歌を、歌っていた気がした。
 記憶がぼやけていて、意識が霧の中にあるみたいで、ついさっきまでのことが思い出せずにいた。懸命に手繰り寄せ、少しずつ時間を巻き戻していく。
 目蓋を開けても、そこにあるのは闇だけで。
 少しずつ、少しずつ、じんわりと戻ってくる記憶。意識が途切れる寸前を、巧く思い出せない。今のこの状況を招いた原因が不明だった。
 ずきり、と痛んだ。どこが?…どこもかしこも。身体中が痛い。一番痛いところ?…そんなの決められない。
 母を呼んだ。返事はない。
 手繰り寄せた記憶。鮮明になっていくそれの中で、思い当たることをしかと掴み取る。隣にいた筈だ。母親と自分は後部座席に。兄は助手席で、運転は父親だった。乗用車に乗って、山間の田舎道を走っていた。
 久し振りに取れた二日続きの父親の休みに合わせ、家族旅行に出掛けた。こんな風に家族揃って出掛けるのは本当に久し振りで、一泊とはいえ泊まりがけなのが嬉しくて仕方なかった。
 なのにどうして、こんなことになっているのだろう。
 快適な温度に保たれた車内にいた筈なのに、ひどく寒い。肌に触れる感覚は冷たく、ざらざらとして不快だ。口内いっぱいに広がる鉄の味も吐き気を誘うし、無音の闇が怖い。
 父を呼んだ。応えない。
 道は山間部に入り、トンネルを潜り抜けていた。細く狭いトンネルを抜ける度数えていたけれど、あまりの多さにそのうち数えるのを止めた。ラジオもトンネルに入る度に砂嵐音になり、父親が止めたのを覚えている。長時間のドライブを楽しむ術として、歌を歌い出したのは自分だった。母親がそれに乗ってくれて、父親は歌いこそしなかったものの、ミラー越しに柔らかな笑みを向けてくれた。兄が振り返り「ゆんは本当にその歌が好きだな」と言って、笑った。
 闇に閉ざされる直前に見たのは、兄の笑顔。
 その地域は地震に免疫が殆どなかった。大地が引き起こした揺れは、老朽化したトンネルを崩落させ、一台のバスと四台の乗用車を呑み込んだ。
 土砂の中から、瓦礫の隙間から、車の陰から、生還した人間はたったの四名。その中に、兄と柚乃がいた。

 遠くから、自分を呼ぶ声がした。ぼやけた頭の中に響いている。
 徐々に近づいてくる足音が、名を呼ぶ声が、誰のものかはっきりした時、柚乃は目蓋を開けた。見慣れた天井が視界に飛び込んでくる。金縛りにあった後の倦怠感のようなものが全身を包んでいた。
 ノックの音がして、返事を返すよりも前に、目尻を濡らしている存在に驚き、乱暴に拭う。記憶に刻まれた過去が、胸を抉る。
「柚乃ちゃん、起きてる?」
 半身を起こし、目覚まし時計を確認する。十五分の寝坊だ。スヌーズ機能の三回目が鳴りそうな気配をみせ、スイッチを切った。けたたましい音に気づかず眠りの淵に落ちていたらしい。
「柚乃ちゃん?」
 扉の向こう側で伊吹の心配声があった。慌てて応じる。
「起きてます。すぐ降りますね」
 寝坊も、泣きながら目覚めたことも、初めてのことだった。



◇◇◇



 視界の端に走った影に、柚乃は咄嗟に反応できずにいた。視覚は反応していなかったけれど反射的に出していた手の中に、その影はちょん、と乗っかった。ひんやりとした感触を落としている。掌に乗っているのは、紙パックのジュースだった。ピンクのパッケージの、イチゴミルク味。
 首を巡らせ、飛んできた方向を見遣る。
「汐見くん」
「よっ」
 爽やかさを背負った笑顔を浮かべ、近づいてきた。目の前まで来て立ち止まるのを待ってから、柚乃は疑問符を滲ませ唖津を見つめた。ジュースを持ち上げる。
「これ…?」
「あげるよ。自販機でこれのボタン押したら」自身の手にあるコーヒー牛乳を柚乃に見せる。「こっちが出てきた」と言って、柚乃が持つイチゴミルクを指差す。
「嫌い?」
「いえ。大好きです」
 あまりジュースを購入することはない。することがあればほぼ十割の確率でこれを選ぶ。
 亜津は何事かをぼそりと呟いた。口元が綻んでいる。あまりに小さな呟きで、柚乃にまで届かない。聞き返すと唖津は「なんでもない」と笑みを深くした。
「じゃあ、それ飲んでやってよ。たぶん業者の入れ間違いなんだろーけど、こんなミス有り得ないよなぁ」
 苦情言ってやろうか、なんて文句を述べていても、さして気にしている様子はなかった。
「ではお金を…」
「いいよ。奢り」
「そんなわけにはいかないです」
「強引にあげちゃってるわけだし、好きだって言ってくれる子に飲んでもらった方が本望でしょ。それに、」
 いったん区切る。唖津は茶目っ気たっぷりだ。「俺、金持ちの息子だから」
「汐見くんが言うと全然厭味に聞こえないですね」
 下手をすれば、一般人とは違うと別格のレッテルを貼られそうな産まれであるのに、それを感じさせないのは、ひとえにこの人格のおかげなのだろう。
「すごいのは親だからね」
 二人の声が揃う。柚乃はわざと言葉を重ねた。唖津は瞠目している。
「…ですよね?噂で知ってたので、口真似してみました」
「あれ。俺そんなに頻繁に言ってたかな」
 首の後ろを掻いている。
「たぶん、印象に残ってたんだと思います。全く鼻にかけない人なんだろうな、って想像してました」
「てことは、前から俺を知ってたってことだ?」
「そうなりますね。汐見くんは自覚されてるよりも有名だと思いますよ」
「それって光栄なのかな」
 独り言のように零して首を捻る。どうでしょうね、と柚乃は笑みを返した。
「そういえば、」
 つと顔色を曇らせた柚乃に対して、唖津も笑いを引っ込める。
「なに?」
「気にするほどでもないのかもしれませんが。一応耳に入れておいた方がいいと思いますので」
「うん」
「今朝ですね、通学路の途中で声を掛けられたんです。お世辞にもガラが良いとは言えない方達で…」
 唖津にはすぐにぴんときたようだった。眉根をひそめる。
「なんかされた?」
「いえ。ただ、汐見唖津を知ってるか、と」
 柚乃が知らないととぼけると、他の生徒にも同じ質問を繰り返していた。みな一様に首を横に振っていたが、そのうちの一人に向かって「とって喰おうってんじゃねーんだ。呼んできてもらいてぇだけだ」と、およそ人にものを頼む態度とは掛け離れた態度で威嚇していた。
「心当たりがあるのですか」
「いやー。お知り合いってわけじゃないんだけどね。そっか、そっか」
 それまでの空気を一掃し、明るい口調で唖津は言葉を放つ。柚乃の質問を受け付けない雰囲気を醸し出していた。






 本物の珈琲を飲ませてやる。と息巻いた隆人は、客商売向きとはほど遠い顔つきでカウンター内に仁王立ちしていた。こぽこぽと心地よい音を零してサイフォンで淹れられていく様を、唖津は興味深げに眺めている。カウンター席に唖津が座り、少し離れた位置で伊吹は対面する男二人の様子を傍観する。笑いを引っ込めるのに苦労していた。
 自室で着替えを完了させた柚乃が店内へと戻ってきて、ようやと空気が解ける。襟付の白シャツに黒パンツ、踝丈のソムリエエプロンを着用というのが、白露庵の勤務スタイルだった。
「柚乃ちゃん、格好いいー。そーゆう格好、一回してみたいんだよね。似合ってる。うん」
 姿を見つけるや感嘆の声をあげる唖津にいたって真面目に感想を向けられ、柚乃の顔面がはにかみに染まった。
「ありがとう、ございます」
 照れ臭さを隠す為、そそくさとカウンターに入り隆人に並ぶとカップを用意する。おちたばかりの珈琲を隆人が注ぎ、唖津の前に置く。湯気と共に香ばしい香りが鼻腔をくすぐった。
「砂糖とミルクは要りますか」柚乃が問う。
「邪道だ。そのまま飲ませろ」
 接客態度をすっかり棄てた隆人は、ずいとソーサーを押してカップを唖津の前に運んだ。
「え。でも…」
 砂糖やミルクを入れれば味が変わると嘆く半面、商売柄それらを出さないわけにいかない。という体制でいる隆人が、内面では渋面を作っているのは柚乃も知っている。が、実際口にしたのを聞くのはこれが初めてだった。戸惑う柚乃は両手に用意した格好のまま隆人を見上げる。
「大丈夫だよ、柚乃ちゃん。基本はブラックなんだ」
 いただきます、とカップに口をつける。
 校内の自販機で買えるのは砂糖とミルク入りのもの。今日、唖津が飲んでいたのもそれだった。
「……うん。美味いです。うちで飲むのとは天地ほど違いますね」
 素直に飛び出した称賛に隆人は気を良くしたのか、棘々しさを少し解いた。
「だろ。本物は違うんだ」と胸をはる。
 珈琲を淹れる技量にはかなりの自信を持っていても、褒められれば嬉しいらしい。ひと廻りの歳の差が感じられなくなるほどに子供っぽく笑った。
 どこから仕入れてきた情報なのか不明だが、唖津は柚乃が喫茶店に住み込んでいることを知っていた。外観も内装もそこにいる人達も素敵なんです、と柚乃が綻ぶと「行ってみたい」という流れになったのだった。拒む理由もなかったしバイトも無かったので、そのまま放課後一緒に連れ立って帰ったら、伊吹にはからかわれ、隆人は妙な対抗心を剥き出しにした。
「隆人さんの珈琲は白露庵の自慢ですから」
「可愛いこと言ってくれるじゃないか」隆人は感極まった真似事をした。
「はいはい。馬鹿なこと言ってないで仕事してよね。隆人」
 伊吹は平淡に据えた目を隆人に向け、唖津にエプロンを差し出した。「これ、着てみる?」
「いいんですか?」
 喜色満面になった唖津にどうぞと言って渡す。
「その代わり、働いてもらうわよぉ?」
「はいっ。もちろん!」
「じゃあ、奥で着替えますか」
 案内役を買って出た柚乃が居住区の方へと先導する。
 校内でも明るい性格の持ち主である唖津の周りには大抵誰かが傍にいた。一人でいることの方が珍しいくらいで。笑顔の絶えない空間を持っている人だと、柚乃は以前から思っていた。
 自分とは違う位置にいる人だ、と。
 ほんの少し前までは別位置にいた彼が、今は手を伸ばせば触れられる距離にいて、学校でも見せたことのないようなはしゃいだ笑顔をしていることが、不思議だった。くすぐったい、不思議さだった。


[短編掲載中]