――変わらないということ。
 その泥濘の居心地の良さに、抜け出したいという願望が産まれないのは当然で。
 ――変わりたくないと、願うこと。
 それは単純に、逃げでしかないのかもしれない。
 ――甘くみる者は痛い目に遭う。気づいた時には手遅れになっている。
 そんな簡単なことも、自分には無関係だと決め付けて、目を逸らしていた。

「帰らないんか?なにしてんの?」
 遥と一緒に教室へと入った琢巳は、机に座っている亜理紗に声を掛けた。
葵と買物して帰るから今日は別々に、と言っていた筈だ。部活は休みで、真っ直ぐ帰ったところですることもなかった。暇潰しにと、校庭の端に備え付けられたスリーオンスリーのコートで遊んできたところだ。
「そっちこそ。ほんと、バスケ馬鹿なんだから」
 琢巳の脇に抱えられたボールを指差す亜理紗に、ふんと鼻を鳴らし近づいていく。
「うっせーよ。榊は?一緒じゃないのか?」
 どう見ても三人以外に教室内には居ないのに、琢巳は大袈裟に見渡した。
「連れてかれちゃった」
 遥に、ちらりと送られた視線。一瞬だけのそれに、含意があるように思えた。向けられた当人は怪訝そうな顔をする。
「連れてかれたって?」怪訝そのままの口調で問う。
 亜理紗は面白がってる風でもあって、たっぷり溜めた後、口を開いた。含蓄顔だ。
「告白、とみてるんだけどね」
「まじ!?」
 真っ先に喰い付いたのは琢巳だ。目一杯見開いた目を、亜理紗から遥へと移動させる。
「なんだよ。その目は」
 琢巳の言いたいことは、音にされずとも承知していた。わざわざ言われたくもない。
 なんでもねぇよ、と口笛でも吹くようなかわし方で、再び亜理紗を見た琢巳は「相手、誰?」と詰め寄った。
「誰だと、思う?」
 琢巳を見て問い掛けてはいるが、明らかにそれは遥に向かっている。内心辟易するも、全く気にならないかといえば、嘘になる。気にはなるが、琢巳のように喰い付くのも癪だ。
「物好きだな、そいつ」
 にべも無く言い放つ。己の心理を欺くも何もないのだが、口走っていた。
「お前、知らないだろ。榊って、結構モテるらしいぞ」
 返ってきたのは茶化し抜きの琢巳の声だった。やけに耳に残る。それを払拭するように、遥は「はぁ?」と素っ頓狂な返しをした。
「大体だ。告白されてんのなんか、今まで聞いたことねーぞ」
「そりゃ、そーよ」わずかに憤りを含んだ亜理紗が割って入る。「葵は紺野を好きだって公言してたんだもの。そこまでの猛者が今まではいなかったってだけのこと」
 今までは、を強調して亜理紗は言う。
 初めて聞く事実だった。亜理紗の瞳に揶揄する色はない。
「で。その猛者は誰なわけ」
 どうしても気になるらしく琢巳は急かす。問われた方はといえば、依然遥を見ていた。
「気になる?」
「全く」即答した。「あいつに告るなんて、奇特な人間もいるんだな」
 亜理紗が吐いた溜息の中に、「信じらんない」と混ざっている気がした。
「あれ、柴ちゃん。帰ってなかったの?」
 戸口を見遣ると葵がいた。きょとんとしている。距離がある所為かもしれないが、動揺しているだとか戸惑っている様子は窺えない。
 おかえり、と亜理紗が笑顔で迎え入れた。近寄ってくる葵も笑っている。
 とても告白直後には見えない。担がれたか、と不審感が湧いた。そんな遥の思考を吹き飛ばすようにして、亜理紗の直球が投げられた。
「どうだったの?告白だった?」
 途端、葵の頬に熱が上昇した。
「まじかよ。で、誰よ、相手」
 琢巳はさっきから同じ質問の繰り返しだ。遥にしても、そこを突っ込むより相手が気になった。
 葵は照れ入って、返答に困っている。答えを紡いだのは亜理紗だった。
「沙月先輩」
 遥も琢巳も、瞬時に固まる。耳に入った単語を脳内で反芻する間、沈黙が落ちた。
「二人とも、…や、三人か。ニブイよね。…葵も、全く気づいてなかったでしょ」
 亜理紗のしたり顔が沈黙を破った。
「柴ちゃんは、知ってたの?」
「外から見てる方が判ることもある、ってやつかな。あとは呼び止めた時の、先輩の様子とかでね」
 天然ボケっぷりで葵は「柴ちゃん、すごいなぁ」などと感嘆している。
「返事は?したの?」
 それを早く知りたいがために待っていたのよ、と言わんばかりの口調だ。基本、面白がってるらしい。
「う、ん…とね。断った…よ?」
「何故疑問系よ」
 すかさず突っ込んだ琢巳の横腹に、亜理紗の肘鉄が刺さった。葵は口籠もり、押し黙る。話し辛いのだろうと想像がつくのだが、亜理紗がそれを許すわけはなく。
「先輩、なんて?」
「うん?」
「なんて言ってきたの?」
 亜理紗は多少苛ついているようだ。どちらかと言えばサバサバ系の思考回路の持ち主である。話さなければ容赦しないよ、という気迫めいたものも感じられた。
「駄目もとだ、って」
 観念したのか、遥を気にしながらも葵は口を開いた。
「玉砕だとしても、どうしても諦められなくて、って言ってた。圏外にいるのは判っていたし、それでもせめて、視界に入りたかったって」
 へぇと、感心したような亜理紗の声がきっかけなのか、葵は落ち着きを無くした。
「やっ…もう、なんて言うかねっ。そのっ…。急でびっくりしちゃって…。これは告白なんかじゃないんだって、なんか、必死に思い込もうとしててっ…」
 捲くし立てて喋り出した葵を唖然と見守る。
「ていうか、あれって告白なの!?」
 何を今更、と突っ込みたいのを懸命に押さえ込んだ。それを告白と呼ばずして、何と呼ぶのだ。
「葵の返事は?」
「へ、返事…っていうか…」
「なに?」
「そうですよね、って」
「はいっ?」
 人の目は、本当に驚いた時には真ん丸になるんだな、なんて馬鹿げたことを、亜理紗を見ながら思ってしまった。頭のてっぺんから声が出ていた。
「どうしても諦められないって言うから…そうですよね。あたしも諦められないですもん。この気持ちだけは、どうしようもないですよね。…って言った」
 空気にヒビが入る音を聞いた。気がした。葵を見る三人の間に流れている空気が固まって、穿つ音が鋭く響く。
 いち早く気を持ち直した琢巳が「それから?」と促した。続きを聞きたいような、知りたくないような気分だ。
 場の雰囲気に圧されて、しゅんと萎んだ身体を益々小さくして、一段階小声になった声が発せられた。
「お互いに頑張りましょうね………って、ね。口から出てた」
 凝固した空気にいよいよ無数のヒビが入って、修復不可能なまま崩れていった。最早紡げる言葉は無く、開いた口が塞がらない。
 数秒の均衡状態を打ち破ったのは、またもや亜理紗だった。深く長い溜息が吐き出される。
「葵のことを好きだって沙月先輩は言ってるのに、あんただけには言われたくないわ。それ」
 呆れ返っている。容赦なく追撃した。多少なりとも沙月に同情をしているのかもしれない。
「あんたは頑張られたら困るでしょうが」
「あ…。そう、だね…」
 葵の天然っぷり最大発揮が証明された瞬間だった。混乱してて口走った、というよりは、葵ならば言いかねない台詞だ。
 言われて初めて、考えなしに口を開いていたと気づいた顔で、どうしよう、と亜理紗に縋るような目を向けている。
 苛々していた。
 明確な理由は、自分でも不明だ。葵が教室に入ってきた時から、否、呼び出しがあったと聞いたときから、内側に蠢いている。


[短編掲載中]