青天の霹靂。鳩に豆鉄砲。転変地異。震天動地。
 一驚を喫した脳内で、とりあえず落ち着けと伝令が下るものの、ことわざなんかが駆け巡っていた。落ち着けるわけがない。
 おおいに面食らった遥が、小西彩と向かい合っていた。言葉を失い、互いに見つめ合う。
 過去に散々、葵が“告白”してくる度に引き合いに出していた相手だというのに、実際言葉を交わしたことは数えるほどしかない。何度か部活を見に来ているのを見掛けたことはあるが、声を掛けたことも掛けられたこともなかった。
 彩が放った言葉の意味を取り込んで、理解しようと思考をフル回転させた。総動員した結果、間抜けな問い掛けを口走っていた。
「俺?」
 ご丁寧に自分に向けて指を差す。せめてもの取り繕いとばかりに、表情を引き締めた。それまでさぞかし、間抜け面を晒していたことだろう。
 照れ入った彩の顔がこっくりと頷く。思わず一歩後退りそうになるのを、ぐっと我慢した。
 続けざまに「なんで?」と発しそうになって、慌てて飲み込む。間抜け極まりない単語しか思い浮かばない。混乱して、まともなことは言えそうになかった。
「あの…、返事は急がないから。考えておいてね」
 遥の無言を困惑ととったのか、落ち着きなく口早に告げると、彩は逃げるように去っていった。残された遥にできたことは、呆然自失然と立ち尽くすことだけで。
 何が起きているのか把握するまで、数分要した。信じる信じないは、別次元のことだったのだが。


 部活が始まり、準備運動を経て、男子部員はランニング、女子部員は基礎練となった。体育館をフルで使用できる曜日は決まっており、今日はバレー部と半々だった。全員の一斉練習までのスペース確保が難しいので、交代で走り込みと基礎練習の流れになっていた。
 先にランニングとなった男子部員が騒々しく外へと向かう途中、数名の部員が遥にちょっかいを出す。
「さっきのなによ。告ってきたんか?」
 心臓が飛び跳ねたが、努めて平静を装う。殊の外大きい声に、相手の口を塞いでやりたい衝動を抑えた。無意識に葵の位置を確認している。背中が向いていたことに安堵している自分がいた。
 遥は向き合うと不機嫌な顔つきをぶつけた。相手は怯むどころか図に乗ってくる。
「小西さんの用件、告白なんだろ」
 疑問形ではあるが、断定的な言い方だ。
 踏みとどまれば遅かれ早かれ葵の耳に届く。その事態だけは避けたく、足早に進む。思惑通り喰らいついてくる部員と共に、体育館をあとにした。
 部活開始直前、遥は小西彩に呼び出された。体育館の出入口付近で、部員を経由してだった。体育館にいた全員が、その呼び出しの瞬間を知っている。
 普段見掛ける彼女とは少し様子が違うな、という程度の認識で、用件の想像すらしないままついていった先、人気のない場所で、告白となった。
 それが数十分前のことなのだが、未だ「有り得ない」という認識のままだ。


 鬼のようなランニングを終え校庭に入り、体育館へ戻る前にグランドの隅に設置されている水場で頭から冷水を被った。火照った頬で蒸発して湯気でも発しそうだった。木陰にいれば少しは涼しい風も受けられ、腰を下ろして休憩する。
後ろめたいことがあるわけではないのに、体育館の方は見れなかった。小西彩の顔が脳裏にちらつく。
 ふと、すべての思考が無になる時、決まって思い出すのは誕生会でのことだ。酔っていたとはいえ、だからこそ、あれは本心だったのではないかという気がしてならない。言わせたのは自分だ。あんな顔をさせたのも、この自分だ。
 もやもやしたものが渦巻いて、重い澱が溜まっていく。蓄積される一方で、払拭する術がない。 思案に暮れていると、突然空気が急変した。
 外でぐったりと休憩している中に、鋭く割り込んだ顧問を呼ぶ声は、動揺が色濃く出ていた。そこにいた全員が一斉に声が飛んできた方、体育館の方を向いた。女子部長が息急きって、再度顧問を呼んだ。泣き出しそうにも見え、尋常じゃないことが察せられる。
 駆け寄った顧問の腕を引っ張った。入口に立てば中の様子が見え、顧問の顔色が変化した。強張り、青褪め、女子部長を置き去りに走っていく。
 何事かと男子部員も集結し始め、その流れに混ざっていた遥は窺い見えた光景に、反射的に身体が反応していた。走り出した遥の横を、影が追い抜かしていく。すぐさま見えた背中に、沙月だと判った。
 ゴール下の床に、女子部員で出来上がった輪の中心に、葵がいた。ぐったりと、寝転がっている。無表情なまでの顔。閉じられた目蓋。投げ出された手足。微動だにしない。
「榊?」
 顧問はなるべく動かさないようにして、肩を叩き呼び掛ける。無反応だ。
「一体なにがあった」
 咎めるような口調ではなく、促す冷静さで顧問は取り囲む輪を一瞥した。その中の一人がまごつきながら口を開く。
「ゴール裏に引っ掛かったボールを、取りに行ったんです」
 飛び越えてしまったボールが引っ掛かることはたまにある。それを生徒が取りに行くことは禁止されていた。当人でもないのに説明を発した女子部員は、怒られた小学生のように身を縮めている。
「止めたんです、けど…大丈夫だからって…」
 状況を聞くところによれば、制止も聞かず、自分が引っ掛けたものだからと葵は動いたらしい。ひどく苛ついていて、それを必死に押し隠そうとしていた。どこか上の空で、そのくせ、湧き出す思考を押し込めているようだった。練習に集中している風ではなかったという。
 暴投したボールが床に落ちてこなかった時も、数秒そちらを睨みつけていたかと思うと急に動いて、憂慮の声を振り切りよじ登った挙句、落ちた。
 珍しい。そう思った。
 時折頑固な一面をみせることはあっても、基本規律を護る人間だ。律儀すぎて要領が悪くなることもしばしばあるくらいで。馬鹿正直で割を食うこともある。しっかりしているようで、誰かが見ててやらないと危なっかしいところもあった。
 これまでの葵を思い返せば絶対に、禁止されていることはやらかさない。と言える。無茶も然り。
 部員の一人が、保健医を呼びにいっている間、じっと、穴が開くほどに葵を見つめていた。
 小さく声が洩れて、身じろぎした。ゆっくりと瞳が開いていく。
 真っ先に遥が名前を呼んでいた。笑ってしまうくらい、余裕の無い声音だ。
「う…ん…」
 遠く天井にある照明が眩しいのか、鈍重な動作で手をかざす。意識が朦朧としているらしく、焦点が合っていなかった。遥は光を遮るようにして葵の視界に入り込み、また名前を呼んだ。
「あ、たし…?」
 葵の視点がのろのろと遥を捉えた。それから自身を取り囲んでいる沢山の顔をくるりと眺めた。もどかしいほどの速度で想起しているらしく、惚けた表情だ。
「葵、平気か」
「え。…うん」
 皆に見下ろされている状況が居心地悪いのか、気恥ずかしそうにして上半身を起こした。
「え、っと…あたし?」
「落ちたんだよ。ボール取りに行って。気失ってたんだ」
「…ああ、うん。そっか。…そうだった、ね」
 見たところ怪我をしている様子はない。じんわりと思い出したのか、再度そっか、と呟いた。
「痺れてたり痛むところはないか」
 葵の身体を支えながら顧問は問う。
 言われてから自分の身体を一通り見渡して、こくりと頷く。横にいて視察していた顧問は少しだけ安堵を滲ませた。
 遥は葵の腕を掴み、顧問に向かって言った。
「コイツ、帰らせていいですか。送ってく」
 最後は葵に言う。当の葵はきょとんと遥を見ていた。打ち所が悪かったのではと心配になる。
「えっと…。紺野くんが?なんで?」
 更に不安を煽る言だった。わざとらしいところはない。本気で言っている。
 葵が遥を名字で呼ぶのは、ひどく昔のことに思える。出逢ったばかりの頃、つまり中学で、始まりは互いに名字だった。仲良くなるにつれそれがむず痒く、遥の提案で呼び方を変えた。以降ずっと、一度だって名字で呼ばれたことはない。
 なんで、の後には何が続くというのか。
 ――どうして貴方が、自分を送って行くと言うの?
 葵の瞳がそう言っている。ように思えた。
 送っていく。方角が同じだから。クラスメイトより、部活仲間より、仲のいい位置関係にあるから。当然だろう?
 そう考えていたのは、単なる驕りなのか?
 普通じゃない?それとも、今までは当たり前で、今の状態では当たり前じゃないってことか?これからは違うのだと?
 ぐるぐる巡る負の思考を払拭すべく、強制終了させた。返答が変なのは、頭を強打した所為だ。直後で混乱しているだけだ。こじつけみたいに、遥は結論づける。
 んなことがある筈がない。と、信じ込もうとしていた。
 目の前にいる葵は、戸惑いを隠していない。救いを求めるべく、周囲を見渡していた。困惑が容易に見て取れた。
 葵の動揺が遥に伝播する。冷静さを欠きそうになって、落ち着き払った声が侵入した。
「僕が送っていくよ」
 横槍を入れたのは、沙月だった。真っ直ぐに葵を見据え、柔和な表情を向けている。見つめ返す葵の双眸が、安心したように見えたのは、遥の気のせいだろうか。
 俺、卑屈になっていないか?
 葵の返事を待たずして、顧問が呆れて息を吐いた。
「玩具の取り合いみたいなこと、すんな。榊は俺が送り届ける」パンパンと手を叩き「ほら、さっさと練習戻れ。部長、頼んだぞ」


[短編掲載中]