公園を通り抜けに使うことはあっても、そこにある遊具を使うことは無い。いつ以来だろう、とぼんやり思う。
 学校帰りに立ち寄った時間帯では子供達の姿はない。母親の迎えで家に帰ったりするのだろうか。情景を想像してみて、自分には学校帰りの兄を待っていた記憶が蘇った。頭を振って、慌てて消去する。
 学校でも白露庵でも、居心地の悪さにうんざりしていた。招いたのは自分なのだから自業自得だけれど。
 柚乃は古びたブランコに座り、膝の上にある雑誌に目を通していた。所々錆びついた鎖が、前後に小さく揺れる度、軋んだ音を奏でる。
 賃金、労働時間、職種。整理整頓された各企業の求人情報がページを埋め尽くすほどに記載されている。集中しようとすればするほど、上滑りしていくだけだった。少しも身を入れられない。期限は迫りつつある。悠長にしていられないことは承知で、進めずにいた。
 誰もいないことを確認し、溜息を吐く。
 何箇所かつけた丸印。無意識のうちに、今住んでいる地域をチェックしていることに苦笑した。一度両手で挟んで閉じ、雑誌の後方ページを開く。住み込みの期間雇用の項だ。
 初めから、こちらを選択するべきだった。二年前、施設を出ると具体的に動き出した時点で、街を出れば良かったのだ。本気で見つかりたくなかったのならば。
 自分の中の弱い部分を浮き彫りにされて、自嘲するほかない。
『捜されたくないのです』
 施設を出る時になって、園長に吐露した。予想していた、とも、愕然とした、とも判然としない表情が、脳裏に浮かぶ。
 園長と最後に対面した時のことを思うと、言わなければ良かったのではないかと、今でも迷う。園長の吐いている嘘を信じているふりをしたまま、施設をあとにしても良かったのではないか、と。
 言ってしまった事実は消えるものではない。だからこれは、後悔だ。
『仮に、あの人が捜しにくることがあっても、あたしは突然いなくなったと、伝えて下さい。……あの人に、捜されたくはないのです』
 風に煽られてページの端がはためいた。催促するような動きに苦笑が漏れる。上側の角を数センチ折り曲げた。が、すぐに思い直す。
 ――白露庵を出て汐見家に行きます。
 そう宣言したのは柚乃だ。なのに仕事を捜していることが知られては意味がない。雑誌を持ち帰るのも止めた方が無難だ。連絡先だけメモをとり、折り目を伸ばしてから雑誌を閉じた。また、溜息を吐く。自覚している以上に、ショックは大きかったらしい。
 隆人が話を切り出すのに、真木瀬が出張に行っている期間を見計らったのは明らかだった。彼ならば現在の白露庵の空気を敏感に読み取っていただろうから。
 五日前、白露庵を出ると、柚乃は言った。

 すっと目の前に差し出された封筒を、柚乃はじっと見つめた。
 ついこの前にも同じ光景にいたな、と思う。自分の前に座っていたのは、奥村だったけれど。
 白露庵のテーブル席で、三人が座っていた。朝食を摂る時と同じ着座で、朝食の時とは180度違う空気を間に落としながら。向かいに座る隆人と伊吹の表情で、察しはついていた。
「柚乃」隆人が静かに切り出した。
「はい」ついと顔を上げ、真っ直ぐに目を見た。
「あれから、考えたんだけどな。金を、受け取ることにした」
 封筒を指で叩く。隆人が差し示した封筒の口からは、きちんと揃えられた札束の縁が見えていた。
「だから柚乃は…」
 隆人は言い淀み、呑み込む。抑揚も温度もなく、平淡に綴っていた言は、後半になるにつれ小さく震えた。
「…はい。出て行きますね」
 自身でも驚くほどに軽やかな声が出て、胸を撫で下ろす。
 元気印の伊吹が辛そうに顔を逸らしていた。そのことが、痛かった。
「でも、少し時間をいただけませんか。その…荷造りの準備とかもありますので」
 実際には、柚乃に準備するほどの荷物はない。もともと身ひとつでここに来たのだし、物を増やさないようにしてきた。ただ、次に住む所と仕事は捜さなければいけない。
「何故、とは聞かないんだな」
 戸惑いが、手に取るように伝わる。こうもすんなり受け入れられるとは思っていなかったからだろうか。ずっと、柚乃が心のどこかで白露庵から出て行くことを考えていたことは、二人には知られてなかったということだろうか。
 そうだと、いい。心から、そう思う。
「聞いてほしいのですか。…なんて、質問に質問で返すのはよくないですね」
 冗談めかして笑ってみたが、柚乃が期待したほど空気は軽くならなかった。
「柚乃…」
「大丈夫です。だから、そんな顔をしないで下さい」
 柚乃の顔を凝視しながら表情を切なく歪ませる二人を、見たくなかった。何故、と聞けば、嘘の理由を述べることは容易に想像がつく。二人に、嘘を吐いてほしくなかった。最初だけで、充分だ。嘘を吐くのは、自分だけの専売特許。
「あたし、汐見家に行きますね」
 清々しいほどの宣言を受け止め、隆人は「そうか」と呟き、数秒躊躇ったのち、先に居住区へと行ってしまった。残された伊吹が重い空気で負担がかからない内にと、柚乃は軽やかなトーンを放つ。
「では、さっそく荷造り開始します」
 自分の方を見ようとしない伊吹に笑顔を向け、立ち上がる。数歩進んだあたりで、緊迫にも似た声で、呼び止められた。
「柚乃ちゃんっ…私、やっぱり、」
「気づいてました」
 伊吹は、振り返った柚乃の笑顔に、息を飲んだ。
「だって、封筒の銀行名、白露庵のメインバンクじゃないですか」自然口元が綻んでいた。「ほんと、不器用ですよね」
「柚乃ちゃん…」
「もぉ。そんな顔しないで下さいってば。伊吹さんらしくないです。二人とも…らしくないことしないで下さい。大丈夫です。あたしの為だって、判ってますから」


[短編掲載中]