芳越ではなくなった兄が、いた。
 しばらく振りに見た兄の横顔は、深く沈んでいた。扉の向こう側で、園長先生と向かい合って座っていた。時刻は、深夜。通常であれば、柚乃は眠りの中にいる時間。
 施設に来て、朔が引き取られていって、数か月が過ぎた頃だった。夏が終わり、秋に差し掛かった頃。
 あの日は、少し眠っては起き、しばらくして眠り、また目を覚ます、を何度か繰り返していた。心が落ち着きなくて、そのうち完全に目が覚めて眠れなくなった。部屋を出て、園長室から灯りと話し声が漏れているのを発見し、吸い寄せられるように近づいた。廊下はひんやりと冷たくて、足の指を丸めて震えながら扉の前に立っていた。
 隙間から、逢いたいと思っていた兄が見えた。ドアノブに手を伸ばし、兄の隣にいる男の人が視界に入る。誰だっけ、と首を傾げた瞬間、思い出した。
 兄を引き取った、兄が園を去っていく時に、迎えにきていた人だ。兄と血の繋がった父親。
 柚乃と朔は、半分しか血の繋がりがない。
 事故で失ったのは柚乃と朔の母親で、柚乃の父親だった。朔の父親は別にいる。父違いの、兄妹だった。芳越家には、そんな事実は何の意味も成さなかった。家族だった。
 自分とは血の繋がらない朔を、父親は大事にしていた。柚乃と分け隔てることなく、愛情を注いだ。
 だから本当の父親が現れた時、引き取りの申し出があった時、朔は困惑していた。園長先生から話を聞かされた時、柚乃と繋いでいた朔の手が、ぎゅっと力を込めたのを、覚えている。
 朔の父親が、朔と共に園を訪れている。しかも、園の子達が寝静まった時刻に。胸の奥が落ち着かなくなる。息をじっと詰め、耳をそばだてた。
 あの時、あの言葉を聞かなければ、今でもずっと、兄の言葉を信じ続けていただろうか。頑なに、迎えにくる日を信じ続けられただろうか。
 兄は静かに、けれどはっきりと、宣言した。
 ――柚乃とは、逢いません。
 兄の声が、断言したのだ。
 柚乃の中で、崩壊する音が鳴り響いた。ぎゅっと手を握り締め、出てきそうになる涙を必死に堪えた。どうやって部屋に戻ったかは記憶にない。部屋に戻って、布団に潜り込んで、泣いたことだけが鮮烈に刻まれている。
 涙が止まる頃にはひとつの塊が、心に大きく存在していた。奇妙なくらい単純な結論が、柚乃を納得させたのだ。
 汐見家に行った兄が、自分に逢いにこなかった理由。
 逢いにこないことで、ずっと、言われてきたことがある。
『朔はいいとこにもらわれていったんだから、柚乃のことなんて忘れちゃったんだよ。迎えになんてくるわけないじゃないか』
 その度に反発した。信じていたから。必ず迎えにくると言った兄を、あたたかくて安心をくれる手を、信じていた。
 兄は、別世界の人間になったのだと、ようやと悟った。本当はとうに判っていたことなのに、心が拒絶していた。その拒絶に、必死に縋りついていた。周囲の声より、施設を去る時の兄の言葉を信じていたかった。
 兄と自分の生きる世界は、違われたのだ。別々の方向を向いて、交わることはない。兄が決別を口にした日は“白露”にあたる時期だった。
 それが、柚乃が施設から足跡を消そうと決意した日となった。



◇◇◇



 どこかへ、消えてしまおうかと思った。
 この街に、同じ街にいたのが、そもそもの間違いだったのだと、後悔した。
 ――本当は見つけられたかったんじゃないの?
 己の内にいる意地悪な部分が、囁いた気がした。

 たかが一人、されど一人。
 校内という限られた空間にいて、しかも同じ学年ともなれば、逃げ廻るのは結構な気力が必要になることを、昼休みを過ぎた現時点で、柚乃は嫌というほど思い知っていた。どうにかかわし続けて現在に至るも、限界は近い。向こうが自分を捜しているとなれば尚更だった。
 唖津に対して悪いことをしたわけじゃない。まして、唖津が悪いわけでもない。
 逃げる理由はない、と言われてしまえばそれまでなのだが、躯が勝手に動いてしまうのだから仕方がない。どんな顔をしてどんな言葉をかわせばいいのか、判らなかった。
 昼休み明けは理科室での実験だ。適当な言い訳を述べて先に行くとクラスメイトに告げ、教室を早々に出た。校舎の外れにあるので、無事あそこまで辿り着ければ授業終了まで見つからずに済む。
 小走りで廊下を進む。人気がだんだんと減ってきたあたりで歩調を緩めた。胸の前で抱えていたノートと教科書の隙間からプリントが舞い落ちた。躯を半転させて屈み込む。プリントに伸ばした指先がそれの端を掴み、拾い上げようと動いて、視界に別の手が侵入してきた。落とし物を拾ってくれるかに見えたその手は、プリントを素通りして、柚乃の手首を掴んだ。
 驚き、目を見開いたまま相手を確認する。唖津だった。
「柚乃ちゃん、ごめん!俺っ…知らなくてっ…。いや、人を捜してるってのは知ってたから、知らないは適切じゃないよね。…って、あー、なに言ってんだ、俺」
 捲くし立てていたかと思うと自動的に終息へと向かっていた。唖津にしてみても言葉を選んでいられなかったというのが本音だろう。故意に自分を避ける柚乃に対して、ようやと対面できたのだ。
「と、とにかくっ…避けないでほしーんだ。頼むから」
 懇願する響きに胸が詰まる。柚乃はぐっと唇を引き結び息を止めた。喉の奥の震えが収まるまで凌ぐ。細く深く息を吐き、それが震えていないことを確かめてから、ゆっくりと発声した。顔を見ることができなくて、俯いたまま。
「…ごめんなさい。手を放して下さい」
「っ、ごめんっ」
 顔を上げられなかった。
 唖津は悪くない。朔の捜し人が誰であるか、妹であることは知らされていたかもしれないが、それが柚乃であることは本当に知らなかったのだろう。言葉は信じられる。だから唖津は悪くない。
 理屈の部分では充分すぎるほどに理解を示しているのに、感情は到底追いつかない。それを態度に表し、彼を避けた。
「ごめんなさい…」
 どれに対してのごめんなさいなのか、自分でも判らなくなる。どれに対してもの謝罪と化していた。
「柚乃ちゃん、謝らないで」
「ごめんなさい、汐見くん。……しばらく、放っておいて下さい」
 ずっと唖津の顔は見れないまま、柚乃は深々と頭を下げた。


[短編掲載中]