家族になれると、彼らは受け容れてくれると、柚乃にも判っていた。判っていたけれど、家族にはなれない。血の繋がりが何だと一笑に伏す隆人に、躊躇無く同意する伊吹に、甘えられない。
 いつかあの人達の元を去ろうと考えてる自分に、それを望む資格などない。
「伊吹さん、なんて訊いてきたんですか」
「愛称ってないの、だって。もっと近づきたいんじゃねぇの?本当の家族になりたいって、」
「無理なんです」
 カイリの言葉を最後まで聞くのが辛かった。最後まで聞かなくても、判っている。強い語調で遮った。
「二人が悪いんじゃない、です。…その呼び方はもう、封印したいのです」
 存在が近くなればなるほど、離れ難くなる。棄てられるかもしれないと、勝手に想像して、勝手に怯えている。
 そうか、と呟いて、カイリは口を噤んだ。
 同胞で、家族で、友人だった者を、心配しているのだと、伝わっていた。あそこにいたいのだという本心を、後押ししてくれているのかもしれない。彼には、望んでも得られなかったものを、柚乃は得られるかもしれないから。

 城本カイリの父親は、小さな犯罪を繰り返しては刑務所への出入りを繰り返すような男だった。母親が何故、そんな男を待ち続けていたのか。塀の外へ出てくる度に迎え入れたのか。二人を近い位置で見て来た自分には理解不能な感情だった。と、カイリは親のことを語る時、必ず言った。それはいつまでも変わらない、永遠に判らないな、とも。
 暴力を受け精神が壊れても、息子の顔が判らなくなっても、母親はその男のことだけは覚えていた。何度も裏切られ、何度も待たされ、それでもただ一人だけを、愛し抜いた。そして、その者の所為で死んだ。カイリはそう思っている。おそらくそれは、事実と相違ない。
 産まれてこなければよかったのだと、男に何度も言われた。邪魔な存在なのだと知らしめるには充分なほどの仕打ちも受けてきた。およそ愛情が注がれるとは遠い環境で、カイリは育てられてきた。否、育てられたとは言い難く、ただ生かされてきた。
 あの日までは。
 母親が精神病院に入院し、還らぬ人となった数週間後。カイリにとって耐え抜いた日々からの解放が、待ち望んだその日が、本当の意味での解放となった。
 まだまだ幼い歳頃だったカイリを連れ、とっくに放棄していた親としての責務を、父親は公的に放棄することを決めた。カイリを施設に預けることにしたのだった。
 施設に向かう途中、地震によるトンネル崩落事故により、父親は死んだ。
 バスに乗っていた乗客で助かったのは僅か二名。カイリと、カイリと同い歳だった少年だけ。
 神は存在すると初めて信じた。とは、施設に入ってから数年後、カイリが口にした言葉だ。

 カイリは、当初予定していた施設ではなく、柚乃と同じ施設に入ることになった。どういう経緯が発生したのかは知るべくもないけれど、柚乃はそうなって良かったと思っている。
「俺がここに来るのは、罪悪感からだ」
 事故が起きてくれたから、父親が消えてくれた。事故に感謝する。おかげで自分は解放された。――同時に、罪悪感が打つ。他にも亡くなった人がいる。事故さえなければ失われずに済んだ生命がある。喜んではいけないことなのに。
「花はあいつ以外の人達に手向けてる」
 きっぱり断言する。おそらく本心。再び柚乃に見せた横顔は、先ほどよりもずっと、悲しげに見えた。
 カイリが想起するのは、事故後、世間が見せた態度だろうか。カイリの境遇は、マスコミの格好の餌だった。過去を暴き、脚色し、同情の仮面をつけて、幼かったカイリを祭り上げた。可哀想な子供として。
 あの勢いが、園長の背中で護られることなく晒されていたならば、カイリの心は閉ざされたまま、腐敗するのみだったかもしれない。柚乃は、自身に直接向けられたものではなかったにしろ、ひどく怖かったのを覚えている。
「あの男と物理的に離れるだけではたぶん、もっと違った感情を持ち続けていたと思う。だけどこのトンネルは、あいつを永遠に逢えない場所にまで連れ去ってくれた。俺は神に感謝したよ。事故をありがとうってな。でも、だからといって、事故を喜んではいけないんだよな。だからこれは、他の犠牲になった人達への手向けなんだ」
「でも、」柚乃はいったん言い淀んだ。
 柚乃にカイリの父親をフォローする義理はないのだし、カイリがそこまで父親を嫌う理由を、聞かされているものだけでも充分だった。
 それをまるっきり認めてしまうのは、自分の中のどこかが、否定したいと願っていた。ほんの少しでも、言葉通りなだけではない部分があると、思いたかった。
 それは、柚乃自身の為でもあって。
 カイリの抱える闇に共感してしまいそうになる自分が、怖い。
「でも、施設まで送り届けようとしたのは、少しでも親としての想いがあったからではないでしょうか。そうは、思えませんか」
「お人好しだな」嘲弄というよりは、呆れている笑音を洩らす。「子供を棄てるのに、情もへったくれもないだろ」
「ですが…」
「柚乃はまだ、兄貴のこと…?」
 カイリを捉える視線が尖る。
「話をすりかえるのはズルイです。今はカイリの話をしているわけで、」
 もういいよ、といった風に、カイリは手をひらひらと振った。
「なんと言われようと、俺の感覚が変わることはねーよ。それでいいんだ。問題なし」言い切って、少し逡巡する。「血の繋がった奴らからの愛情なんてもらったことないけど、その分、人としての温もりは与えてもらったな」
 だから愛情を知らない、とは言わない。とカイリは言いたいのだろうか。横顔を見ながら、柚乃は本音を読み取ろうとした。
 事故までの境遇も性別も違えど、同じ事故で肉親を失った。他の子達よりも強く繋がりを感じてしまうのは、柚乃だけではなかった筈だ。なのに突然、カイリは施設宛の短い手紙を残し、消えた。理由があるにせよ、せめて自分には何らかの形で知らせてほしかった。
「あそこはいい空間だったよな」
「施設のことですか」
 笑みをくれることでカイリは肯定する。
「勝手に飛び出して、園長怒ってたか」
 ずっと気掛かりだったのだと、推測できる面持ちだった。カイリにとっての家族は、施設の園長であり、職員であり、同胞達だけ。
「怒ってました」
「…そうか」
「それ以上に、寂しそうでした」
「……そうか」
 カイリの纏う空気が、怒られた子供みたいに萎んだ。萎んでいるのに、内には強靭な想いが潜んでいて、それはひとつの結論に結びつく。その結論を言葉にするのを躊躇うけれど、たぶんこの機を逃せば、二度と問い掛けられないという予感があった。
「戻らない…んですよね」
 ここで逢えたのは偶然が招いた奇跡みたいなもの。
「ああ」
 カイリは端的に返す。
「見つけたのですか」
「……ああ。見つけた」
 穏やかに笑む。かつてのカイリからは予測もつかないほどに、穏やかに。
 驚き、戸惑い、けれど次の瞬間には、奇妙なくらい落ち着いた。柚乃に話してくれた《夢》の、護るべき宿命の相手。――カイリが総てをかけたいと願う相手。
「そう、ですか」
 絞り出すように、返した。
 もう逢えないのだと予感があり、それはたぶん現実で。寂しくもあり、引き止めたい衝動に駆られる。けれど、許されない。
 柚乃は、止めるだけの理由も、止めていいだけの理由も、持ち合わせていなかった。


[短編掲載中]