「柚乃ちゃん。惜しいっ」
 伊吹は、扉を開けて入ってきた柚乃を見つけるなり悔しがる。夕刻の色が、白露庵の店内を橙色に染めていた。ただいますら言わせなかった素早さに、柚乃は呆気にとられ、扉を開けた格好のまま動きを止めた。
 白露庵のちょうど真裏に居住区の玄関はある。夕方は夜の準備時間になっており、一旦客はいなくなる。平日の柚乃の帰宅もたいていこの時間帯だった。居住区の方へ廻るのはさして手間ではないのだが、嘉瀬夫妻は店にいるので、学校から直行するバイトが無い日は店の方から帰宅することが多かった。
 数瞬ののち、固まっていても仕方ないと意識を戻し踏み入った。
 カウンター内にいる隆人は憤然とした様子で、二人が喧嘩でもしていたのかとよぎるも、伊吹の表情を見ている限りではそれは無いと判断できる。
 「おかえり」の挨拶をくれる隆人に「ただいまです」と返し、いつもであれば奥へと進む足を止め、カウンター席に鞄を置いた。どうやら本当に機嫌が悪いらしい隆人から、テーブル席のセッティングをしている伊吹の順に見た。
「惜しいってなんですか」
「可笑しいでしょ。隆人、むくれてんのよ。年甲斐もなく」
 伊吹からは堪えきれない笑いが零れている。
「誰がむくれてるんだっての」
 すかさずカウンター側からむすりとした抗議が飛び出した。
「えと。…喧嘩でもされたんですか」
 二人の間に挟まれている位置に立つ柚乃は対応に困る。全く状況が飲み込めない。可能性が低い原因を問うて様子見したものの、隆人は無反応だった。ここは伊吹に説明してもらう方がよさそうだ。
「なにがあったんですか、伊吹さん」
 隆人と正反対に、伊吹は楽しそうだった。
「柚乃ちゃんにね、お客様がきてたの」
「真木瀬さんですか」
「そこで、なんで、あいつの名前なんだよ」
 隆人の声のトーンが一段階下がる。真っ先に出てきた名前に、更に機嫌を悪くさせてしまったらしい。
「違う違う」あはは、と伊吹は軽やかに笑う。「白露庵のお客じゃなくて、柚乃ちゃんを尋ねてきた子がいてね」
 とくん、と鼓動が脈打つ。
 柚乃を尋ねてくる人物など、数えるほどしかいない。その数えるほどしかいない人達の大半を、隆人と伊吹は知っている。二人が知らなくて、柚乃を尋ねてくる人物。一番可能性が低いと定めている者が脳裏を掠めた。
 自ら足跡を消したくせに。思わず反応している自分を自嘲したくなる。
 同時に、「人」ではなく「子」と言った伊吹の言葉に、予感は否定されるのだと、縋ってもいた。
「ついさっき帰っちゃって…。引き止めたんだけどね、待っててくれたらもうすぐだと思うからって」
 本当に残念そうに眉を下げる。
「名前とか、言ってませんでしたか」
「聞いてるわよ」
 ちょっと待ってね、と言って、エプロンのポケットから注文用紙を挟んだ小さなクリップボードを取り出す。またメモ帳代わりに使用したから隆人は機嫌が悪いのか、とも思ったが却下した。小事はその場限りで終了するタイプだ。第一、普段からやっててその度に注意してるのに、今更引っ張ることでもない筈だ。
「うん、とね。あれ、なんて読むんだった?」
 伊吹は問い掛けるも、隆人は聞こえないふりをしてグラスを磨いている。しょうがないわね、と呆れ、近づいてきて柚乃にメモを見せた。
「顔立ちに似て、綺麗な字を書く男の子よね。これって、シロモトくん、なのかな」
 見慣れた注文用紙に、懐かしい字があった。
「キモト、です。城本カイリ」
 呟きと同時に、顔が浮かぶ。忽然と、メモ書き一枚だけを残して施設から消えた人物の顔を。
 施設の中でも同じ事故に見舞われた所為か、柚乃と彼はひと括りにされがちで、実際、仲はいい方だった。と思っていた。
 それだけに、自分にさえ何も言わずに姿を消されたのが、悲しかった。
「そうそう。城本くん」
「いつくらい前ですか!?」
 柚乃が勢い込むのは珍しい。伊吹は若干気圧されていた。
「…ほんの数分前、よ」
 答えながら、城本カイリが出て向かった方向を無意識のうちに指で差していた。
「あたしっ、ちょっと行ってきます!」
 言うや、柚乃は店を飛び出した。

 弾丸が如く柚乃が飛び出していって三十分強。苛立ちを押し込めようと努力する隆人を余所に、伊吹は鼻唄まじりにバーの開店準備を進めていた。
 幼少の頃、身に降りかかった体験からなのか、その後の施設生活が沁み込んだ所為なのか、柚乃には年齢に不釣合いな醒めた部分があった。言葉遣いの所為だけではない。彼女が素を見せないように覆っているのだと、伊吹は思っていた。
 それを無理矢理剥がす権利は誰にもなく、時間がかかっても、いつか自分達に心を許してくれればそれでいいと思っていた。けれど、どこか寂しさを拭えなかったのも事実で。予期せぬ場面で素の柚乃を垣間見れたことが、嬉しかった。
 からん、と開扉音がして、戸口に柚乃が立っていた。軽く息が上がっていて、何食わぬ笑顔を浮かべていたが、気落ちしているのが窺えた。
「見つかりませんでした」
 残念です、と呟きながらカウンター席に置きっぱなしにしていた鞄に手を伸ばす。「着替えてきますね」
「彼氏?」
 伊吹は、さっさと引き上げようとする柚乃を逃がすものかと引き止める。鞄を取り落とし、柚乃の頬に熱が上昇した。
「ち、違いますっ」
「あやしーの。じゃあ、好きな子?」
「伊吹。柚乃が違うって言ってんだから違うんだろよ」
 三十分以上経過してもまだ不機嫌が健在な隆人は、話を寸断しようとする。大方の理由は、伊吹が掘り下げようとする話題を打ち切りたいだけなのだけれど。
「すっかり父親気取りよね。柚乃ちゃん、結婚する時大変よぉ?」
 伊吹は双方の反応を完全に楽しんでいた。
「伊吹さん…。勘弁して下さい。カイリは同胞、というか、同士ですね。同じ施設にいたんです」
「なんだぁ、残念。じゃあ、唖津くんが本命?」
「違いますってば」
「だって、隆人をからかう絶好のネタだと思って。この人ってばね、城本くんが柚乃ちゃんの名前出した時からずぅーっと不機嫌だったの」
「伊吹」
 隆人の諌める声に、伊吹はちらりと舌を出した。
「カイリには大切な存在がいるんです。もうずっと。それこそ小さい頃から。宿命の人を護るって言ってたんですよね」
 残念がっている様子はなく、想い出を語る柔和さで柚乃は口にした。そして、仲間で共有する秘密を大切にしているような、微笑みが浮んでいた。
「運命の、じゃなくて…宿敵?」
「宿敵を護ってどうするんですか」
 わざとらしい伊吹の言い間違えに笑み崩す。
「宿命の人、らしいです」
 懐かしい名前に触れ、記憶が柚乃の中に鮮明に蘇る。カイリが柚乃にだけ、明かしてくれたこと。自分には護るべき存在があるのだと。
 ずっと《夢》で見ていただけだと言っていた。現実に起こりうるかどうかも不確かな。それが明確となった数日後、カイリは姿を消した。


[短編掲載中]