風が頬を撫でていく。木々がざわめき、陽の暖かさを背中に感じていた。
 降ろしていた目蓋をゆっくりと上げ、柚乃はしゃがんだ格好のまま振り仰ぐ。見えるのは、かつてトンネルであった物の残骸。
 事故以来封鎖され、工事現場で見かけるような鉄パイプがバリケードを作る形で入口を塞いでいた。トンネル内は土砂で埋もれていて、人が通る隙間すらない。迂回する形で新たに造られたトンネルは名称も変え、事故の記憶は時と共に風化していく。使われなくなった元トンネルへと続く道も、枝分かれした部分から先はアスファルトが砕け、ヒビ割れ箇所から雑草が生えていた。新たに主要道路となった道とは対照的に、ひっそりと悲壮感を漂わせている。
 命日に訪れる人々は最早、遺族のみとなっているのだろう。年々献花は数が減っていく。
 その中に紛れているカスミ草の花束。毎年、柚乃がくるよりも早く、置かれている。みずみずしく生気を湛える咲き姿から、おそらく同じ日に来ているのだと推察していた。その人物を見たことは一度もない。
 母親が好きだった花。父親が記念日には必ず贈っていた花。カスミ草だけの、花束。
 同じ好みがいてもおかしいことではない。けれど、他の花達の引き立て役であることが通例の花を主役にした花束など、そうそうない筈だった。
 思い当たる人物と鉢合わせしないことに、胸を撫で下ろしている自分は、確実にいた。
 柚乃が添えた花束のラッピングが風に揺られて、かさかさと音を立てる。
「綺麗にラッピングしてあるでしょ。お花屋さんは包装のプロでもあるよね。あたしのラッピングは、いつまで経っても上達しなかったなぁ」
 家族に話し掛ける時だけは、丁寧口調は自然解除となった。
 施設にいた十年間、欠かさず献花にしたカスミ草。綺麗に花を咲かせるのは年をおう毎に上達していったのに、花を飾る技術はちっとも巧くならなかった。十年間は、不恰好な包装の花束がこの場所に添えられてきた。
「不器用は改善されてないんだな」
 いきなり降ってきた声に、純粋にびっくりする。
「珍しく鉢合わせだな」
 真剣なようで、ともすれば陽気ともいえる声音が背後からした。声の主はすぐに判って、訊きたいことはあるけれど、まずは第一声をどうすべきか逡巡した。振り返り、相手を見据える。思わず鋭くなった柚乃の視線に、相手は苦笑を洩らした。
「んな、睨むなって。久し振り」
 彼の肩に担いでいた花束が、竦めることによって揺れた。色とりどりの花達の、柔らかい香りがする。脇を通り抜け、さきほど柚乃が置いた花束の横に添えた。両手を合わせ、目蓋を降ろす。施設から忽然と姿を消して以来逢っていなかった背中は、男らしい広さがあった。すっと立ち上がると柚乃に向き直る。
「お久し振りです。元気…していたようですね」
「皮肉?」
 真摯な顔つきは笑音とともに霧散した。
「厭味です。薄情者に伝わって良かったです」
「間違いねーな」ははっ、と笑う。「悪かったよ」
 さらりと言う。が、謝罪が真剣なものだというのは判った。怒っているのも馬鹿らしくなり、先日自分を訪ねてきたことと併せて帳消しだな、と自己決着。
「柚乃も、元気そうだな」
「はい。カイリは…少し逞しくなりましたか?」
 城本カイリは、施設にいた頃から躯を鍛えるのが好きで、よく運動していたのを覚えている。細身なのにバランスよく筋肉がついていた。体躯ががっちりしたというよりは、纏う空気が変化したようにも映る。
「相変わらず、躯は動かしてるよ」
「そうですか」
「相変わらず、の言葉遣いなんだな。自分のものとして定着してる感じだ」
 同胞の鋭さに曖昧に笑い返す。
「定着してますね」
「そんなん、俺にまで使うなよ」カイリはぼやく。
「距離作られてる感じでもしますか?」
 隆人が誕生日プレゼントの代わりに欲しいと言ったこと。近しい間柄であれば誰もが抱く不満なのだろうか。
「まぁ、そうだな。マスターみたいな人だったら、日々ぼやきそうだ」
 マスターとは、隆人のことだろう。カイリが白露庵の客でないことが判った時点で、隆人がどんな表情を浮かべたか容易に想像でき、笑いが込み上げた。
「さすがに無いですよ」
 日々ということは無いです。とは飲み込む。
 結局、隆人の望みに添う努力すらしていない。
「にしてもだ。なんでまた、そんな馬鹿丁寧なわけ」
「そう心掛けている方が、気が抜けなくていいんです」
「気を抜くことは悪いことじゃないだろ」
「そうですね。でもあたしは、器用じゃないですから。これくらいが丁度いいです。カイリは、いかにもって感じでしょう?ああ、施設育ちね、ふぅん、じゃあ多少素行が悪くてもしょうがないよね、みたいな目で見られるの、厭だったんです」
「何気に言ってくれんじゃねーか」気分を害したというより、興を見つけた面構えになる。「どのみち、ばれたらそーゆう目で見られんだ。どんな態度であろうと、同じだ」
 同じ屋根の下で暮らした年月は、気持ちの上で家族と呼べるほどに絆は深くなる。顔を合わせる時間が多ければ多いほど、心の距離は近くなる。別々の暮らしを開始してからは連絡の一切をとっていなかったことが作り出した余所余所しさが、嘘みたいに消えていく。
「ギャップ楽しめますよ。蓋を開けたら可哀想な境遇なのね、でも曲がらずに生きてるのね。って」
「腹ん中では性悪な感じだな」
「失礼ですね。表面を作るのは、必要なことです。あたしの場合、その表現がカイリとは違っていたというだけのことです」
「ま。真似させてもらって、役には立ってるけどな」
「真似、ですか…?」
 カイリは可笑しそうにしている。状況を思い出しているのかもしれない。
「柚乃はさ、憐れんでほしいのか?褒められたいのか?」
「どちらでもない、ですね。なんでしょう。巧く騙せてる、してやったり。みたいな感じでしょうか」
 会話に合わせて、柚乃はふざけてみせた。ふざけること自体が稀有なことで、カイリは驚くも、軽く返してくる。
「やっぱり性悪だな。俺には理解不能だ」
「人それぞれってことですね。本性、ばらさないで下さいよ?」
「約束できない相談だな」
 つい、と視線を動かして、カイリはトンネルがあった方向を見遣った。涼しげな横顔は変わらない。昔のままだ。思わず見惚れる。
「――ゆん、って」
 唐突な呼び名に、心臓が跳ねた。そう呼ばれるのは、もう想い出の中でしかない。
 身構えた柚乃に構わず、カイリは続けた。
「その呼び方、教えてないんだってな。あの、伊吹さん、っていったっけ」
 返答を捜すも、見つけられない。カイリの言わんとするところを、掴みたくないと心が拒絶する。
「家族限定だからか?あの人達では、家族にはなれない?」
 ふる、と首を振るのが精一杯だった。己の抱える思考など、巧く話せる自信がない。
「いい人達に見えたけどな、俺には。今のお前を見れば、判る」
 カイリは見透かしている。その上で、答えを求めてはいなかった。


[短編掲載中]