「やっぱり俺と結婚しない?」
 真木瀬の声に、過去から意識を戻される。思わず口端に笑みが浮かんでいて、慌てて引っ込めた。
「……プロポーズの言葉って、連発されると感動が薄れてっちゃうものなんですね」
 柚乃の手を握り締め、わざとらしく迫る真木瀬ににっこり笑みを向けた。
「ひっでーな、柚乃ちゃん。俺はいつだって真剣だよ?」
「うら。いい加減にしろ。セクハラじじ」
 いつの間にやら近くにきていた隆人が、注文用紙を挟んでいるクリップボードの角で真木瀬の頭を攻撃した。プラスチック製とはいえ、それなりに力を込めれば結構痛いらしい。小さく呻いて睨め付ける真木瀬は、瞬間的に本気で怒っていた。
「ゆーの。早く逃げろ」
 しっしと追い払う仕草をする。はぁい、と間延びした返事を返した。今だ痛がっている真木瀬には申し訳なかったが、可笑しくて笑ってしまう。
「柚乃ちゃん、ひどい。隆人なんかに感化されないでくれよー?」
 懲りず柚乃に話し掛ける真木瀬に「了解しました」と返して居住区へと続く扉に手をかけた。ふと、動きを止める。
「明日何時くらいに持っていけばいいですか、ランチ」
 予定しているメニュー内容と自身の調理速度を思い描いて、準備にかかる時間を計算した。出来上がってから配達するまでは、十分もみておけば平気だろう。
「んなもん、キャンセルだ。キャンセル」
 商売人らしからぬ発言を吐き出す隆人を丸無視して、真木瀬は昼食時間帯の範囲内で、と曖昧なことを言う。休日出勤なので決まった昼休み時間を設ける必要が無いらしい。
「俺専用の甘味もリクエストしちゃってよい?」
 柚乃が約束を覚えていたことにすっかり気を良くし調子に乗る。俺専用、を強調する真木瀬に、隆人は露骨に眉根を寄せた。
 真木瀬は甘いものが大の苦手だった。柚乃は、調理はいまいち苦手だったがお菓子作りはそれなりに得意としていた。白露庵で特別メニューとして出すこともある。柚乃の手作りが食べられない、と嘆いていた真木瀬でも食べられるようにと作ったのが、甘味を抑えたデザートだった。それ以来、試食係も兼ねて真木瀬はちょこちょこ食べる機会が増えている。
「よいですよ。リクエストとかありますか」
 真木瀬が悩んでいる隙に、隆人は背中を押して強引に扉の向こうへと柚乃をおいやった。
「つれないねー、嘉瀬くんは」
 柚乃がくぐった扉を見たまま真木瀬はぼやく。
「ねー。柚乃ちゃんばっかで、妬けちゃうな」
 背後からいきなり参戦してきた伊吹も冗談めかす。この二人が組もうものなら長期戦に突入間違いなしなので、隆人は黙殺して仕事に戻っていった。



◇◇◇



「柚乃ちゃん」
 学校の廊下で突然名前を呼ばれて、柚乃は戸惑った。声を掛けられたことに対してではなく、声が男のものだったからだ。これまで柚乃を下の名前で呼ぶのは、嘉瀬夫婦や真木瀬、それに施設の園長や職員、クラスで仲良くしている女子くらいなものだった。それ以外はみんな「名字」で「さん」付けだ。
「驚いた顔されちゃうとこっちも驚いちゃうんだけど」
 困ったような、照れたような表情で唖津は近づいてくる。
「すみません。慣れてなくて…。ちょっとびっくりしちゃいました」
「いきなりはないよね」
 ごめん、と付け足す。柚乃が首を横に振るのを確認して、ほっと胸を撫で下ろした。
「柚乃ちゃん、って呼んでもいい?」
「えと…はい。構わない、です」
「じゃー俺のことも唖津って呼んで?」
 嬉しそうにされるとくすぐったい心地がせり上がる。が、それとこれとは別物で。
「……努力します」
 想定外の回答だったらしく、唖津は小さく笑った。「じゃーそんな感じで、宜しくお願いします」
 唖津の屈託無い笑顔を見ていると、ほこほことした感触が湧いてくる。
「柚乃ちゃんってさ、男嫌い?」
「え?なんでですか?」
「なんとなく。野郎と談笑してるの見たことないし、なんだろ、言葉遣いのせいなのかな」
「やっぱり変ですか?」
「変ていうか、誰に対してもってのはあまりいないな、と思って」
 同級生であっても年下であっても、柚乃の口調はこれが通常だ。
「そうですよね。小さい頃からなんですよね、これ。もう癖になっちゃってるので直すのは大変と言いますか…」
 正確には、“白露”の時から。それを誰かに話す気はなかった。
「直す必要はないと思うよ。言葉遣いが悪いとかじゃないんだし。そのまんまでいいと思う」
「そう言っていただけると嬉しいです」
「やっぱり、ってことはさ、前にも指摘されてた?」
 唖津はなかなか鋭い。耳聡い、というか。
 脳裏を掠める、涼しげな双眸をした少年。達観しているような眼差しも凛とした纏う空気も、柚乃と同い歳であることを時々忘れさせた。彼の記憶は知らずの内に、柚乃の口元を綻ばせた。
「誰にでもですます口調じゃ硬っくるしいだろ、って呆れられちゃいました」
 柚乃は困ったようにして笑音を洩らす。
「彼氏?」
「えっ!?」
「随分な言い草なのに、柚乃ちゃん厭がってる風でもないから。彼氏とか好きな人に言われたなら、そーゆう風に笑うのかなって、思ったんだけど」
 違う?と唖津の瞳は柚乃を見つめる。
「ちちち違いますっ。彼氏とかっ…好きな人とかじゃ、なくって…!」
 一気に顔面一杯熱を上昇させた柚乃はしどろもどろ否定する。あまりの慌てぶりに唖津は一瞬きょとんとし、相好を崩した。
「怪しいなぁ、その慌てっぷり」
 唖津はからかい体勢だ。
「ほんとに違うんですっ」
「ムキにならないでよ」
 判ったから、といった風に両掌を持ち上げて柚乃に制止をかける。
「じゃあ、今好きな人は……いる?」
 急速に、いたって真面目に問われると、人間は思考が停止したままでもとりあえず真実を先に告げようとするものらしい。思いっきり首を横に振る。
「そっか。よかった」
「急に、変なこと訊かないで下さい。びっくりしました」
 柚乃に唖津の発した言葉の意味を考える余裕はなく、ひとまず柚乃にとっての『変なこと』の質問タイムが終了の兆しをみせたことに安堵する。
 そして、唖津の真っ直ぐな視線と無言なことに思考が動き始め、つい先ほどの言を思い出し、反芻するよりも先に口をついて出ていた。
「よかった、って?」
「柚乃ちゃんに好きな人がいなくてよかった、って言ったんだ」
 その意味を、理解できないほど鈍くはない。かといって、どう返していいかは判らない。
 唖津は先回りして続けた。
「誰かの為に探りを入れてるわけじゃないよ。俺、そんなにお人好しでもないから」
 軽口調の為、どこまで本気なのか判らない。今現在唖津が浮かべる笑顔は、どの角度から見ても『人のよさそう』さが滲んでいる。
 依然返答に窮していると唖津は笑みを濃くして更に続けた。
「俺の為に探り入れてんだ」
「え?」
 柚乃は小首を傾げる。
「あの朝は、ほんとラッキーだったよ」表情に照れが見え隠れしていた。「なんて、告白まがいのこと言われても困るよね」
「え、あの…」
「でも知っておいて。俺はずっと、柚乃ちゃんが気になっていたんだ。こうして普通に話が出来るようになりたかった」
「えと。ごめんなさい。どう答えていいのか」
 しどろもどろ再来。唖津は笑み崩れた。
「ごめん、ごめん」
「でも、どうしてですか。話したこともなかった相手なのに」
 電車の中で携帯電話を落として、それを唖津が拾わなければ、たぶん今だに挨拶すら交わさない関係だった。
「俺ね、兄がいるんだ。ひと廻り歳の離れた兄が」
 ひと廻り、に思わず心臓が跳ねる。単なる偶然だと判っているのに。こんな風に反応してしまうのは、ここ最近になって思い出した優しい記憶の所為。
 動揺を隠して、柚乃は先を促す。
「歳の離れたご兄弟なんですね」
「うん。しかも半分しか血が繋がってないんだ」
 今度こそ、隠しきれない動揺が表面化した。指先に力が篭もる。柚乃に視線を置いていなかった唖津は気づかなかったらしく、続けた。
「腹違い、っての?それなんだけど、いい人でさ。仲は良いんだ。本当に」
 学校にいる誰もが知らない事実を知っているのではないかと疑るも、それを確認する術を柚乃は持ち合わせていなかった。ひたすらにこの動揺がばれないことを祈るのみだ。
「そ、うなんですか」
 必死に相槌を打つ。唖津の表情から判断する限りでは、柚乃が危惧するような含みがあるようには見えない。純粋に、唖津が「兄」に好意を持っている、としか見えなかった。
「でね。似てるなぁ、って思ったのが最初。それから気になったんだよね、柚乃ちゃんのこと」
 変なきっかけでごめんね、と言い加える唖津の声は、最早柚乃の耳には届いていなかった。


[短編掲載中]