揺らがず、動揺を見せず、言い切った自信はあった。
 柚乃を捜すことは、万に一つも無い可能性だった。絶対に無いとは決め付けられなかった。内側の隅の方で、覚悟はしていた。こんな時は、いつかはくるかもしれないと。
「こちらとしても、根拠の無いことを申し上げているわけではありません」
 奥村は機械的に返す。能面は崩れない。これも想定していたことなのだろうか。同時に、調査されていた期間が存在するとすれば、全く気づかなかった事実にぞっとした。
「お帰り願おう。話は終了だ」
 隆人は吐き捨てる。張りつめた空気が間に漂う。数瞬の睨み合いをふと解いたのは、奥村だった。溜息ともつかない呼気を吐き出し、スーツの内側に手を差し入れた。辟易した色が頬に浮かんでいた。
「失礼承知で、少々調べさせていただきました。こちらの経済状況は充分とは言えないものかと」
 何をもってして「充分」などと判断するのだろうか。
 銀行の袋が窮屈そうに厚みを持ってテーブルに置かれた。封ができないほどの膨らみようで、紙の束が見える。
「これは、これまで柚乃さんの面倒をみていただいた謝礼ととって下さい」
 露骨に眉をひそめる夫婦を無視し、端的に続ける。
「必要があれば更にお出しします」
 柚乃をこちらに引き渡せば、との孕みが窺える言い方だった。
「ふざけんなっ!帰れっ!!」
 派手な音が店内に響いた。感情のままに立ち上がった隆人の後ろに椅子が転がる。封筒を鷲掴みにし、相手側のテーブルに向かって叩きつけた。破け、中身が飛び散る。
 隆人が激昂した分だけ、柚乃は冷静になれた。あまりにも突飛な展開に、笑いすら込み上げそうになる。非現実的な感覚で、どっきりカメラでも仕込んであるのではないだろうか、なんてことまで思ってしまう。
 けれど、隆人の表情も、伊吹の表情も、演技には到底見えない。冗談好きだが、こんな心臓に悪いことをするような人達ではない。だとすれば、これはやっぱり現実で。
 こんな大金を、自分が依頼人の元へ行けば更に出す?
 自分に、そこまでの価値があるとは思えない。そして、自分を捜していた人物に、これだけの財力があるとも思い難かった。奥村との繋がりも見えてこない。
 それより何より、見つかってしまったという事実に、落胆する。
 複雑に湧き起こる感情の波を巧く消化できず、その状態を見られたくなかったという理由もあって、柚乃は床に散らばった紙幣を拾い始めた。一枚一枚手の中に紙幣を集めていくように、頭の中も綺麗に整理できたらいいのに。
 このタイミングで見つかるということは、そういう運命だったのかもしれない。
 目の前に札の束が形成されていくのに貨幣としての価値はなく、単なる紙切れに見えていた。倹約してきた自分の貯蓄よりも多い金額をぽんと出せる人間がこの世には存在する落差に、皮肉な笑いが零れそうになる。
 総てを拾い上げ立ち上がり、テーブルの上で端を揃える。とんとんと軽やかな音が、切迫状態の隆人と奥村の意識を向けさせた。破けてしまった袋に紙束を包み、奥村の胸のあたりに差し出す。
「帰って下さい。お話することはありません」
 冷淡に柚乃が言い放ったその時、
「奥村さんっ!」
 唐突の侵入者は激しく揺れる鈴の音と共に飛び込んできた。瞠目し、入口を見遣った。その人物は真っ直ぐに奥村を射抜き、声を荒げた。
「勝手なことはしないで下さいとお願いした筈です!!」
 自分に向けられたものでなくても発せられた怒りに、誰もが押し黙った。
 奥村の登場までは、彼の口から名前が出た後までは、壊すほどの勢いで扉が開かれるまでは、柚乃はどうにか自我を保っていられた。
 それは今、この瞬間に、呆気なく崩れ去る。
 震える膝で自身の体重を支えるのが困難になる。目が、離せなくなる。
 絶対に有り得ない、とは思っていなかった。もしかしたら、いつか、こんな日が来るのかもしれない、と思ってはいた。巧妙にかわせる自信は無かった。想定すら、できなかった。実際に起こりうる時がきたなら、自分がどう反応するかなんて、想像できなかった。だから祈るしかなかった。こんな日が訪れないことを。
 水を打ったように静まり返る。誰が口火をきるのかと、互いに窺っているようでもあって。
 こっそりと、音を立てないようにして、柚乃は隆人の背後に隠れた。己の視界にあって、冷静を保てる自信がまるでなかった。
 もっと、怒り的なものが込み上げると予想していた。実際には、正反対な感情が湧き出すばかりで、ひどく戸惑う。懐かしさが、痛い。
「…あの…すみません。俺…」
 奥村から視線を外すと途端に、声のトーンも刺々しい空気も萎んだ。
「どちらさん?奥村さんとは知り合いのようだけど」
 隆人は依然憤然醒めやらぬ状態。棘々しさ全開だ
「てか、うちに何度か来てたことあるよな」
 職業病とも言える隆人の得意技は、人の顔を一度覚えるといつまでも記憶していることだった。うち、とは白露庵の営業時間内を指しているのだろう。
 十二年離れていたとはいえ、面影はある。柚乃ならば、街ですれ違っても気づける自信が持てるほどに。
 柚乃が立ち入りを禁止されている時間帯に店にきたことがあるとすれば、隆人と伊吹は顔を知らないのだから、気づかないのは無理もない。家族構成くらいは知っている可能性はある。柚乃の態度から、後からきた青年が兄であると察している筈だ。朔の名前が出た時に兄の存在を否定したことで、柚乃が抱く感情を察している筈だ。
 心臓の音がうるさすぎて、頭の中が真っ白になる。場から逃げ出したい欲望を必死に抑え込んだ。この瞬間だけ逃げたとしても、意味がない。
「偶然なんです。こちらに来ていたのは、本当に純粋に客としてで…」
 柚乃の兄――朔はしどろもどろになっていた。さっきまでの勢いは微塵もない。
「偵察にきてたのか、客としてきてただけなのか、関係ねぇよ」
 隆人はぴしゃりと撥ね退ける。にべも無い言い草に、朔は黙るしかなかった。混乱しているのは柚乃だけでは無い。目の前にある表情が演技だとすれば役者になれるなと、どうでもいいことを思う。
「奥村さんには伝えてあるが、用件は済んでんだ。柚乃はどこにもやんねーよ。まとめて帰ってくんないか」
「隆人さん、ごめんなさい。あたしが…」
 居た堪れない。店外へ出るべきだ。二人を巻き込んではいけない。特に伊吹は、子供ができたばかりの大切な時期だ。精神的に負担をかけるわけにはいかなかった。
「柚乃が謝るこたぁねーんだよ。――こちら側には話すことが無い。あんたらの用は済んだだろ」
 優しい声色も後半は向ける相手を替え、棘々さが再来した。隆人の態勢に、鼻の奥がつんとする。背中越しに、隆人の口癖が聞こえた気がした。
 ――子供は子供らしく、必要な時は頼ってればいーんだ。ガキのくせに気ぃ遣いすぎだ。
 朔は一度奥村を窺い見るも、能面から何かを読み取ったのか、再び隆人に視線を動かす。それから、ゆっくりと斜め下へ、柚乃を見る。
「ゆん、」
 躊躇いがちに、十数年ぶりに、ひどく懐かしい声が、懐かしい呼び方をした。声に篭る温度は、変わらない。意識が過去に、戻りそうになる。
 声を出せば、声にならない音が零れるのが判っていた。唇を引き結び、耐える。
「ゆん、俺…。ずっと捜してたんだ。けど、手がかりが無くて」
 朔が一歩踏み出せば、柚乃は益々隆人の陰に入った。落胆を隠しもせず、小さく息を吐いて朔は踏み止まる。言いたいことを、隆人や伊吹越しに、柚乃に語りかける。
「こちらの店には何度か足を運んだことはあります。先日、常連らしき人と話している柚乃を見つけて、似ているとは思ったんですけど、まさかこんな近くにいたなんて思いもしなくて…。眼鏡で隠れていたホクロが見えて」
 真木瀬に眼鏡を取り上げられた日のことだ。あの日は店に入るなり真木瀬に捉まり、店内を見る余裕が無かった。
「…ゆん。こんな形ですまない」
 奥村が受け取らなかった紙束は、まだ柚乃の手の中にあった。これが兄の差し金であるとか違うとか、どうでもよかった。
 重要なのは、あの晩、柚乃を棄てた事実。
 顔を見ずに、園長に決別宣言だけを残して、去っていったことだ。園長にずっと、嘘を吐かせていたことだ。
 朔は引き取られて行って以降、施設に顔を出すことはなかった。柚乃はじっと我慢した。それまで自分を護り、大切にしてきてくれた兄が逢いにこない理由があるのだと、信じていたから。
 去る日に、いつか迎えにくると言った言葉を、信じていたから。
 朔は貴女を迎えにくる、と言い続けた園長を、信じていたから。――あの瞬間までは。
「……人違いを、されてるみたいですね」
 思いの外、声が震えていないことに安堵した。朔の瞳が、切なく歪む。
「ただいまですー。ひどいですよ、隆人さん。どこが近所ですか、あの距離で」
 緊迫した空気に、鈴の音と共に割って入ってきたのは、ぼやきながら大量の荷物を両腕いっぱいに抱えた唖津だった。
 踏み込んですぐに、店内の雰囲気を察知したらしい。状況把握までとはいかなくても、柚乃に疑問をぶつけるような視線を投げてきた。それを、柚乃が向けている人物へと移し、瞠目する。
「え。どうして兄さんがここに…?」
 朔は一瞬戸惑うように視線を泳がせたが、先手を打つ相手を揺らがせることなく、柚乃を見た。その唇が動く前に、柚乃は最終宣言をした。
 嘘でもいい、言ったことが現実になればと、祈りながら。
「人違いです。あたしに兄はおりません」


[短編掲載中]