あれ、と声をあげ、柚乃は店内を見渡した。
 カイリが白露庵を訪れてから数日が経過していた。その間、何の音沙汰もない。
「おかえり、柚乃」
 テーブルを拭く隆人が顔をあげる。通例であれば伊吹の担当だ。その伊吹がいない。準備時間帯に仕入れで隆人がいないことはあっても、伊吹がいないのは珍しい。
「ただいまです。伊吹さんは?」
「病院行ってる」
「どうかしたんですかっ?」トーンが上がる。
 元気印をつけてるような人だ。具合が悪いと口にしたことも寝込んだことも、柚乃が知る限りではない。
「付き添いを突っ撥ねるくらいには元気だったけどな」
 あっけらかんと言ってはいるが、稀有な状況に不安げだった。
「大丈夫なんでしょうか。どこの病院ですか?あたし迎えに行ってきます」
「たぶん、平気だろ。と、本人も連呼してたくらいだし。…それよか、柚乃。明日命日だよな。行くんだろ」
 心配は払拭できずにいたが、付き添いを拒否した伊吹の姿が想像できて、戸口から隆人に視線を戻した。
「行ってきます。ちょうど良かったです、週末で」
 毎年欠かさず命日には事故現場へ足を運んでいた。施設にいた頃は園長が連れて行ってくれた。白露庵に住むようになってからは一人で行くようになった。付き添いがなくても行ける歳だ。
 これまでは平日にぶつかることが多く、学校を休んでいた。今年はそれの気掛かりがない代わりに、週末に店を手伝えないことが引っ掛かってしまう。そのことを口にしようとしたら、隆人が一歩早く言葉を発した。
「送ってこーか」
「とんでもないですっ。お店どうするんですか。休みにするわけにはいかないじゃないですか」
「一日くらい、どってことねーよ。行きづらい場所だろ。車の方が便利だ」
「いえ。でも…、あたしは大丈夫です」
 初めて一人で行くというわけではない。確かに不便ではあるけれど、交通機関が全くないわけではない。
「遠慮すんなって」
 隆人は全く引く気配を見せない。頭ごなしに厚意を拒絶するのも憚られる。かといって、実情と突き合わせれば素直に受けることはできなかった。
「ゆっくりご両親と話がしたいのよ。騒々しかったら、できないでしょう?」
 白露庵と居住区を隔てる扉の前に、伊吹がいた。
「伊吹さんっ。体調は大丈夫なのですか!?」
「俺が騒々しいと言いたいのか」
 柚乃と隆人、声が揃った。内容は天地ほどに異なっている。
「隆人さん、そんなことを言ってる場合じゃ…」
「そんな風に聞こえた?」
 珍しい声色で咎めようとする柚乃と、今度は伊吹の声が揃う。別段顔色が悪いわけでも、無理して冗談めかしているようでもない。
「伊吹さん?あの、」
「うん。大丈夫よ。具合が悪かったのは体調不良ってわけじゃなかったから」
 伊吹は問題あるのかないのか、判然としないことを言う。
「病院って言っても、ここなの」
 真新しい診察券を水戸黄門よろしく掲げる。そこに太字で印刷されている病院名に、自然と笑顔満面になった。
「え。ほんと、ですか?本当に?」
 おそるおそる訊ねる柚乃と、ぽかんと口を半開きにして固まっている隆人の顔を満足げに眺めた後、宣言した。
「ご懐妊、よ」
「すごい!わぁ、嬉しいですっ。良かったですっ!おめでとうございますっ」
 三人しかいない店内が、一気に華やいだ。

 諦めなければいつか、想いは神様に届く。
 声なき声が、心に響いていた。






 翌朝。
 嘉瀬夫婦に告げていたよりも早い時刻に、柚乃は外出の準備を整え、白露庵の真ん中に佇んでいた。
 誰もいない、静かな空間。朝の清涼な空気に満たされる店内を、ゆっくりと眺める。
 吉報に三人で大喜びしたのが夢ではなかったことは、テーブル席に残されていた診察券が物語っていた。笑い声が零れる。
 こんなとこに置きっぱなしにしてる。伊吹さんらしいな。
 しっかりしているようで案外ざっくばらんな性格で、時折抜けている。そんな時に限って隆人がしっかりしていたりするので、夫婦でバランスがとれているのだろう。その隆人さえも気づかないとなると、相当浮かれていたということだ。
 無理もない、と嬉しくなる。医者には絶望的だ諦めろと断言されていたらしい。これは奇跡だと、呼べるもの。
 失くしたと慌てて捜す必要がないように、カウンター席のテーブル中央に診察券を置いた。店内に入ると真っ先に目がいく場所だ。傍にあったメモ帳を一枚切り離してペンを持つ。
『おはようございます。少し早めに出ます。いってきます。柚乃』矢印を斜めにひく。『大事なもの、失くさないで下さいね』矢印の先端に診察券を置いた。余白の下の方に追記する。『お祝いしましょうね』
 ペンを元の位置に戻し、もう一度、店内を見渡す。そこに、自分を含む三人の姿を見た気がした。
 笑顔は本当に心からの笑顔だった。本当に嬉しかった。二人の幸せな顔を見られることが、幸せだった。だから内心で、ここを出て行く時期が早まったことを嘆いてしまっていることを、醜いと感じた。
 いずれ、と漠然とは考えてきたことだった。ずっと一緒に、この白露庵にいることは叶わない。ここに来た時から、決めていた。
 ――また、棄てられるのは、怖いから。だったら、自ら離れる方がいい。
 時期がほんの少し、早くなっただけ。いつでも、きちんと覚悟を決めていなかった自分が悪いのだ。
「……行ってきます」
 誰もいない空間に呟いた。
「おう。気をつけてな」
 心底油断していた分、びくつきは大きなものになった。
「た、隆人さん!?」
「はよーっす。早いんだな」
 欠伸を噛み殺しながら、寝起きそのままの格好でいた。
「もう行くのか」
「っ…は、はい。目が覚めてしまって…。始発も出ていますし、行ってきますね」
 心音がうるさい。驚いた故の純粋なそれと、思考を読み取られてしまったらどうしようという曖昧な不安に対する緊張が相乗している。
「花束どーすんだ。カスミ草の」
「向こうの駅前にあるんです、お花屋さん」
 命日には必ず、カスミ草の花束を持っていく。施設にいた頃は、施設で育てていたカスミ草を花束にしていた。白露庵に住むようになってからは花屋で購入している。それを隆人が覚えていたことに驚く。
 これ以上隆人と対面しているのでは心臓がもたなくなりそうだった。じゃあ、と言って早々に踵を返した。
「ゆーのぉ」
 間延びした口調で呼び止める声に、またぴくんと肩が揺れた。
「気をつけて行ってこいよ」
「…はい」
「ちゃんと帰ってこいよ?」
「………え。はい…」
 隆人の表情からでは、何を言わんとしているのか判らない。戸惑いつつも、素直に質問に対する返答を返した。
「ちゃんと帰ってきます。道順は頭に入ってますから」
 隆人が言いたいのはそんなことではない、と勘ぐってはいたが、敢えて触れるのは避けた。ここはとぼけるべきだ。
 けれど紡がれたのは、柚乃の推量を汲み取った形のもので。
「いなくなろうとか考えんなよ。ここが柚乃の家なんだからな。俺達は家族なんだ」


[短編掲載中]