薄闇が色を濃くする時刻に柚乃は最寄駅の改札を出た。客待ちタクシーの横を素通りし、白露庵の方向へと歩いていたら、名前を呼ばれた。嘉瀬家の自家用車の助手席側に躯を乗り出して、手招きする隆人がいた。
「びっくりしました」
 シートベルトを締めるなり、微細な咎めを含めて隆人を見る。
 電車に乗る前に、その旨を伝えるメールを入れた。返信には「気をつけて帰ってこいよ」と短い一文があっただけ。それでなくても迎えは不要と念押ししてきたというのに。
「思い立ったが吉日」
 隆人は意味不明なことを得意げに言う。
「迎えとか、必要ないって言ったじゃないですか。伊吹さんの近くにいて下さいって、あたし言いましたよね」
「そうそう。その伊吹がだな、さっぱりしたもん食いたいっつーから、な?」と後部座席を指差す。
 ぱんぱんに膨らんだエコバックから、グレープフルーツが顔を覗かせていた。
 どっちがついでかどうかは重要ではない。心配性すぎるきらいはあるが、それは幸せなことだと受け止められる。カイリと話をしたばかりだからだろうか。余計そう思えた。
 暖簾に腕押し、とは今の隆人のことを指すと見切りをつける。
「その伊吹さんの体調はどうですか」
 その、を強調してみる。隆人は微苦笑した。
「すこぶる元気だ。本人にしてもここ数日の体調不良の原因がはっきりして、すっきりしてんじゃねぇの」
「それなら、良かったです」
「あいつ、来てんぞ」隆人は苦い顔になる。
 急な話題転換は真木瀬の影響だろうか、なんて思うと笑える。
「あいつ?」
「汐見唖津」
 心底嫌そうな顔を作るくせに、フルネームで覚えていることが可笑しかった。
 唖津はあの日以来、ほぼ毎日の頻度で白露庵を訪れていた。第二の真木瀬だと、伊吹にはからかわれている。真木瀬との違いは、客として席に座っていないことだった。
 よほど勤務スタイルが気に入ったらしく、労働がくっついてくることなどおまけくらいにしか考えていないようで。実に生き生きとして、最近では接客までこなすようになっていた。
「今日いないこと、言ってなかったんだな」
「…そうですね。って、なんか嬉しそうに見えますけど」
 柚乃が首肯した途端、隆人の表情が緩んだ。
「そんなこたぁねーよ」
 唖津の名前を口にした時より明らかに上がったトーンで否定する。
 隆人って単純明快だからからかい甲斐があるよのねー、と嬉々として宣言していた伊吹の気持ちが理解できた気がした。
「隣町でバーゲンあってよ、チャリで買いに行かせてやった」
「えっ!?」
 小学生の苛めですか、と内心で突っ込む。
 車で行けばたいしたことはない距離だが、自転車となるとなかなかの遠さだ。こうして車を出すのなら、それこそついでに買いに行けばいいのに。
「隆人さんー…。無賃なんですからコキ使わないで下さい…」
「なにを言う。嬉しそうに出掛けていったぞ?」
 正式に雇ってるわけじゃないしうちには金が無い。だからバイト代は無いと思え。と胸を張って白露庵のオーナーは断言した。
 例によって、唖津の回答は「金持ちの息子ですから」だった。同じ台詞を同じタイミングで言い放った柚乃がいなければ、立ち入り禁止になっていたかもしれない。なんだかんだで、弟分みたいに思っているのかな、という感触は、時々ある。
 駅から白露庵までは車で五分くらいだった。自宅の駐車場に停め、エコバックを持ったまま居住区を通り抜けて店へ踏み入った。
「伊吹さん、ただいまですー」
 姿を探し、見つけ、動作が止まる。
 テーブル席に伊吹は座っていた。戸惑った表情を向けている。伊吹の向かいには見知らぬ男が折目正しく着座していた。客ではないと、直感が悟る。
「どちら様?」
 柚乃のすぐ後ろに続いていた隆人が、動作を止めた柚乃の横をすり抜け、テーブルに近づいていく。数歩遅れて後を追う。ぎこちない足運びになっていた。
 隆人が近づくのに合わせて男は立ち上がり、黙礼した。隆人は会釈を返し、テーブルに置かれた名刺を取り上げ、眺めた。
「秘書の方、ですか。なんの御用で?」
 声に警戒が滲んでいるのは見慣れない肩書きの所為だろうか。少し離れた位置で硬直していた柚乃は、唐突に向けられた男の視線に身を竦めた。
「芳越柚乃さんにも同席願えますか」
 伊吹が目配せした。表情は硬い。粗方の内容は聞いているのかもしれない。
「彼女のことでお話があります」
 奥村と名乗った男は、伊吹の隣に座る柚乃の動作を終始観察するようにして見ていた。隆人は隣のテーブルの椅子を引き、通路に陣取る格好で座っている。
「単刀直入に申し上げます。芳越柚乃さんを引き取りたいのです」
 こいつは知り合いか、という隆人の視線に首を振る。全く覚えがない。
「貴方が、ってわけでもないでしょう?単刀直入すぎて、詳細が見えませんが?」
 横からかっさらって行くつもりか、ふざけんな。とでも続きそうな口振りだった。客じゃない上に柚乃絡みとなれば、俄然態度が悪くなるのが隆人の悪いところだ。
 奥村は能面のようで感情が読めない。隆人の態度を受けても、ぴくりとも動じなかった。淡々と低音に話されると妙な威圧感がある。不意に目が合って、咄嗟に逸らす。逸らした先に奥村が差し出した名刺があった。秘書という肩書きであれば、代打の可能性は充分にある。肩書きの横には大企業の社名が印字されていた。
「どこの、誰が、柚乃を引き取りたいと言ってるんです。何故?」
 隆人はすでに喧嘩腰だ。盾になってくれているのが、嬉しかった。奥村は盾には頓着せず、真っ直ぐに柚乃を見据えている。
「芳越朔さんを、ご存知ですね」
 疑問符をつけてはいるが、断定的な物言いだった。調査済みですと報告書を読み上げるのに似ている。
 その名前に反応したのは柚乃だけではなかった。三者三様に反応したが、三人共が素知らぬ顔を作った。
「その方の要望です。貴女をずっと、捜しておられました」
「知りません」
 打って響く早さで答えたのは柚乃だった。強い語調。強い、拒絶。
「まさか。お兄さんでしょう」
 驚いた声を作って発しているものの、全く驚いている風ではない。予想の範疇、ということなのかもしれない。
 どこまで調べているの。ぞわりと背中が冷える。
 秘書の肩書きをかざしている以上、個人の依頼ではない。大企業ともなれば人ひとり捜すくらい造作ないことなのかもしれない。奥村の双眸を見ていると、どこまでも調べていると、言われている気になってくる。
「あたしに、肉親はおりません。お話はそれだけですか」


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