性格の持ち主で、大半の男子が好意を持つことに至極納得のいくタイプだ。
「紺野ってズバズバ物言うもんねぇ。無遠慮ってゆーか。特に葵にはさ」
「こっちも負けずに言い返すもんだから、ちょっとやそっとじゃヘコまないって決め付けてんだよ」
「懸命なとこだけは尊敬に値する、かな」
「限定しないでくれる?」だけ、を強調したことに不満を述べておいて、小さく溜息を吐いた。声のトーンを落とす。
「ノリに便乗して言うばっかじゃ駄目なのかなぁ、やっぱ。…でも気持ちは本物なんだよ?口で言ってるだけじゃ伝わらないもん?声にして言う以外に、どうしていいか判んないよ」
 一度だけ、真剣に想いを伝えたことがある。想いが咲いた、始まりの頃。
 返ってきたのは戸惑い、本気で困った顔だった。
 あんな顔を二度としてほしくなかった――二度と、見たくなかったから――葵はそれを、封印した。重荷になる想いだけには、なってほしくなくて。
「健気、とでも言うのかなぁ。けど、自分とは正反対な子を引き合いに出されると、流石にヘコむよね。全く相手にされてないってことじゃない?なのによく紺野のこと好きでいられんね?」
 同情っぽい溜息が亜理紗から漏れた。
「柴ちゃんも結構、無遠慮じゃない」
 呆れた顔を向けつつも、その通りだと乾いた笑いを零す。そしてきゅっと表情を引き締めると、真っ直ぐに遥を見つめた。
「無謀でもなんでも、諦めらめらんない」
「あんたみたいな無駄省き主義が!?」
 葵の宣言を叩き落とす勢いの、素早い突っ込みだった。亜理紗は大仰に驚いてみせる。わざとらしすぎて、まともに返すのが面倒くさくなった。
「あのねぇ…。好きになんのは理屈じゃない。だいそれた理由なんて、必要ないでしょ?それって無駄なことじゃない。好きなもんは好き。悪い?」
 断言に対して「あんたらしいよ」と亜理紗は笑う。
「ね。それでもさ、きっかけとかあんの?」
「あれ、言ってなかった?一年の時、土壇場のスリーポイント失敗した試合、覚えてる?」
「試合後失踪した時の?」
「いや、失踪って…大袈裟な」
 呆れつつ突っ込んでおいて、思い返しながら葵は話し始めた。


 点差二点。残り時間数秒。
 緊迫した空気が張り詰める会場に、ぱしんと乾いた音が響いた。一年生だった葵の手の中に、最後の期待が込められたパスが通った瞬間だ。
 フリーだった。近づいてくる相手選手の焦燥に塗られた顔を冷静に流し、ボールを放った。完璧なフォーム。思い描いた軌跡通りに、柔らかな弧をなぞらえる。筈だった。
 相手チームのオフェンスは少々強引なことで有名だった。試合の勝敗を決めるシュートだっただけに、焦りは更なる強引さを引き出す。
 一年生ながらに戦力として、葵は後半からは出ずっぱりだった。スリーポイントを得意とし、確実に点を稼いでいた。一進一退を繰り返す展開に疲労は募る一方だったが、訪れた好機に、プレッシャーに、負けない自信はあった。
 葵の手の中から離れるまさにその瞬間、視界に影が差した。
 かすかに指先が触れたボールは、ゴールに近づくにつれ軌道をずらし、リングに弾かれ、無情な音と共に床に落ちた。直後、体育館内に響いた終了のブザー。
 ファウルだったオフェンスも、審判からは死角だったため無効。空中でバランスを崩した葵は着地時に、足首に鈍い痛みを残した。
 呆然と立ち尽くす先輩達の姿が目に焼きついた。三年生はこの大会で引退が決まっていた。入っていれば、葵達の高校が優勝だった。
 挨拶の後、ベンチに戻っていく足取りは一様に重い。俯いて歩く葵の耳に、脇をすり抜けていく幾人から、棘が向けられた。
「あんたの所為で負けた」
「外すなんて有り得ない」
「最悪」
 葵だけに聞こえるようにと、浴びせられた言葉たち。ぐるぐる頭の中を巡っていた。目の奥が熱くて、悔しくて、ぐっと奥歯を噛み締め堪えた。
 人目を盗んで試合会場である体育館を抜け出し、人影のない場所を選んで、葵は一人立ち尽くしていた。着替えもせず、握り締めたタオルを顔に押し付ける。零れ落ちそうになる嗚咽を必死に飲み下した。
 あれを決めていれば勝てた。引退試合を優勝で締め括れた。自分さえ…!
「み、見つ、けたっ…!」
 葵は身体をビクつかせ、顔をタオルにうずくませたまま固まった。
「葵っ…?へ、平気…か?」
 声の主は捜し始めて以降走り続けていた所為で、呼吸が乱れていた。途切れ途切れになってしまう。膝に手をつき、何とか整えようとする。
 発見者――遥を見もせず葵は呟く。タオルを押し当てている所為で、更に音量は小さくなっていた。
「……うん。平気…。だから、一人にして?」
 額に滲む汗を乱暴に拭った遥は、葵の突き放した言い方にむっと眉をひそめた。
「みんな心配してんぞ。急にいなくなりやがって」
「うん、ごめん。判ってる。けど放っておいてくんないかな」
 名前を呼ばれ、同時に手首を掴まれた。そのまま強引に引っ張られる。
「っ!やだっ!離してっ…遥!」
 顔だけは見られたくなくて、精一杯の抵抗をした。その場にへたり込み、遥も踏み止まらざるをえなくなった。掴まれた腕だけが、重力に逆らった中空に位置する。
 葵の頭上から深い溜息が落ちた。
「だったら、ここでいいから…足出せ」
 しゃがみ込んで、葵を座らせる。半ば強引に、ひねった方の足を遥は自分の太腿に乗せた。
 強制的な遥の手は、泣きたいくらい優しかった。有無を言わせない遥の空気に、葵は黙り込むしかない。
 ヒンヤリとした感触があてられ、小さく身を縮める。テキパキと手当てが済み、前髪をくしゃりとされた。その力強さに、葵の顔がわずかに仰け反った。タオルから離れた瞳がかち合う。
 困ったように、慈しむような笑顔を向けられ、葵の頬で羞恥心が弾けた。遥は笑みを濃くし、更に前髪をくしゃくしゃにした。
「お前が気に病むことじゃねーよ」
 遥の顔をまじまじと見つめる。
「実力のない奴らが悪い。人の所為にしか出来ない、ショボイ性根人間の言うことなんざ、真に受けんな。…頑張ったよ、お前は」
 ぺん、と掌でこぴんされて、遥の手が離れた。
「な?」
 覗き込む遥の笑顔に、葵の心音はうるさいくらいに騒いでいた。


[短編掲載中]